有馬新七とは?生涯年表と壮絶な最期、子孫と家系図を全て解説します

幕末の薩摩藩士「有馬新七」

「寺田屋事件」で亡くなった薩摩藩の過激派で「尊皇攘夷」を強く主張した人物・・・その生涯と最期

子孫と家系図もあわせてご紹介致します。


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この記事を短く言うと

・有馬新七とは、幕末の過激派・薩摩藩士で、寺田屋事件で殺害された武士

・有馬新七は、尊皇攘夷を強く主張し、島津久光が軍をひきいて京都に到着したときに、テロを起こそうとした

・末裔に「有馬秀男」さんという方がおられた


有馬新七とは誰なのか?その功績を解説

幕末の薩摩藩士「有馬新七」。本名は「正義」

過激派として知られていた「有馬新七」が、後世に名を残した理由とは?

《有馬新七》
『引用元ウィキペディアより』

有馬新七とは、何をした人なのでしょうか?

有馬新七の功績

薩摩藩士・過激派「有馬新七」の功績を短く言うと

尊皇攘夷運動に尽力した

有馬新七が何か功績を残したのか?というと、同じ時代の「西郷隆盛」や「大久保利通」などのような、明確な功績はありません。

しかし、文武両道に優れ、「剣豪」でありながら「学者」でもあったという有馬新七の名前は、後世まで語り継がれています。


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有馬新七の生涯年表と、最期

有馬新七の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1825年、薩摩藩士「坂木四郎兵衛」の子として、薩摩藩日置郡の伊集院郷・古城村で誕生

その後、父親の「四郎兵衛」が「有馬」家の養子となったため、息子の「新七」もまた「有馬」の苗字を名乗ることとなったのです。

剣豪・学者として

新七は、叔父にあたる剣豪「坂木六郎」から指導を受け、「神影流」を学びました。

1838年、14歳の有馬新七は、幕末当時のベストセラー本「靖献遺言(せいけんいげん)」について研究しています。

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この「靖献遺言」とは、「尊皇攘夷」・・・つまり

「正当な王に忠誠をつくし、その王の敵を徹底的に対抗するべきである」

ということを主張する本なのです。

例えば、「三国志演義」で有名な宰相「諸葛亮孔明」が、この「靖献遺言」に登場するのですが、彼は「蜀」という国の皇帝「劉備」「劉禅」に生涯仕えた忠臣。

この「靖献遺言」が、有馬新七に強く影響したのでしょう。こののち、彼は「尊皇攘夷」思想に強くひかれていきます。

ちなみにこの本は、長州藩の過激派「吉田松陰」も愛読していたことで有名です。

1843年、江戸へ留学し、儒学者「山口菅山」に弟子入り。

1845年、京都へ行った新七は、小浜藩士にして尊皇攘夷派の先駆け「梅田雲浜」と交流。

さらには天皇の「新嘗祭」を拝観し、尊皇思想をさらに強く抱くようになります。

1850年、薩摩藩の若手グループ「精忠組」が発足。西郷・大久保とともに有馬新七も加盟

1851年、薩摩藩主に「島津斉彬」が就任。「西郷隆盛」「大久保利通」とともに有馬新七もまた抜擢されます。

1857年、薩摩藩邸・学問所の教授に就任。この時、有馬新七33歳。

1858年、島津斉彬が急死・・・。

日米修好通商条約の締結に起こった朝廷は、水戸藩へ「戊午の密勅(攘夷の密命)」を出します。

有馬新七は、「戊午の密勅」を全国へ知らせる役目を託されました。

しかし、大老「井伊直弼」が、この戊午の密勅に激怒し、関係した人間を次々と弾圧する「安政の大獄」が勃発

安政の大獄によって「西郷隆盛」が「奄美大島」へ潜伏。梅田雲浜や吉田松陰・橋本左内が、安政の大獄で死去。

1860年、伊集院郷石谷村・・・現在の鹿児島市・石谷町の統治を担当することとなった「有馬新七」・・刑法や道路などを整備しています。

1861年、薩摩藩の藩校「造士館」の訓導師に就任・・・「訓導師」とは、教師のこと。藩校の教師ということは、今でいえば「国立大学」の教授・講師ということです。有馬新七が薩摩藩でもトップクラスの知識人であったことがうかがえます。


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尊皇攘夷運動

有馬新七は、尊皇攘夷運動・・・すなわち、日本の天皇を中心として、諸外国勢力を武力で打ち払うべきである・・・という思想を持っていました

新七はそこに「倒幕」・・すなわち「攘夷」を行うこともできず「日米和親条約」「安政の五か国条約」「日米修好通商条約」などの不平等条約を次々と締結する幕府を倒し、新しい日本の統治機構をつくろう・・・という考えも合わせて持っていたのです。

尊皇攘夷・・・倒幕・・どちらもかなり過激な思想。

当時、この「尊皇攘夷」「倒幕」に対する思想が「公武合体」「佐幕」・・・つまり「公家・朝廷と武家・幕府が協力して諸外国に対処する」「幕府を助ける」という思想のこと。

有馬新七の主君でもある薩摩藩主「島津茂久(忠義)」の父「島津久光」は、「公武合体派」だったので、新七は強制的に「倒幕・尊皇攘夷」を実行しようと画策します。

そこで起こったのが「寺田屋騒動」という弾圧事件です


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寺田屋事件

1862年、「寺田屋騒動(寺田屋事件)」が勃発

どういう経緯で寺田屋騒動が起こったのか?

「寺田屋事件」の直前、、薩摩藩国父「島津久光」は、1000名の兵を率いて京都へ進軍。

朝廷と幕府に圧力をかけ、幕政改革を迫ったのです。

しかし、「尊皇攘夷・倒幕」派の志士たちは、久光が京都へ来るのは「攘夷」・・すなわち外国勢力を武力討伐するためだ・・・と勘違いしていました。

実際には「公武合体」・・・朝廷と幕府の協力体制をつくるために、久光は京都へ来たのだと知った「尊皇攘夷・倒幕」派は、失望。

有馬新七たちは、朝廷の重臣である関白「九条直忠」や、幕府の重臣である京都所司代「酒井忠義」を暗殺し、薩摩藩と朝廷・幕府を無理やり敵対させ、薩摩藩に「倒幕」「攘夷」を力づくで実行させることを考えたのです。

これに驚いた島津久光は、有馬新七たちの説得工作を開始。

しかし新七はこれに従わず、仕方なく「大山綱良」たち剣豪が、新七たちを弾圧。

この時、西郷隆盛の弟「西郷従道」や、従弟「大山巌」が、有馬新七に従っていましたが、大山綱良たちの説得に応じて、謹慎処分を受けています。

この「寺田屋事件」をきっかけにして、京都の治安は一気に悪化。

幕府はこれを何とか改善しようとして、「壬生浪士組」を結成。これが後の「新選組」となり、京都の治安維持を担当することとなります。


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最期

1862年5月21日、有馬新七は、京都伏見の宿「寺田屋」で死去。享年38歳。

薩摩藩士にして、薩摩最強の剣豪「大山綱良」たちの襲撃を受けた有馬新七は、刀が折れるまで奮闘。

その後「道島五郎兵衛」を壁に押し付け、盟友の「橋口吉之丞」に対して

「俺ごと刺せ!俺ごと刺せ!」

と叫び、橋口に刺されて、新七は亡くなったのです。

過激派「有馬新七」・・明治24年・1891年12月17日、明治政府により贈住四位・・・・死後29年7か月後に有馬新七は、維新の功臣として認められたのです。

お墓は当初、鹿児島「南林寺」にありました。現在、墓碑が「鹿児島県日置市伊集院町下谷口」にあります。


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子孫と家系図

有馬新七の子孫は、今現在どこで何をしているのか?

調査してみました

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

有馬新七の息子「幹太郎」・・・寺田屋事件の直前、京都へ出発する際に新七は、12歳の息子「幹太郎」に対して「自叙伝」と尊皇攘夷派の小浜藩士「梅田雲浜」の本を渡しています。

さらに新七は、妻「てい」と離婚。決死の覚悟をしていたことがわかります。

新七の玄孫「有馬秀男」さんは平成10年に亡くなっています。現在も子孫が間違いなく残っておりますが、詳しくは不明です。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・有馬新七は、尊皇攘夷に力を尽くした薩摩藩士

・有馬新七は「寺田屋事件」で亡くなった

・新七の子孫は、現在も続いている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


西郷隆盛」「大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「【西郷隆盛】3人の弟達の名前と最期!隆盛も尊敬するほど有能だった」の記事はコチラ
「西郷隆盛の本物写真が発見された?本当の顔を確認する方法とは!」の記事はコチラ
「大久保利通の子孫は【麻生太郎】!2人の系図をわかりやすく解説!」の記事はコチラ

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