【廃刀令とは】世界一わかりやすく解説!豊臣秀吉の刀狩と何が違う?

明治時代の改革「廃刀令」は何か、目的は何なのかを世界一わかりやすく解説いたします。

豊臣秀吉が「刀狩り」という、似たような政策を行っていますが、何が違うのか?

「廃刀令」は身分を平等にする改革。「刀狩り」は身分を分ける改革。名前は似ていても、目的は真逆なのです。


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この記事を短く言うと

・廃刀令とは、武士が刀を腰に持つことを禁止する改革法のこと

・廃刀令の目的は、武士の特権を取り払い、身分制度をなくし、平等を成し遂げること

・「廃刀令」は「武士の帯刀」を禁ずること。豊臣秀吉がおこなった「刀狩り」は、「武士以外の農民など」から武器を取り上げる行為のこと


《廃刀令とは何か?世界一わかりやすく解説!》

廃刀令・・・・1876年(明治9年)に実施された法律です。「廃刀令」というのは、実は省略された名前であり、正式名称は「大礼服ならびに軍人警察官吏等制服着用のほか帯刀禁止の件」というそうです。「帯刀禁止令」ともいいます。

この「廃刀令」は、つまり江戸時代に「武士」が腰に帯びていた「刀」を、腰につけてはならない・・・という法律のことです。

帯刀・・・・刀を帯びることを禁止する・・・。つまり、「刀を常に腰に差して歩いてはならない」のであって、「刀を所持してはならない」わけではありません。家に刀を置いたりすることを禁じたわけではないのです。

しかし、帯刀・・・つまり腰に刀を差しておくことは江戸時代、武装するという以上に「武士」という身分を証明する方法だったため、廃刀令が出された後も、元武士たち(士族)は、刀を袋に入れたり担いだりして持ちあるいたと言われています。

元々「刀」というのは、「武士」がそれを持つことによって身を守る、または周囲の人間を不当な暴力から守るためのものでした。「いつでも刀を抜けるぞ」と見せつけることで、暴力沙汰・喧嘩公論を未然に防いでいたのです。

しかし明治になって「警察」機能が発展し、四民平等が定められ、帯刀を許す理由がなくなったというわけです。


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《廃刀令の目的とは?》

どうして「明治9年」になって「廃刀令」が出されたのか・・・。

理由は簡単で「四民平等」という、それまでの身分制度が廃止されたからです。

「士農工商」・・・帯刀は「武士」に認められた特権でした。しかし明治期に四民平等とされたことで、「帯刀」という特権を武士だけに認めるわけにはいかなくなったのです。

薩摩藩主の父「島津久光」。西郷隆盛大久保利通の主だった人物です。彼は「廃刀令」に生涯にわたって反対し、常に「帯刀」していたと言われています。

帯刀というのは、明治維新によって次々と取り上げられていった「武士」の特権・・・その最たるものだったのです。

これが取り上げられることで、四民平等が徹底されたわけです。武士たちは怒り、「廃刀令」の翌年1877年「西南戦争」という最大にして最後の士族反乱を招く結果となってしまいました。

この西南戦争で、西郷隆盛は命を落とすこととなるのです。

廃刀令(1876)の翌年に西南戦争(1877)・・・廃刀令が出されたことが原因で、西南戦争が勃発した・・・・と歴史の教師からよく教えられたものでした。実際には、そう単純なわけではないのですけどね。


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《明治の「廃刀令」と、豊臣秀吉の「刀狩」の違いとは?》

廃刀令といえば、歴史の教科書に似たような用語が出てきました。豊臣秀吉が行った「刀狩」です。「廃刀令」と「刀狩」は、いったい何が異なるのでしょうか?

結論から言えば、「廃刀令」というのは、「武士が刀を帯びることを禁止した」法律であるのに対し、「刀狩」は、「武士以外の者たちが武器を持つことを禁止し、没収した」法律であるということ。

「兵農分離」・・・・豊臣秀吉は、武士と農民の身分を、はっきりと区別しようとしました。

また、農民や寺社勢力から「刀」や「鉄砲」「槍」などの武器を取り上げ、反乱を起こしたりしないように無力化したのです。

「刀狩」は、豊臣秀吉が初めて行ったわけではなく、鎌倉幕府執権「北条泰時」や「北条時頼」も行っていたこと・・・。

 

「廃刀令」は「四民平等」・・・つまり、武士という特権階級の特権を排除することで、国民全員を平等に扱うことが目的でした。

対して「刀狩」は、武士とその他の身分を明確に別けることが目的。

 

「身分を平等」にする廃刀令と、「身分を分ける」ための刀狩。似たような名前でも、目的が全く逆なのです。


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《『廃刀令』について、レビュー(評論)!》

廃刀令・・・・明治9年に実施された廃刀令ですが、実は明治2年にも「廃刀令」を実施すべきという声が上がっていたのです。しかし、突然武士の特権を奪っては、反乱を招きかねないと、一時中止となっていました。

明治維新・・・・武士たちの力で行われた革命です。

おそらく革命を成功させた武士たちは

「これから日本はより良いものとなる。より良い時代が来る」

と、革命成功を喜んだことでしょう。しかし、実際には武士たちの特権は次々と奪われていったのです。

廃藩置県」で土地を没収され、「廃刀令」で刀を奪われる。武士たちは「こんなはずではなかった」と嘆き、「萩の乱」「佐賀の乱」「西南戦争」と士族反乱を次々起こしたわけです。

「建武の新政」・・・・実は「明治維新」と似たような革命が、明治維新の500年前に、日本で起こっていました。


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「後醍醐天皇」と「足利尊氏」により「鎌倉幕府」が討伐されて行われた「建武の新政」です。

この「建武の新政」もまた、楠木正成や新田義貞、足利尊氏たち武士によって成し遂げられた改革でした。しかし改革の首謀者であった後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒したのち、武士たちが大切に守り続けた領地を次々と没収し、その権限を次々とはく奪していったのです。

後醍醐天皇が目指したのは「公家一統」・・・すなわち、「公家」が「武家」の上に立ち、全てを決める統治機構。武士たちは驚きました。より良い国をつくろうと、命がけで鎌倉幕府を倒したはずが、待っていたのは武士に厳しい世の中だったのですから。

結果、足利尊氏を中心に武士たちは後醍醐天皇に反旗を翻します。

楠木正成はあくまでも後醍醐天皇に忠誠を誓って「湊川の戦い」で戦死。新田義貞も足利尊氏と対立するものの、あっけなく戦死しました。

結果、後醍醐天皇は京都を追われ、「室町幕府」という武家政権が誕生するに至ったのです。


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つまり、武家政権を倒した後にできた「公家政権」を、またしても武家が倒してしまったということ。「建武の新政」はわずか3年で終わりました。

その500年後、明治維新で再び武士たちの特権は次々と奪われたものの、今度は「足利尊氏」のような「武家政権に回帰しよう」という勢力が復権することはありませんでした。

なぜか?

おそらく建武の新政とは違い、明治時代には「西欧列強」という諸外国の圧力があったため、武家政権に戻しているわけにはいかないと誰もがわかっていたのでしょう。

明治維新。実は志ある若者によってのみ成功した革命ではなく、「西欧列強」という外圧もまた、改革成功の原動力となったのではないでしょうか。

外圧・・・日本人はいつもこの「外圧」をかけられないと動かない・・非常に鈍い国民である気がします。もっと早く危機感を抱けないものかと、歴史をみていて常に感じてしまいます。最近の日本では「憲法改正」がささやかれていますが、おそらく「大きな被害」が出ない限り憲法改正が実現することはないでしょう。日本とは、そういう国である・・・歴史がそう物語っています・・・・。このままでいいはずがないのに・・・。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・廃刀令とは、武士が腰に刀を帯びることを禁止した法律

・廃刀令の目的は、四民平等を実現するため、武士の特権をはく奪すること

・刀狩とは、武士以外の武器を没収し、兵農分離を徹底すること

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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