江戸幕府最後の将軍として、激動の幕末を生き抜いた徳川慶喜。
大政奉還を断行し、260年以上続いた幕府を自ら終わらせた決断は、日本史上でも類を見ない出来事でした。
しかし慶喜に対する評価は、時代や立場によって大きく分かれています。
「英明な改革者」と称える声がある一方で、「裏切り者」「臆病者」という批判も根強く残っているのです。
慶喜は何をした人物で、なぜそこまで評価が割れているのでしょうか。
また、現代にまで続く子孫の中には芸能人がいるという噂もあり、気になっている方も多いかもしれません。
本記事では、徳川慶喜のすごいところから意外なエピソード、晩年の生活、そして子孫の現在に至るまで、幅広く解説していきます。
- 徳川慶喜が成し遂げた大政奉還と江戸無血開城への貢献というすごい功績
- 天才と臆病者の両極端な評価が生まれた理由と現代での再評価
- 豚肉好きや手裏剣の達人など、意外すぎる慶喜の人間的なエピソード
- 徳川慶喜の子孫の現在と芸能人説の真相
徳川慶喜は何がすごいのか?歴史を変えた3つの功績

| 功績 | 内容 | 評価 |
|---|---|---|
| 大政奉還 | 政権を朝廷に返上し幕府を終焉させた | 内戦を回避する英断 |
| 恭順姿勢 | 朝敵にならないため徹底的に服従 | 江戸100万人を救った |
| 人材登用 | 渋沢栄一など有能な人材を抜擢 | 日本の近代化に貢献 |
260年続いた幕府を自ら幕引きした「大政奉還」
1867年10月14日、徳川慶喜は京都・二条城に諸藩の重臣たちを集め、ついに大政奉還を表明しました。征夷大将軍として預かっていた政権を朝廷に返上するという、この決断は日本の歴史を大きく変える転換点となったのです。

慶喜がこの決断に至った背景には、薩摩藩と長州藩による倒幕の動きがありました。武力で幕府を倒そうとする薩長に対し、慶喜は自ら政権を返上することで、内戦を回避し、徳川家の存続を図るという戦略を選んだのです。これは単なる降伏ではなく、公議政体論という新しい政治体制の構想に基づいていました。
慶喜は大政奉還後も、徳川家が議長役として新政府の中心に残れると考えていました。政権を返上しても実権は握り続けるという、極めて緻密な政治的計算があったのです。しかし、この思惑は王政復古の大号令によって崩れ去ることになります。
大政奉還という平和的な政権交代は、世界史的に見ても稀有な出来事でした。明治維新という大変革は、この慶喜の決断なしには成し遂げられなかったと言えるでしょう。
江戸を火の海から救った「徹底的な恭順」の決断
鳥羽・伏見の戦いで敗北した慶喜は、大阪城から江戸へ逃げ帰りました。この行動は幕臣たちから激しく批判されましたが、その後の慶喜の行動こそが、江戸という大都市を戦火から救うことになったのです。
江戸に戻った慶喜は、上野寛永寺に謹慎し、徹底的な恭順の姿勢を示しました。当時の江戸には100万人以上の人々が暮らしており、もし新政府軍との市街戦になれば、多くの民間人が犠牲になることは避けられませんでした。慶喜の恭順姿勢は、勝海舟と西郷隆盛の会談を実現させ、江戸城無血開城という奇跡的な結末を導いたのです。
慶喜は自らの命や名誉よりも、江戸市民の命を優先しました。頭を丸め、粗末な着物を着て謹慎する姿は、新政府軍に対して「もはや戦う意思はない」というメッセージを明確に伝えたのです。この姿勢が西郷隆盛の心を動かしたとも言われています。
江戸城無血開城の詳しい経緯を知ると、慶喜の決断がいかに重要だったかがよくわかります。この功績は、後世になってようやく正当に評価されるようになったのです。
渋沢栄一を抜擢した「先見の明」と人を見る目
徳川慶喜のすごさは、政治的決断だけではありません。人材を見抜く力も卓越していました。その代表例が、後に日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の抜擢です。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
渋沢栄一は、もともと武蔵国の農民の息子でした。一橋家の家臣だった平岡円四郎に才能を見出され、一橋家に仕えることになります。当時の身分制度では考えられないことでしたが、慶喜は身分ではなく能力で人を評価するという革新的な考えを持っていたのです。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1864年 | 渋沢栄一が一橋家に仕官 |
| 1867年 | 慶喜の名代としてパリ万博に派遣 |
| 1868年 | 帰国後、幕府崩壊により静岡へ |
| 1873年 | 大蔵省を辞職し実業界へ |
慶喜は渋沢を財政改革の要として重用し、1867年にはパリ万国博覧会に派遣しました。この経験で渋沢は西洋の資本主義システムを学び、後の日本の近代化に大きく貢献することになります。慶喜が渋沢の才能を見抜き、機会を与えなければ、日本の経済発展は大きく遅れていたかもしれません。
信長さん慶喜と渋沢の関係は、将軍職を退いた後も続きました。渋沢は晩年の慶喜に仕え、慶喜公伝の編纂にも携わっています。この主従関係は、単なる上下関係を超えた、深い信頼で結ばれていたのですね。
「天才」か「臆病者」か?評価が真っ二つに割れる理由
幕臣たちからは「裏切り者」と恨まれた鳥羽・伏見の戦い


引用元「Wikipediaコモンズ」より
1868年1月、京都の南で勃発した鳥羽・伏見の戦いは、幕府軍にとって致命的な敗北となりました。しかし、この戦いで最も批判されたのは、慶喜の行動でした。
戦況が不利になると、慶喜は味方の兵士たちを大阪城に残したまま、わずかな側近だけを連れて軍艦で江戸へ逃げ帰ったのです。総大将が敵前逃亡したことで、残された幕府軍の士気は一気に崩壊しました。この行動は、幕臣たちから激しい怒りと失望を買い、「裏切り者」「臆病者」という非難が浴びせられたのです。
新選組の近藤勇や土方歳三をはじめ、多くの幕臣たちは慶喜の逃亡に憤りを感じました。自分たちは命がけで戦っているのに、トップが真っ先に逃げるとは何事かと。この怒りは、戊辰戦争で最後まで新政府に抵抗し続けた会津藩などの行動にもつながっています。



筆者個人の意見ですが、徳川慶喜は、「絶対に主君にしたくない人」です。味方を残して一人だけ逃げるような主君には仕えたくありません。しかし、言い方は悪いですが、慶喜という人は「敵にしたい人ナンバーワン」ですね。慶喜という人を敵にした西郷さんからすると、これほど都合の良い敵はいなかったことでしょう。なんてったって、江戸城という文字通りの敵の本丸を無血で開城してくれたのですから。西郷さんは、主君・島津斉彬の命令で、この慶喜を次期将軍にするためあらゆる工作をしていました。日本の主君として祭りあげるはずだった徳川慶喜が、思った以上の暗君だったことに、西郷さんは驚いたのではないでしょうか
現代(なんJなど)では「合理的すぎる名君」と再評価の声も
一方で、現代になって徳川慶喜の評価は大きく変わってきています。特にインターネット掲示板のなんJをはじめとするオンラインコミュニティでは、「合理的すぎる天才」「実は有能な将軍」という再評価の声が高まっているのです。
現代的な視点で見れば、慶喜の行動は極めて合理的でした。勝ち目のない戦争を続けるより、早期に降伏して犠牲を最小限に抑える。自らのプライドよりも民衆の命を優先する。これは現代のリスクマネジメントや危機管理の考え方に通じるものがあります。
| 評価の視点 | 否定的評価 | 肯定的評価 |
|---|---|---|
| 当時の武士道 | 敵前逃亡は恥 | ― |
| 現代の合理主義 | ― | 損害を最小化する英断 |
| 結果論 | 幕府は滅亡した | 内戦を最小限に抑えた |


引用元「Wikipediaコモンズ」より



なんJでは「慶喜ニキは有能」「判断が早すぎる」などと、半分ネタ、半分本気で慶喜を評価する書き込みが多く見られます。武士道精神より現実主義を選んだ慶喜の姿勢が、現代人には理解しやすいのかもしれませんね。
徳川慶喜の評価が割れている理由をさらに詳しく知りたい方は、ぜひこちらの記事もご覧ください。
なぜ慶喜は戦わずに逃げたのか?その真意を考察
では、慶喜はなぜ鳥羽・伏見の戦いから逃げたのでしょうか。この行動の真意については、歴史家の間でも諸説あります。
最も有力な説は、朝敵になることを恐れたというものです。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は錦の御旗を掲げました。これは天皇の軍隊であることを示すシンボルです。錦の御旗に向かって戦うということは、天皇に弓を引く逆賊になることを意味しました。
慶喜は幼少期から水戸学を学び、尊王思想を叩き込まれていました。父の徳川斉昭も熱烈な尊王論者です。そのため、どんなに不利な状況でも、天皇に対して武力を行使することだけは絶対にできなかったのです。この思想的背景が、慶喜の行動を決定づけたと考えられています。
また、別の説では、慶喜は日本全体を内戦の泥沼に引きずり込むことを避けたかったとも言われています。もし慶喜が徹底抗戦を選んでいたら、戊辰戦争はさらに長期化し、より多くの犠牲者が出ていたでしょう。欧米列強に付け入る隙を与える可能性もありました。
慶喜の決断が示したもの
慶喜の決断は、個人の名誉や武士の面目よりも、大局的な国益を優先したものだったと言えます。当時の価値観では理解されなかったこの判断が、結果的に日本を救ったのです。評価が割れるのは当然かもしれません。時代によって、求められるリーダー像は大きく異なるのですから。
意外と人間くさい!徳川慶喜のユニークなエピソード


あだ名は「豚一様」!豚肉を愛したハイカラな食生活
徳川慶喜には意外なあだ名がありました。それが「豚一様(ぶたいちさま)」です。このユニークなあだ名は、慶喜が豚肉を好んで食べていたことに由来しています。
江戸時代の日本では、仏教の影響で獣肉を食べることはタブー視されていました。特に武士階級では、肉食は穢れたものとされ、表立って食べることは憚られていたのです。しかし、一橋家の当主だった慶喜は、そんな常識を気にせず豚肉を愛食していました。
「豚肉好きの一橋様」を縮めて「豚一様」というあだ名が付けられました。これは陰口として使われていましたが、慶喜本人は全く気にしていなかったようです。むしろ、肉食によって体力をつけ、健康を維持していたと考えられています。
実は慶喜の父である徳川斉昭も肉食を好んでいたとされています。斉昭は近江牛(彦根藩から献上された牛肉)を食べていたという記録があり、親子そろって当時としては進歩的な食生活を送っていたのです。



慶喜は歴代徳川将軍の中で最も長生きしました。77歳まで生きたのは、この肉食習慣が関係しているかもしれませんね。栄養価の高い食事が、長寿の秘訣だったのでしょう。
手裏剣の達人で多趣味!カメラと自転車に熱中した素顔
徳川慶喜は、将軍という堅いイメージとは裏腹に、非常に多趣味な人物でした。特に有名なのが、手裏剣術、写真、自転車という3つの趣味です。
知新流手裏剣術の達人
慶喜は知新流(ちしんりゅう)という流派の手裏剣術を修めていました。この腕前は相当なもので、晩年まで練習を続けていたと言われています。将軍という立場にありながら、武術の鍛錬を怠らなかったことは、慶喜の真面目な性格を表しています。
日本初期のカメラマン
慶喜は写真撮影に強い興味を持ち、自ら撮影技術を学びました。静岡での隠居生活では、狩猟の獲物や風景、家族の姿などを数多く撮影しています。慶喜が撮影した写真は現在も残されており、その芸術性の高さが評価されています。曾孫の徳川慶朝氏が写真家になったのも、この血筋の影響があるかもしれません。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
「けいきさん」と親しまれた自転車好き
静岡時代の慶喜は、日本で最初期のサイクリストの一人でした。明治10年代に自転車を入手すると、静岡市内を颯爽と走り回ったのです。地元の人々からは「けいきさん」と親しみを込めて呼ばれ、元将軍とは思えない庶民的な姿が愛されていました。
| 趣味 | 詳細 |
|---|---|
| 手裏剣術 | 知新流を修め、晩年まで練習 |
| 写真撮影 | 狩猟・風景・家族を撮影、芸術性高い作品を残す |
| 自転車 | 静岡市内をサイクリング、「けいきさん」と親しまれる |
| その他 | 狩猟、釣り、囲碁、謡曲、油絵など |
これらの趣味からわかるのは、慶喜が非常に好奇心旺盛で、新しいものを積極的に取り入れる進取の気性を持っていたということです。カメラや自転車といった当時最先端の文明の利器に興味を持ったことは、慶喜が時代の先を見る目を持っていた証拠とも言えるでしょう。
正室・美賀君との仲はどうだった?知られざる夫婦関係
徳川慶喜の正室は、公家の名門・一条家から嫁いできた一条美賀子(みかこ)、通称美賀君でした。しかし、この夫婦関係は決して順風満帆とは言えませんでした。
慶喜と美賀君の結婚は政略結婚でした。当初、二人の仲は冷え切っており、慶喜は美賀君をほとんど相手にしなかったと言われています。慶喜には側室が10人以上おり、子供も側室との間に生まれた子が大半でした。美賀君との間には子供ができず、正室としての立場は寂しいものだったのです。
しかし、晩年になると状況は変わりました。慶喜が静岡で隠居生活を送るようになってから、美賀君との関係は改善したとされています。政治の重圧から解放された慶喜は、穏やかな性格になり、美賀君と共に静かな生活を送るようになったのです。



慶喜の子供は21人もいたとされています。ほとんどが側室の子でしたが、全ての子供たちを分け隔てなく大切にしていたそうです。将軍時代の厳しい顔とは違う、優しい父親の顔も持っていたのですね。
激動の時代を生き抜いた慶喜の晩年と最期
静岡で過ごした「ケイキ様」の悠々自適な隠居生活
明治維新後、徳川慶喜は静岡に移り住み、約30年間の隠居生活を送りました。この静岡時代の慶喜は、将軍時代とは打って変わって、趣味に没頭する穏やかな日々を過ごしたのです。
静岡の人々は、元将軍である慶喜を「けいきさん」「ケイキ様」と親しみを込めて呼びました。慶喜は政治的な野心を完全に捨て、写真撮影、自転車、狩猟、釣り、囲碁、謡曲、油絵など、実に多彩な趣味を楽しんだのです。
特に写真撮影には熱中し、自分で撮影した写真を雑誌に投稿したこともありました。残念ながら採用されなかったそうですが、元将軍が一般人と同じように趣味を楽しむ姿は、当時としては珍しいものでした。
慶喜は静岡で質素な生活を送りながらも、知的好奇心を失うことはありませんでした。新しい技術や文化に触れ、学び続ける姿勢は、生涯変わらなかったのです。
悲願の名誉回復!公爵となり貴族院議員へ復帰
長い雌伏の時を経て、慶喜にも名誉回復の時が訪れました。1897年(明治30年)、明治天皇の計らいにより、慶喜は公爵の爵位を授けられ、貴族院議員に列せられたのです。
これは、かつて朝敵として扱われた慶喜が、正式に名誉を回復したことを意味していました。明治天皇は、慶喜の大政奉還と恭順の決断が、日本の近代化に果たした役割を高く評価していたのです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1868年 | 江戸城を明け渡し静岡へ移住 |
| 1897年 | 公爵に叙せられ貴族院議員となる |
| 1898年 | 東京に移住 |
| 1902年 | 明治天皇に拝謁 |
1902年には、慶喜は明治天皇に直接拝謁する機会を得ました。この時、明治天皇は慶喜に感謝の言葉を述べたと伝えられています。かつての敵味方を超えて、二人は日本の未来のために尽くした者同士として、互いを認め合ったのです。



名誉回復を果たした慶喜は、東京の小石川に屋敷を構えました。静岡での隠遁生活に終止符を打ち、堂々と公的な場に復帰したのです。長い忍耐の末に訪れた栄光でした。
歴代将軍で最長寿!77歳の大往生とその死因
1913年(大正2年)11月22日、徳川慶喜はその生涯を閉じました。享年77(満76歳)という年齢は、徳川歴代15人の将軍の中で最長寿の記録です。
慶喜の死因は急性肺炎でした。その年の秋、末息子の慶久が爵位を授与されたことへの御礼言上のために参内した際、無理をしたことが原因で風邪をこじらせてしまったのです。高齢だった慶喜の体力では、風邪が肺炎に進行するのを防ぐことができませんでした。
| 順位 | 将軍名 | 享年 |
|---|---|---|
| 1位 | 15代 徳川慶喜 | 77歳(満76歳) |
| 2位 | 初代 徳川家康 | 75歳(満73歳) |
| 3位 | 11代 徳川家斉 | 69歳(満67歳) |
慶喜が長寿を全うできた理由には、いくつかの要因が考えられます。豚肉を食べるなど栄養価の高い食事を摂っていたこと、静岡時代に政治のストレスから解放されて趣味に没頭できたこと、そして適度な運動習慣があったことなどです。特に自転車や狩猟といった身体を動かす趣味が、健康維持に役立ったと考えられています。
慶喜の葬儀は神式で行われました。これは慶喜の遺言によるもので、仏式を拒否したのです。遺体は谷中霊園に埋葬され、現在も多くの歴史ファンが訪れています。
激動の幕末を生き抜き、明治・大正という新時代まで長生きした慶喜。その生涯は、まさに日本の大転換期そのものでした。
徳川慶喜の子孫は現在もすごい!芸能人との関係は?
直系の子孫「徳川慶喜家」は今どうなっている?


引用元「Wikipediaコモンズ」より
徳川慶喜の直系子孫による「徳川慶喜家」は、明治維新後も続いてきましたが、現在大きな転換点を迎えています。
慶喜家は4代目当主の徳川慶朝(よしとも)氏が2017年に亡くなった後、その姪にあたる山岸美喜氏が第5代当主を継承しました。山岸氏は慶喜の孫・慶光(よしみつ)の孫にあたり、慶喜の玄孫(やしゃご)です。
しかし、2023年1月、山岸美喜氏は驚くべき決断を発表しました。徳川慶喜家を絶家(廃家)し、墓じまいを行うというのです。その理由は、住んでもいない広大な墓地の維持費用が現実的でないこと、そして家の歴史を個人で抱え込むのではなく、日本の歴史として公共化したいという思いでした。
| 代 | 当主名 | 備考 |
|---|---|---|
| 初代 | 徳川慶喜 | 最後の将軍 |
| 2代 | 徳川慶久 | 慶喜の七男 |
| 3代 | 徳川慶光 | 慶久の長男 |
| 4代 | 徳川慶朝 | 慶光の長男、写真家(2017年没) |
| 5代 | 山岸美喜 | 慶朝の姪、2023年に絶家を決断 |
山岸氏は膨大な家の資料(5000〜6000点)を整理し、博物館などに寄贈する作業を進めています。「家の歴史を日本の歴史にする」という彼女の決断は、新しい時代の家系の在り方を示すものとして注目されています。
曾孫や玄孫にはどんな人がいる?現在の職業や活動
徳川慶喜には21人もの子供がいたため、子孫は非常に多く存在します。その中でも特に著名なのが、4代目当主だった徳川慶朝氏です。
徳川慶朝氏(1940-2017)は、写真家として活躍しました。曾祖父の慶喜も写真を愛好していたことから、その血を引いたと言えるかもしれません。慶朝氏は数多くの写真集を出版し、徳川家に関する著作も執筆しています。
現在の5代目当主・山岸美喜氏は、講演活動やメディア取材を通じて、徳川慶喜家の歴史を伝える活動を行っています。2025年には墓じまいと家財整理の決断が大きく報道され、歴史的な家系の終焉として注目を集めました。



山岸美喜氏は「私の代で終わりにする」と語っていますが、これは決して後ろ向きな決断ではありません。むしろ、歴史を個人で独占せず、社会全体の財産として公開していくという、前向きな選択なのです。偉人の遺産を守り続けるというのは、経済的にも精神的にも、難しいことですからね。
「子孫に芸能人がいる」という噂の真相とは
インターネット上では「徳川慶喜の子孫に芸能人がいる」という噂が流れていますが、これは事実ではありません。徳川慶喜の直系子孫に、現在活動している著名な芸能人はいないのです。
この噂が広まった背景には、いくつかの混同があります。一つは、お笑いトリオ「ぱーてぃーちゃん」のメンバーである信子さんが「徳川家康の末裔」を公言していることです。しかし、信子さんは徳川宗家や慶喜家の直系ではなく、別の系統の末裔であると考えられています。
また、「徳川」という姓を持つタレントや文化人が複数存在することから、「徳川慶喜の子孫かもしれない」という憶測が広がったと思われます。しかし、徳川姓は必ずしも将軍家や御三家の直系を意味するわけではなく、江戸時代に松平姓から改姓した家系なども存在します。
| 噂 | 真相 |
|---|---|
| 芸能人の子孫がいる | ✗ 直系子孫に芸能人はいない |
| ぱーてぃーちゃん信子さん | △ 徳川家康の末裔だが慶喜家直系ではない |
| 徳川姓のタレント | △ 別系統の可能性が高い |
正確な情報としては、徳川慶喜の著名な子孫は写真家の徳川慶朝氏(故人)と、現当主の山岸美喜氏が主な存在です。芸能界で活躍する子孫は確認されていません。
他の歴史上の人物の子孫については、豊臣秀吉の子孫と芸能人の関係なども興味深いテーマです。歴史上の偉人の血筋が現代まで続いているかどうかは、多くの人の関心を集めています。
徳川慶喜が今の日本に残してくれたもの
- 大政奉還によって260年以上続いた徳川幕府を平和的に終焉させた
- 徹底的な恭順姿勢で江戸城無血開城を実現し、100万人の江戸市民を戦火から救った
- 渋沢栄一など有能な人材を身分にとらわれず登用し、日本の近代化に貢献した
- 鳥羽伏見の戦いからの撤退は当時「裏切り」と批判されたが、朝敵にならないための苦渋の決断だった
- 現代では合理的な判断ができるリーダーとして再評価されている
- 豚肉を好んで食べる進歩的な食生活で「豚一様」というあだ名がついた
- 知新流手裏剣術の達人であり、写真撮影や自転車など多彩な趣味を持っていた
- 静岡での隠居生活では「けいきさん」と親しまれ、趣味に没頭する穏やかな日々を過ごした
- 1897年に公爵に叙せられ、明治天皇から正式に名誉回復を果たした
- 徳川歴代15人の将軍の中で最長寿の77歳まで生き、死因は風邪から進行した急性肺炎だった
- 子孫は5代にわたって続き、4代目の徳川慶朝氏は写真家として活躍した
- 現在の5代目当主・山岸美喜氏は2023年に徳川慶喜家の絶家を決断し、家の歴史を公共化する道を選んだ
- 徳川慶喜の直系子孫に芸能人はおらず、ネット上の噂は他の徳川家系との混同によるもの
- 慶喜の決断は賛否両論あるが、結果的に日本を内戦の泥沼から救い、近代化への道を開いた
- 時代によって評価が変わる慶喜の生涯は、リーダーシップの在り方を現代に問いかけている









コメント