皆さんは【徳川慶喜は、本当にすごい人物なのかどうか】を、よく理解しておられますでしょうか?
「大政奉還」を成し遂げたあの「徳川慶喜」のことです。「徳川幕府・最後の将軍」として有名ですよね。
実は「徳川慶喜が、本当にすごい人なのかどうか」について、ハッキリ知っている方は、多くないみたいです。
なぜなら、「徳川慶喜」ほど、評価が割れている人物はいないからです。
一方では「名君」と呼ばれ、もう一方では「バカ殿」と呼ばれているのですから。
この記事では「徳川慶喜」という人物が「すごい人なのかどうか」、「どんなすごい功績を残した人なのか」について、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「徳川慶喜がすごい人なのかどうか」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「慶喜がすごいのか否か」に、詳しくなれます。
この記事を読んで、「徳川慶喜」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「徳川慶喜」は「すごい人」なのか?それとも「バカ殿」なのか?
徳川慶喜は、「すごい功績」を残した偉人と呼んで良いと思う。
日本を救うための数々の偉業を残した名君だが、ただの名君ではなく、汚名も残している。
2,「徳川慶喜」が残した「功績」とは何か?
慶喜は、「大政奉還」や「江戸城無血開城」などの功績を残し、日本を危機から救った。
3,「徳川慶喜」が残した「汚名」とは何か?
徳川慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」の直後に、武士としては絶対にやってはならない「敵前逃亡」をやらかしている。
徳川慶喜は【すごい人】なのか?それとも【バカ殿】なのかをハッキリさせてみた
結論からいえば、「徳川慶喜」は「すごい人物」と言って良いと思います。
なぜなら慶喜は、「日本を外国の侵略から救った人物」だからです。
もしもあなたが友人から「徳川慶喜って、すごい人だったの?」と尋ねられたら、このように応えれば良いはず。
「日本を危機から救ったという点では、徳川慶喜はすごい人物だった。
しかし慶喜は、日本を危機から救うために、敵を目の前にして、部下を置き去りにして逃亡している。
慶喜は、日本を救ってはいるものの、慶喜は武士の風上にもおけない人物、と言うこともできる。」
そうなのです。
徳川慶喜は、たしかに頭脳明晰で、しかも日本を救った名君です。
ただ同時に、部下を置き去りにして自分だけが敵前逃亡するという、「武士としては絶対にやってはならない行為」をやらかした卑怯者でもあるのです。
「渋沢栄一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
慶喜が【すごい人】や【名君】と呼ばれる理由
徳川慶喜が「すごい人」やら「名君」やらと呼ばれる理由は、主に2つあります。
- 慶喜は、幼い頃から頭脳明晰で、とてつもなく優秀な人物だった
- 強力な諸外国からの圧力が強まった幕末の日本を、慶喜は守り通し、外国からの侵略をさせなかった
徳川慶喜は、幼い頃からとてつもなく優秀でした。
慶喜は、学問が盛んだった「水戸藩」の出身でした。
当時の水戸藩には、「藤田東湖」など、日本中に名が知られた有名な学者が多数いた、秀才が数多くいる土地柄だったのです。
そんな中でも、徳川慶喜は特に優秀だったのです。
その「徳川慶喜」が、江戸幕府15代征夷大将軍に就任したとき、幕府も日本も、危機におちいっていました。
【1853年】、日本の浦賀に、ペリーひきいるアメリカの黒船が来航して以来、日本は外国の圧力を受け続け、存亡の危機においつめられていたのです。
さらに、外国勢力に対して弱腰だった江戸幕府に対して、「長州藩」が倒幕運動、つまり「幕府を倒そう」と攻撃をしかけてきていたのです。
慶喜は、まさに「内憂外患」の状態で、幕府と日本のトップとなったのです。
頭脳明晰だった慶喜は、「長州藩」などに押されて、弱体化していた瀕死の「江戸幕府」を、徐々に立ち直らせていきました。
ところが、「長州藩」が「薩摩藩」と「薩長同盟」を締結し、幕府に攻撃をしかけてくると、慶喜はさらに追いつめられます。
そんな中でも慶喜は、「大政奉還」や「江戸城無血開城」をおこない、日本を戦火から救ったのでした。(「大政奉還」と「江戸城無血開城」については、のちほど詳しく解説します。)
もしも慶喜がいなかったら、幕末の日本は「戦国時代」のように、真っ二つに別れて長く戦争を繰り広げていたでしょう。
そこに「イギリス」や「フランス」が介入して、日本は植民地化していた可能性も高いです。
慶喜は、その優れた手腕で「日本を戦火から守り、西欧列強諸国の植民地となることを防ぎきった」のです。
まさに名君と呼んで良いでしょう。
ただし、その「日本を守るためにつかった手段」がまずかったのです。
慶喜は、日本が「真っ二つになって戦争を繰り広げる」ことを防ぐために、「部下を見捨てて敵前逃亡」しているのです。
慶喜が「バカ殿」と呼ばれる理由
徳川慶喜が、「名君」として評価される一方で、「バカ殿」と呼ばれている理由は、「敵前逃亡」をしているからです。
【1868年1月】、慶喜がひきいていた「旧幕府軍」は、「西郷隆盛」や「大久保利通」がひきいた「薩長軍」と戦争を起こしてしまいます。
「鳥羽・伏見の戦い」です。
(このとき、幕府は「大政奉還」によって消滅していたため、「幕府軍」ではなく「旧幕府軍」と呼ばれている)
このとき慶喜は、驚くべき行動に出ます。
なんと、部下たちを大阪城に残して、一人で江戸へ逃亡してしまったのです。
敵前逃亡です。
これには江戸幕府の部下たちも呆れ返ったといわれています。
徳川慶喜が、なぜ「バカ殿」と呼ばれているのか。
その理由は、この「武士道精神に反して、敵前逃亡していたから」なのです。
なぜ徳川慶喜が「敵前逃亡」したのか、その理由については、あとでくわしく解説いたしますが、たとえどんな理由があろうと、部下を置き去りにして、自分だけが敵前逃亡するなんてことが、許されるはず無いのです。
徳川慶喜が残した【3つ】の【すごい功績】とは何か?
慶喜が残した【すごい功績】といえば「大政奉還」と「江戸城無血開城」があげられます。
「大政奉還」
「大政奉還」とは何か。
それを簡単に言ってしまうと
「政治を行う権限を、幕府から朝廷へと返上し、幕府という臨時政府を消滅させること」
ということになります。
よく勘違いされていますが、「大政奉還は徳川慶喜のギブアップ宣言」だと言われているのですが、これは違います。
「大政奉還」は、「薩摩と長州」に対する慶喜の「強力な反撃の一手」でした。
この「大政奉還」が何を意味するのかというと、慶喜は「政治をおこなう権限」を、突然「朝廷」に対して投げ返したということなのです。
「源頼朝」が「鎌倉幕府」を成立させて以来、日本は【約700年】にわたって「幕府」という「臨時政府」が政治を行ってきました。
そのため「朝廷」という「本来の政府」は、【700年】ものあいだ、政治などやったことがないのです。
当然ですが「朝廷」には、政治を行う力もノウハウもありません。できるはずがありません。
そのため、慶喜が大政奉還したあと、朝廷は慶喜に対して「つづけて政治を行いなさい」と命令しています。
そして慶喜は、そうなることを誰よりもよくわかっていました。
「大政奉還」しても、朝廷が徳川慶喜に対して、「続けて政治を行いなさい」、と命令してくることを、慶喜は誰よりもよくわかっていたのです。
なぜ慶喜は、「大政奉還」など行ったのでしょうか?
実は慶喜、ここでも「内戦」をおこさないことを目指していたのです。
「大政奉還」とは、日本国内で「幕府」と「薩摩長州」のあいだで戦争をおこさせないための一手だったのです。
「薩摩と長州」はこの「大政奉還」がされる直前、「討幕の密勅(とうばくのみっちょく)」というものを朝廷にもとめていました。
【討幕の密勅】とは、「幕府を倒せ」という朝廷からの秘密命令のことです。
薩長はこの「討幕の密勅」を朝廷・天皇から引き出すことで「薩長vs江戸幕府」という戦争を起こし、江戸幕府を倒そうとしていたのです。
しかしこれを察知した慶喜は、「大政奉還」をして、幕府を事実上消滅させました。
これで「討幕の密勅」は、無意味なものとなったのです。
なぜなら「討幕の密勅」を出されても、倒すべき幕府がないのだから、幕府を倒せるはずがありません。
例えていうなら「討幕の密勅」と「大政奉還」は
「内閣総理大臣を退陣させようとして、デモを計画していたら、デモを起こす前に総理大臣が自ら辞職した」
ようなものなのです。
つまり
デモ(討幕の密勅)を起こそうとしていたら、内閣総理大臣(徳川慶喜)が辞職(大政奉還)してしまったから、もはやデモ(討幕の密勅)は、無意味なものとなってしまった
というわけです。
慶喜は、日本国内での内戦を回避して、英仏のようなヨーロッパ列強諸国に日本を侵略させるスキを与えないため、【260年】続いた江戸幕府を、自分の手で滅ぼす大英断をしたのです。
日本の歴史上、「幕府」は3つ存在します。
- 鎌倉幕府
- 室町幕府
- 江戸幕府
「鎌倉幕府」が滅亡したとき、幕府のトップだった「北条高時」は、要塞都市「鎌倉」に籠もって、敵将「新田義貞」に最期まで抵抗して戦いました。
「室町幕府」が滅亡したとき、最後の将軍「足利義昭」もまた、「織田信長」に最後まで抵抗しています。
「江戸幕府」が滅亡したとき、「徳川慶喜」は抵抗どころか自ら降参し、自ら幕府を解体・破壊しています。
その結果、日本は海外からの侵略を受けずに済んだのです。
「徳川慶喜」は、まさに日本を救った名君と呼べるのではないでしょうか。
とはいえ、「徳川慶喜」は「日本のトップ」としては、名君と呼んでいいかもしれません。
しかし、「幕府のトップ」としては、「バカ殿」と呼ぶしかないと思います。
『大政奉還』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「鳥羽・伏見の戦い」での「敵前逃亡」
【1868年1月】、「大政奉還」によって滅びた幕府の軍団(旧幕府軍)は、京都の「鳥羽・伏見」で「薩摩軍」と衝突。
「旧幕府軍」は敗北します。
しかし旧幕府軍の余力は十分にあり、戦えば必ず勝利できる状況だったのです。
ここで慶喜は、なんとかして、これ以上の「戦争・内乱」を避けようと考えました。
なぜなら、「西欧列強が日本を植民地にしようと虎視眈々と狙っている今、国内で内戦を起こしてはならない」と考えていたからです。
しかし旧幕府軍の怒りは凄まじく、慶喜が「戦うな」と命令しても、誰も言うことを聞かない状態だったのです。
もはや慶喜が「戦ってはならない」と命じても、言うことをきかない状態だったのです。
そこで慶喜は、前代未聞の行動に出ます。
なんと旧幕府軍1万人を残して、大坂から船で江戸へと撤退してしまったのです。
まさに「敵前逃亡」というわけです。
これに慶喜の部下だった「旧幕府軍」は激怒し、呆れ返ってしまいます。
この「敵前逃亡」が原因で、慶喜は「バカ殿」の烙印を、長く押されることとなったのです。
しかしこのときの「敵前逃亡」がなかったら、おそらく旧幕府軍と薩長軍の血みどろの内戦が続いていたでしょう。
この内戦で弱体化した日本は、西欧列強に侵略されていたかもしれません。
慶喜は、敗北を積極的に受け入れることで、日本の生まれ変わりを後押ししたといえるのかもしれません。
実は「鳥羽・伏見の戦い」において、「薩長軍」は勝利したものの、「旧幕府軍」がその気になっていたら、「薩長軍」に勝ち目はありませんでした。
しかし慶喜が逃亡したおかげで、「江戸幕府」という古い形の国家は終わり、「明治新政府」という、今も続く近代的な国家が誕生したわけです。
確かに慶喜は日本を救いました。
しかし、そのために使った手段は「敵前逃亡」だったわけです。
結果だけ見るとお見事なのですが、手段がいけませんでした。
「武士」たるものが、部下を残して敵前逃亡するなど、「武士道」においては絶対に許されないことだからです。
この「敵前逃亡」が、慶喜を「バカ殿」と呼ばせる理由なのでしょう。
もしも「織田信長」だったら、どのような選択をしたでしょうか?
「本能寺の変」で見事に散った闘将「織田信長」ならば、おそらく「慶喜」のように敵前逃亡するのではなく、自ら先陣をきって華々しく戦死するか、または切腹していたのではないでしょうか。
慶喜もまた、戦争を回避するのなら、「切腹」していたほうが、潔かったのかもしれません。
『鳥羽・伏見の戦い』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「江戸城無血開城」
「鳥羽・伏見の戦い」の直後、「西郷隆盛」ひきいる薩長軍が、江戸へ進行します。
この三人の尽力で、江戸幕府は戦争を起こすことなく、薩長軍に降伏することに成功します。
難攻不落の要塞「江戸城」は、戦うこと無く薩長軍へと引き渡されたのです。
これにより、江戸100万の民衆は、戦火をまぬがれたのでした。
慶喜は、「江戸城」へ籠城し、戦おうと思えば戦えたはずです。
しかし、戦争すること無く敗北を認めることで、日本は貴重な国力を失わずに済んだのです。
「江戸城無血開城」によって、のちの大都市「東京」の基礎が失われなかった、というわけです。
『江戸城無血開城』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
徳川慶喜の「優秀さ」を表す【4つのエピソード】一覧
次は「徳川慶喜」が「すごい人」と呼ばれる理由について、エピソードや逸話をご紹介いたします。
神君「徳川家康」の再来
「徳川慶喜」は、神君とよばれた「徳川家康」の再来と呼ばれるほどの秀才でした。
水戸藩は、「大日本史」という歴史の編纂をおこなっていたため、歴史学を始めとする「学問」が非常に盛んな藩だったのです。
つまり水戸藩は、「頭の良いエリート」が集まる藩だったのです。
その水戸藩で育った「徳川慶喜」は、特に秀才として評判が高い人物だったのです。
あまりに優秀だったため、12代将軍「徳川家慶」は自らの名前の「慶」の一文字をあたえて、「慶喜」と名乗らせたのでした。
手裏剣術の達人
文武両道という言葉がありますが、慶喜は「手裏剣」の達人だったことで有名です。
手裏剣を畳に投げつけて訓練する「手裏剣術」は、当時としては当然の武術・教養の一つだったのです。
慶喜はその「手裏剣術」にとても優れた人物で、明治維新後も訓練を怠らなかったといわれています。
今でも、慶喜が使った手裏剣が保管されているようです。
将軍になど、なりたくない
慶喜は「天才」という噂が非常に広まったおかげで、誰もが将軍にしたがるほどの逸材でした。
ところがそれを、慶喜は望んでいなかったといわれています。
「将軍になって天下を支配することほど、面倒なことはない」
そんな手紙が残っているほど、慶喜は「征夷大将軍」になりたくないと考えていたようです。
慶喜には「野心や出世欲」は全く無く、周りが慶喜を担ぎあげようと、血眼になっていただけなのです。
慶喜の優秀さを、周囲の人間がほうっておけないほどに、凄まじかったと言えるのではないでしょうか。
慶喜は「13代将軍」となるはずだった
【15代目 江戸幕府 征夷大将軍】となった「徳川慶喜」ですが、実は「13代目・征夷大将軍」となる予定がありました。
12代目「徳川家慶」は、自分の後継者だった「徳川家定」に不安を抱いていました。
障害をもつ息子「徳川家定」を後継者とすれば、ペリーひきいる【黒船来航】に騒ぐ日本が、危ないと考えていたのです。
そのため徳川家慶は、「徳川慶喜」を後継者候補にすることを考えました。
ところが、「徳川慶喜」の実家である御三家の一つ「水戸徳川家」には、「征夷大将軍」となる権利がありません。
(将軍となれるのは、御三家のうちの2つ「尾張徳川家」と「紀州徳川家」、そして御三卿と呼ばれた「田安徳川家」「清水徳川家」「一橋徳川家」の合計5つの分家のみ)
そのため「家慶」は、征夷大将軍になる権利を持たない「水戸徳川家」から、征夷大将軍になる権利を持つ「御三卿」の一つ「一橋家」へ、「慶喜」を養子入りさせたのでした。
そうすることで12代将軍「家慶」は、「徳川慶喜」を13代将軍に指名しようとしたのです。
しかし当時の幕府最高権力者「阿部正弘」が、「徳川慶喜」の将軍就任に強く反対。
長男をもって後継者とする
この古来からの「しきたり」を、「阿部正弘」は重視したのです。
そのため「徳川慶喜」は「13代将軍」にはならず、「家慶」の息子「徳川家定」が征夷大将軍に就任したのでした。
ところが「徳川家定」も、その次の将軍「徳川家茂」も、若くして死亡してしまいます。
二人の将軍が次々と病死したことで、ようやく「徳川慶喜」は「15代将軍」に就任することとなるのです。
「江戸城無血開城」のあと、「徳川慶喜」は何をしていたのか?
「江戸城無血開城」のあと、「徳川慶喜」はふるさとの水戸藩で謹慎していました。
その後は、「徳川家康」にゆかりのある土地「駿河」へ国替えを命じられて、そこで生活していました。
この「駿河」も滅びると、「慶喜」はその余生を、「写真」や「油絵」「自転車」などの趣味に没頭して生活したといいます。
まるで毎日が日曜日のような状態だったのだとか。
その後「徳川慶喜」は「明治天皇」から、【朝敵】つまり「日本国すべての敵」という汚名を免じられて「貴族院議員」に就任。
最後は「明治天皇」にたいして心服していた姿勢を示すため、徳川代々の仏式での埋葬ではなく、神式で埋葬されることとなるのです。
『徳川慶喜』について「ひとこと」いいたい
歴史学者「磯田道史」先生が、「徳川慶喜」について、こんなことをおっしゃっておられました。
「徳川慶喜は、富士山のような人だった。
近くで見ると岩のカタマリだが、遠くで見ると偉大な霊峰なのだ」
「鳥羽・伏見の戦い」で敵前逃亡をした点をみてみると、徳川慶喜は「江戸幕府」という組織のトップでありながら、真っ先に逃げ出した「バカ社長」ということになります。
ところが「にほん」という国のトップとしてみると、自ら敵に降参することで、内戦をとにかく回避し、外国からの侵略を防ぎきった名君として見えるということです。
ただし筆者は「徳川慶喜」を、「織田信長」や「徳川家康」のような、【歴史に名を残す名君・偉人】とは、違う種類の人間だとおもっています。
残念ながら慶喜は、日本を強固な国とする力に乏しい人だったと思うのです。
慶喜がやったことは、たしかに結果としては日本を守りました。
ところが、慶喜がやったことは「投げ出し」「逃げ出し」だけだったような気がするのです。
「日本を2つに割る内乱を防ぐために、慶喜は自ら幕府を崩壊へと導き、戦わずして降参した」
これは、「敵前逃亡し、戦うこと無く降伏した徳川慶喜の行動に、後から意味を付け加えただけ」のような気がするのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「徳川慶喜」は「すごい人」なのか?それとも「バカ殿」なのか?
徳川慶喜は、「すごい功績」を残した偉人と呼んで良いと思う。
日本を救うための数々の偉業を残した名君だが、ただの名君ではなく、汚名も残している。
2,「徳川慶喜」が残した「功績」とは何か?
慶喜は、「大政奉還」や「江戸城無血開城」などの功績を残し、日本を危機から救った。
3,「徳川慶喜」が残した「汚名」とは何か?
徳川慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」の直後に、武士としては絶対にやってはならない「敵前逃亡」をやらかしている。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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