「岩倉使節団」の目的や結果を、簡単にわかりやすく解説いたします。
「使節団」が、何を目的に欧米を視察し、どんな結果を残したかご存知でしょうか?
「不平等条約撤廃」を目的とし、大勢の「日本人留学生」を連れて行った「岩倉使節団」でしたが、実は大失敗に終わったのです。
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この記事を短く言うと
・岩倉使節団とは「岩倉具視」「大久保利通」「木戸孝允」たちによる「不平等条約の改正」を目的とした「集団での海外出張」のこと
・使節団に同行した女子留学生たちは、ことごとく目的を果たせず、留学は失敗に終わった
・不平等条約の撤廃にも失敗し、残念ながら岩倉使節団の目的は果たされなかった
《岩倉具視使節団の目的とは?》
岩倉具視使節団
上の写真は、左から
長州藩「木戸孝允」、佐賀藩「山口尚芳」、「岩倉具視」、長州藩「伊藤博文」、薩摩藩「大久保利通」
岩倉使節団は以下3点を目的としています。
(1)条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
(2)江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正のための予備交渉
(3)欧米各国の制度・文物の調査研究
1871年(明治4)11月から1873年9月にかけて、約1年10か月、米欧12か国を歴訪します。
使節は46名よりなり、特命全権大使は右大臣・岩倉具視、副使は参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳の4名です。その他随員18名、留学生43名の総勢107名で構成されました。
留学生の中には、後にルソーの思想を日本に紹介した「中江兆民」や「津田梅子」ら女子5名も含まれていました。
「岩倉使節団」は横浜港を出発し、太平洋を渡ってアメリカのサンフランシスコに到着しました。
アメリカでの約8カ月に及ぶ滞在の後、岩倉使節団は大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪します。
ヨーロッパでは、イギリス、フランスを始めとして12カ国を歴訪。帰途は、フランスのマルセイユを出港し、地中海を経てスエズ運河を通り、紅海からインド洋を回り、明治6年(1873年)9月13日、横浜港に到着したのです。
留学生メンバー・女子留学生の結果がすごい
留学生の中には5名の女子がいました。
彼女たちは、日本が欧米諸国と肩を並べるためには女性の地位、学力向上が不可欠という考え、つまりは日本の将来のために、アメリカへの留学を果たしたのです。
女子5名は下記の通りです。
- 津田梅子(6歳)
- 永井繁子(10歳)
- 山川捨松(11歳)
- 吉益亮子(14歳)
- 上田悌子(16歳)
しかし、この5人のうち「上田悌子」は体調不良、「吉益亮子」は眼病を患ったことが原因で、「1872年(明治5年)」に日本へ帰国してしまいます。
一説にはホームシックが原因ともいわれています。
残る3人の事績を見てみましょう。
津田梅子:津田塾大学創始者
幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風習にも不慣れとなります。1882年帰国し「華族女学校教授」となりますが、1889年に再度渡米し1892年帰国。「華族女学校教授」「女子高等師範学校教授」となりますが、1900年職を辞し、英語を通じて女子の国際的知見を広め、英語教員を養成することを目的として東京麹町に女子英学塾を創設します。この英学塾は「津田英学塾」へと発展、1948年に「津田塾大学」となりました。
永井繁子:帰国直後に海軍大将「瓜生外吉」と結婚して兼業主婦
帰国直後の1815年に海軍軍人「瓜生外吉」と結婚。のち文部省音楽取調掛教授となり、さらに東京女子高等師範学校兼東京音楽学校・教授を務めピアノを教えます。
山川捨松:大山巌の妻
帰国した捨松は、ものの考え方から物腰まですべてがアメリカ式になっており、日本語は相当怪しくなっていました。日常会話は数ヵ月でなんとかなるようになったものの、漢字の読み書きとなるともうお手上げだったとのこと。また
「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。。。
想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」
とアメリカの友人への手紙で愚痴をこぼしています。
ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌でした。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、諸外国の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる陸軍卿としては当時最適の人材でしたが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会でした。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、その大山の夫人として最適であり、また大山は捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまったとの事です。
女子留学生は、ホームシックになったり、帰国しても日本語を忘れ、即兼業主婦になり、婚期を逃して愚痴るなど、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野に乏しかったようです。
時代的には、女子留学は成功したと言い難いのではないでしょうか。
《岩倉使節団・・・目的は果たせたのか?》
岩倉使節団の主な目的は「不平等条約の改正」でしたが、日本はまだ近代的法整備が行われていないため、失敗してしまいます。
領事裁判権を撤廃しようにも、国内刑法が整備されていませんでした。
また、関税自主権を取り戻そうとしても、商業のルールとなる商法が整備さていませんでした。
明治日本はまだ、近代国家としての形すらできていなかったのです。よって、欧米諸国にその点を突かれれば全く反論はできなかったのです。
ただし、明治新政府の首脳が欧米先進国の視察、調査をしたことは近代日本の方向性に大きな影響を与えます。
国家指針である「富国強兵」、「殖産興業」の方針が生まれ、日本はそれに向かってつき進むことになります。
《『岩倉使節団』について、レビュー(評論)!》
岩倉具視使節団・・・その目的は、全く果たされず、失敗に終わった・・・異説もあるとは思いますが、残念ながら「不平等条約撤廃」が出来なかったということが、何より「失敗」の評価を下す最大の原因だと言えます。
岩倉使節団という「大視察団」が、欧米を視察したという経験は、おそらく後の日本に大きな影響を残した・・・とは思いますが、果たして成功だったと言えるのかは、大いに疑問が残ります。
ただ一つだけ、岩倉具視使節団には、収穫があったと言えることがあります。
それは、ドイツの「鉄血宰相」こと「ビスマルク」と会談できたこと、ではないでしょうか。
「列強は国際法順守を相手国へ求めるが、それが自らの国益に沿わなければ、国際法を無視する」
ビスマルクは、使節団に対して、このように教えたようです。
これはつまり
「国家は常に、自国の国益を優先すべき」
という意味なのでしょう。
幕末、最強国「大英帝国」の外務大臣だった「パーマストン子爵」もまた、似たようなことを言っています。
「『絶対敵』も『絶対味方』も存在しない。あるのは『絶対的な国益』のみ」
(敵も味方も、国益のために利用すべきもので、いつでも敵味方を柔軟に入れ替えればよいだけのことだ)
日本史にその名を残す大政治家「大久保利通」は、「ビスマルク」を生涯にわたって尊敬し続けたと言われています。
ドイツを建国し、曲芸外交をもって「露仏同盟」を阻止し続けた空前絶後の名宰相「ビスマルク」。
彼との会談は、日本にとっても益するところの大きいものだったのではないでしょうか。
この時、ビスマルクはヨーロッパにおいて、恐るべき外交力で「三国同盟」「三帝同盟」「三国協商」などを次々と締結し、戦争を回避し続けます。
これにより、日本は国力を整える時間を稼ぐことに成功。
西欧列強の介入を最小限に抑えて、近代化に邁進できたのです。
国益・・・・それを守るために「ビスマルク」をうまく利用した明治日本の元勲たち・・。
大久保利通の末裔「麻生太郎」元総理大臣らは、大久保利通ほどに「国益」を現代日本にもたらすことができているのでしょうか?
国益を損ねまくっている・・・・「平和の象徴」を思わせる名前の「元・総理大臣」もいますがね・・・・。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・岩倉使節団の主要な目的は不平等条約の改正の予備交渉と欧米の調査でした。約1年10か月、米欧12か国を歴訪しました。
・女子留学生は、長い留学生活で帰国時には日本語や日本の文化を忘れてしまいます。そして、時代的には留学経験を生かせる職業分野は乏しかったのです。
・不平等条約改正は時期尚早であり、失敗しました。しかし、欧米各国の視察はその後の日本の方針に影響を与えました。
明治になって間もない明治4年に、107名もの人数で海外に行くという大英断は非常な驚きです。
維新のエネルギーがそれを可能にしたと思うと、当時の日本人の近代国家への変革の熱い思いが感じられます。
以上となります。
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