西南戦争の原因を簡単にわかりやすく解説!西郷隆盛の最期と覚悟に絶句

日本での最後の内乱となった明治10年の「西南戦争」

明治維新の最大の功労者である「西郷隆盛」は、薩摩隼人に体を預け、壮絶な最期を遂げます。


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この記事を短く言うと

・西南戦争の原因は、薩摩の暴発を恐れた新政府と、薩摩軍の行き違い

・西郷は積極的に作戦を立案せず、勝利するつもりはなかった

・最期は別府晋介に介錯され、亡くなった


≪西南戦争の原因は何?≫

「引用元ウィキペディアより」

明治維新以後、日本は急ピッチで近代国家へ改革を成し遂げていきます。

版籍奉還(全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革)

廃藩置県(それまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)により中央集権国家が形作られ、様々な制度が整えられていきます。

軍政制度に関しては徴兵令が施行され、陸海軍が設置されました。

また身分制度は士農工商を廃し、四民平等がうたわれ、廃刀令が出されます。

これにより江戸時代の士族の特権はなくなったのです。

戊辰戦争を戦ったのは、長州藩の奇兵隊等を除き、主に士族です。

自分たちが命を懸けて戦い、討幕を果たしてみると、藩はなくなり、士族の特権はなくなってしまいました。

しかも、明治政府に仕えた一部の者は、過去の殿様のように栄華を極めている。

そうすると、多数の士族は「命をかけて戦ったのはこんな世の中にするためだったのか。」と思ったわけです。


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その頃、西郷隆盛は明治政府で参議という首脳陣のひとりでした。

西郷は不平士族を連れて朝鮮に出兵し、鎖国している朝鮮を開国させようとします。(これを征韓論といいます。)

しかし、大久保利通を中心とする内治派(朝鮮なんか出兵している場合じゃない。国内が優先!という派閥。)に敗れ、参議の職を投げうって鹿児島に帰ってしまいます。

西郷を慕う旧薩摩士族も官を辞し、鹿児島に帰るものが続出しました。

明治政府にとって、鹿児島に帰った西郷が不平士族を率いて武装蜂起するのではないかと非常に恐れました。

一方、西郷は共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育するために鹿児島に私学校をつくります。

西郷の構想では、将来外国と摩擦が起きた時、私学校の生徒を率いて行動に出るつもりであったとか。


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その後、不平士族の反乱が次々と起こります。

佐賀の乱(元参議「江藤新平」の乱)

神風連の乱(熊本)

秋月の乱(福岡)

萩の乱(山口・・・吉田松陰の弟子「前原一誠」の乱)などです。

反乱は各個に、短期間に明治政府軍により鎮圧されます。

各乱の首領は、いずれも自らが立ち上がれば、西郷も立ち上がり、それにより全国の不平士族が立ち上がり、明治政府は転覆できると信じていましたが、彼らと一緒に西郷が立ち上がることはありませんでした。

明治政府は各地で起こる不平士族の乱を鎮圧しながらも、鹿児島を恐れ、脅威と感じていました。

明治政府の要である大久保利通と、警察組織を束ねる川路利良は、薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、不平士族の離間工作を図りました。

中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられ、苛烈な拷問が行われた結果、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」がとられました。

この件は西郷に私学校の人間を憤激させました。

西郷は征韓論で敗れ下野したとはいえ、明治維新の最大の功労者。

その西郷を暗殺しようとするとは何事であるか、それほど新政府の人間(主なターゲットは薩摩出身である大久保、川路)は思いあがっているのか、と。


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この刺客問題が、新政府に対する不平をもっていた私学校暴発の巨大なエネルギーとなったのです。

その時期、明治政府では鹿児島にある火薬庫・兵器庫の武器弾薬を大阪に移動しようとし、秘密裏に汽船を差し向けました。

これに気付いた私学校生徒が火薬庫を襲い、武器弾薬を奪いました。

それを知った西郷は、「しまった!」と叫んだとのこと。

これは政府に対する挑戦と受け取られ、政府に鹿児島討伐の名目を与えるものでした。

火薬庫を襲ってしまったという既成事実と西郷への刺客問題により、私学校では武装蜂起と決し、西南戦争へと突き進みます。

その目的は、陸軍大将である西郷が兵を率い東京へ行き(そうすれば各地の士族も立ち上がるという期待感もあった)、その武力を背景に新政府に改革を迫るという事でした。


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≪西郷隆盛は、必ず負けるとわかっていた≫

私学校での評議の中、裁断を求められた西郷は

「自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され」

と暴発を認めます。

戊辰戦争では、官軍の参謀として戦略を考えた西郷でしたが、西南戦争では自ら戦略、戦術を考えた形跡はありません。

よって、西郷が西南戦争を認めた意図がどこにあるのか分かりづらいのですが、もし挙兵を阻止するつもりであれば、西郷が腹を切って慰撫すれば済んだかもしれず、また本気で勝つための戦いをしようとしれば、長崎で軍艦を奪い、東京もしくは大阪を突く、あるいはまず九州全土を手のうちにすることを考える等、積極的に大戦略を立案するべきでしたが、西郷は沈黙したままでした。

そして、薩摩軍は無謀にも旧式装備で難攻不落の熊本城攻めにこだわってしまうのです。

熊本城の鎮台兵の頑強な抵抗にあった薩摩軍は、今後どうすべきか、という軍議を開きますが、議論百出して決まりません。

西郷の裁断を仰ぐと、西郷は「一部の兵で熊本城の抑えをし、残りの兵で熊本城を救出しに来る政府軍にあたる」という中途半端な方針を決めます。

結果、西南戦争は熊本を中心とした狭い範囲での視野にしばられ、当初考えられていた、遥か東京に武装陳情に行くという、壮大な考えは矮小化されてしまいました。

西郷は、政府軍に勝つつもりはなかったのかもしれません。

西郷の狙いとは何だったのでしょう。

西郷は、真の日本武士の最後の戦いぶりというもの、日本人が忘れてはならない心を、世に示そうとしたのではないでしょうか。


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≪西郷隆盛の最期の様子≫

薩摩軍は薩摩士族の驚異的な勇敢さを見せつけ善戦しますが、兵数が圧倒的に多く兵器が優秀な政府軍に各所で敗れます。

そして、兵数は少なくなり、銃弾は底をつき、故郷で死ぬことを願って、政府軍の重囲いを突破して鹿児島へ還ってきます。

そして、370人程の薩摩軍が城山に籠ります。

政府軍は5万人以上の兵で城山を囲み、遂に総攻撃をかけます。

戦況は圧倒的に薩摩軍に不利です。

西郷は自殺することは考えず、闘死しようと考えていました。


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そして、西郷が率いる本営は最後の突撃に出ます。

西郷は銃弾の飛び交う最前線に行き、2発の小銃弾をくらいます。

西郷はつんのめるように倒れますが、すぐ体を起こし、後ろの別府晋介(薩摩軍幹部のひとり)を振り返り言います。

「シンどん、もうここでよか。」

別府晋介は

「ごめんなってもんし(お許しください)」

と言って、西郷の首をはねました。

西郷の首は一旦土中に隠されますが、政府軍の捜索で探し出されます。

政府への反乱者であるにもかかわらず、西郷以下・薩摩軍幹部の死体は、寺の墓地に丁重に葬られます。

明治天皇は西郷の死を聞くと

「朕を本当に思ってくれたのは、西郷ただ一人であった」

と周囲のものに語り、隆盛の死を悲しんだと伝えられています。


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≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・明治新政府は薩摩の暴発を恐れ、その新政府の挑発にのってしまった薩摩士族は武装蜂起をしていまいます。

・西郷は勝てるように戦略、戦術を考えようとせず、ただ、薩摩軍に体を預けるだけでした。

・城山に籠った薩摩軍に新政府軍は総攻撃をかけます。西郷も最後の突撃をし、銃弾をくらい、

別府晋介にその首をはねさせます。

日本最後の内乱である西南戦争。薩摩軍に壮大な戦略はなく、ただ局地的な戦闘を重ねるだけでした。

しかしながら、各戦線での薩軍の勇気と戦いぶりは驚嘆すべきものであり、政府軍を何度も退けます。

最後は兵数、兵器の質、物量などの差により敗れますが、見事に武士最後の戦いを飾ったと思います。

以上となります。

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ありがとうございました


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