MENU

西南戦争の原因を簡単にわかりやすく解説!西郷隆盛の最期と覚悟に絶句

1877年(明治10年)「西南戦争」勃発。

戦争が起こった「原因」は何だったのか?そして英雄「西郷隆盛」は、どのような最期をとげたのか?

わかりやすく解説いたします。

「西南戦争」は「武士の特権剥奪」「弾薬の運び出し」、そして「西郷隆盛暗殺」が原因で勃発してしまった。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・西南戦争の原因は、「薩摩の暴発を恐れた新政府」と、「薩摩軍」の行き違い

西郷隆盛はもともと戦う意思もなく、勝利するつもりもなかった

・最期は「城山決戦」の末に、別府晋介に介錯(斬首)され、亡くなった


≪西南戦争の原因は何?≫

「引用元ウィキペディアより」

西南戦争が勃発してしまった原因は、主に3つ。短く解説すると、以下の通りになります。

1,明治維新後の改革で、武士は特権を次々と奪われ、不満が高まっていた

2,西郷隆盛達の「暴発」を恐れた明治政府が、鹿児島に保管していた「弾薬」を他所へ移動しようした。そのため、薩摩士族の怒りに火がついた。

3,大久保利通たち明治政府が、スパイに「西郷隆盛の暗殺」を指示したとして、西郷隆盛を尊敬する者たちが激怒した

元々、キレてしまう直前の士族(元武士)たちに対して、彼らのリーダーであり日本一人気がある英雄「西郷隆盛」を暗殺しようとしたため、士族が暴発し、西南戦争が起こってしまったのです。



スポンサーリンク


明治維新以後、日本は急ピッチで近代国家へ改革を成し遂げていきます。

 

版籍奉還(全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革)

廃藩置県(それまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)により中央集権国家が形作られ、様々な制度が整えられていきます。これにより武士は「勤め先(就職)」を失ったことになります。

・軍政制度に関しては徴兵令が施行され、陸海軍が設置されました。

・「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」によって、それまで士族(元サムライ)に支給されていた給与が、支給されなくなった

・また身分制度については、「士農工商」を廃し、四民平等が実現。士族には「廃刀令」が出されます。



スポンサーリンク


これらの改革により、江戸時代の士族(元サムライ)の特権は、ほぼ完全になくなったのです。

戊辰戦争を戦ったのは、高杉晋作がつくった長州藩の奇兵隊等を除き、主に士族(サムライ)です。

自分たちが命をかけて戦い、「討幕」を果たしてみると、勤務先だった「藩」はなくなり、士族の特権はなくなってしまいました。

しかも、明治政府に仕えた一部の者は、過去の殿様のように栄華を極めている。

そうすると、多数の士族は「命をかけて戦ったのはこんな世の中にするためだったのか。」と思ったわけです。

「良い国を創るためと、命がけで戦い、勝利してみると、失業した」

武士たちの絶望と怒りは、想像を絶したはずです。



スポンサーリンク


その頃、西郷隆盛は明治政府で参議という首脳陣のひとりでした。

西郷は不平士族を連れて朝鮮に出兵し、鎖国している朝鮮を開国させようとします。(これを征韓論といいます。)

しかし、大久保利通を中心とする内治派(朝鮮なんか出兵している場合じゃない。国内が優先!という派閥)に敗れ、参議の職を投げうって鹿児島に帰ってしまいます。

西郷をしたう旧薩摩士族も官を辞し、鹿児島に帰るものが続出しました。(明治六年の政変

明治政府は、鹿児島に帰った西郷が、不平士族をひきいて反乱を起こすのではないかと、非常に恐れました。戊辰戦争の英雄・西郷隆盛が立ち上がったら、全国の元武士は一斉に立ち上がり、下手したら政府軍は敗北するからです。

一方、西郷は共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育するため鹿児島に「私学校(しがっこう)」をつくります。つまり、「不平士族による反乱を、おさえこもうとした」のです。

西郷の構想では、将来外国と戦争が起きた時、私学校の生徒をひきいて戦場に出るつもりであったとか。


私学校とは何か?何を教えていたのか?」については、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


西郷隆盛たちが政府を辞めたあと、不平士族の反乱が次々と起こります。

などです。

反乱は各個に、短期間で明治政府軍により鎮圧されます。

各乱の首領はいずれも、自分たちが立ち上がれば、西郷隆盛も立ち上がり、それにより全国の不平士族が立ち上がり、明治政府を倒せると信じていました。しかし、西郷が立ち上がることはありませんでした。

明治政府は各地で起こる不平士族の乱を鎮圧しながらも、やはり最大の力を持つ「鹿児島」と「西郷隆盛」を恐れていたのです。



スポンサーリンク


明治政府のトップである大久保利通と、警察組織を束ねる「川路利良」は、薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県にスパイとして送り込みました。。

中原らのスパイ計画は、私学校の生徒に簡単にバレてしまいます。私学校生徒に捕らえられた中原たちは、厳しい拷問がおこなわれました。

そして中原たちは、スパイとして潜入した目的を、自白してしまうのです。

「サイゴウヲ シサツ シニキタ」

これは、拷問官による「聞き間違い」だったとも言われています。

中原が自白した「サイゴウヲシサツ」。「シサツ」とは「視察」という意味だったものを、中原たちに拷問した私学校生徒が「刺殺」と勘違い・・・つまり「西郷隆盛を暗殺せよ」という命令だと勘違いし、激怒したということです。

この件は、私学校の人間を激怒させます。

西郷は征韓論で敗れ下野したとはいえ、明治維新の最大の功労者。徳川家康が開き260年もの間、日本を治めていた「徳川幕府」を倒したのは、「戊辰戦争の英雄」西郷隆盛だったのです。その西郷に対する国民のあこがれは相当なものでした。しかも西郷は、贅沢三昧・私腹を肥やすばかりの明治新政府の首脳達(伊藤博文山縣有朋井上馨など)に比べると、貧乏暮らしを好む清廉潔白な人柄で、人気を集めまくっていたのです。

「英雄・西郷先生を暗殺しようとするとは、何を考えているのだ!

誰のおかげで明治政府が誕生したと思っている!

政府は(大久保利通や川路利良)そこまで思いあがっているのか!」

と。



スポンサーリンク


これら「暗殺未遂問題」が、新政府に対する不平をもっていた「私学校暴発」の巨大なエネルギーとなったのです。

この時期、明治政府は「山縣有朋」と「大山巌」に命令し、鹿児島にある「火薬庫・兵器庫」の「武器弾薬」を大阪に移動しようとし、秘密裏に汽船「赤龍丸」を差し向けました。

これに気付いた私学校生徒は、火薬庫を襲い、武器弾薬を強奪。当時、鹿児島で「武器弾薬」を製造していたのは「集成館」。その集成館の機械は、鹿児島士族が自らお金を出して運用していたものです。いくら政府のものとはいえ、薩摩士族がお金を出して作らせている弾薬を、勝手にコソコソ持ち出したら、誰でも怒ります。そのため、勝手に持ち出されないよう、私学校生徒は火薬庫を襲撃し、弾薬を奪い取ったのです。

それを知った西郷は「しまった!」と叫んだとのこと。

この「弾薬強奪事件」は、「政府に対する挑戦」と受け取られ、政府に「鹿児島討伐」の名目を与えるものでした。もはや戦争は避けられません。薩摩は暴発してしまったのです。西郷が最も恐れていたことが、現実となってしまいました。

火薬庫を襲ってしまったという事実と、西郷暗殺問題により、私学校では武装蜂起することが決定され、西南戦争へと突き進みます。

その目的は、「陸軍大将」である西郷が兵を率い東京へ行き(そうすれば各地の士族も立ち上がるという期待感もあった)、その武力を背景に、新政府に改革を迫るという事でした。

西郷が「しまった!」と叫んだのは、もはや「反乱」を止めることができなくなったことを悟ったからです。私学校は「不平士族の受け皿」とするために作られた学校。西郷は、目指していた「反乱を起こさせない」という目標を達成できず、完全にしくじってしまいました。



スポンサーリンク


≪西郷隆盛は、必ず負けるとわかっていた≫

私学校での会議で、決断を求められた総大将・西郷隆盛は

「自分はこの身体を差し上げますから、あとはよいようにして下され」

と私学校の生徒と、薩摩の暴発を認めます。

「戊辰戦争」では、官軍の参謀として戦略を考えた西郷でしたが、「西南戦争」では自ら戦略、戦術を考えた形跡はありません。

ですので、西郷はいったい何を目的に「西南戦争」を起こしたのか、非常にわかりにくいのです。

しかし、もし挙兵を阻止するつもりであれば、西郷が切腹してしまえばすんだかもしれません。また本気で勝つための戦いをしようとしれば、いきなり「難攻不落」の熊本城を攻撃しようとせず、他を目指すはず。熊本城の降伏を期待していたという意見もありますが、それにしては熊本城に固執しすぎた感じがします。(とはいえ西郷が一人切腹すれば、西郷は士族を見捨てた裏切り者として、汚名を残すことになりますし、薩摩軍は暴徒化して各地に散らばり、ゲリラ戦を行う可能性もありました。切腹は難しかったでしょう)



スポンサーリンク


薩摩軍・政府軍の中心人物たち

薩摩軍と政府軍の中心人物を、簡単にご紹介いたします。

 

【薩摩軍】

総大将・西郷隆盛

2018年12月2日放送の「西郷どん」・・・第45回「西郷立つ」。

この回の最期、西郷の自宅から「西郷隆盛」「西郷小兵衛」「市来宗介」「西郷菊次郎」「桂久武」「村田新八」「別府晋介」「熊吉」らが出撃。

海江田信義」や「川口雪篷」「西郷琴」「西郷糸子」らが見送っています。

この時出撃した人たちで、生きて帰ってきたのは「西郷菊次郎」と「熊吉」のみ。他は全員が戦死。薩摩武士らしく、誇り高く見事な最期を遂げたのです。

 

【政府軍】

総大将・有栖川宮熾仁親王

副司令官・山縣有朋および川村純義

  • 山田顕義
  • 川路利良
  • 大山巌
  • 谷干城
  • 樺山資紀
  • 児玉源太郎
  • 乃木希典(西南戦争で敵に旗を奪われたことを理由に、明治天皇崩御の直後に自決)

 

有栖川宮熾仁親王は、戊辰戦争で「新政府軍」の総大将をつとめた人物。西郷隆盛を参謀にして、江戸へ進軍した人物なのですが、「西南戦争」でその西郷隆盛を敵として戦うことになるとは・・・。悲劇としか言えないめぐり合わせです。



スポンサーリンク


熊本城の戦い

薩摩軍は無謀にも旧式装備で「難攻不落の熊本城」攻めを開始します。攻めやすいところを攻めるのが、戦略の基本のはず。にもかかわらず薩摩軍は、「城づくりの名人・加藤清正」がつくった名城「熊本城」を攻撃。

薩摩軍14000人 VS 熊本城4000人

守備するのは、土佐藩出身の「谷干城(たにかんじょう)」。あの「坂本龍馬」に強く憧れて、「龍馬暗殺」の現場に最初に駆けつけた人物です。それを補佐していたのが、西郷とも顔なじみの薩摩士族「樺山資紀」。西郷は顔なじみの樺山資紀に降伏をすすめますが、樺山は降伏を拒絶。開戦します。

難攻不落の「熊本城」に苦戦した西郷軍に、政府の援軍が迫ります。

熊本城の谷干城は、「52日」もの間、薩摩軍を防ぎきりました。薩摩軍の攻撃にまったくまとまりがなかったことも幸いでした。

熊本城の鎮台兵の頑強な抵抗にあった薩摩軍は、今後どうすべきか、という軍議を開きますが、結論は出ません。

西郷は「熊本城の抑えとして一部の軍を残し、残りの軍で熊本城へ向かう政府の援軍を迎撃する」という作戦を決めます。

その結果、政府の援軍と「田原坂(たばるざか)の戦い」で激突。死闘を繰り広げた後、熊本城を落とすことはできずに、撤退することとなります。



スポンサーリンク


田原坂の戦い

西南戦争最大の激戦「田原坂の戦い」

1日に60万発もの銃弾が飛びかい、「かちあい弾」と呼ばれる「空中で弾丸と弾丸がぶつかったもの」も、数多く見つかっています。現在でも「田原坂」からは「銃弾」が見つかるほどです。凄まじい激戦だったのでしょう。

「田原坂」は、現在の「熊本県玉名郡」。「トム・クルーズ」主演の映画「ラストサムライ」、ラストシーンの突撃は、この「田原坂の戦い」をモデルにしたと言われています。

「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」

この激戦で、薩摩軍の「抜刀隊」は活躍するものの、薩摩軍の幹部「篠原国幹」らが戦死。薩摩軍は敗走します。

「田原坂の戦い」で政府軍が勝利したことにより、薩摩の敗北が決定的となります。

 

田原坂の戦い」について、詳しく解説させていただきます。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

この戦いを今に伝える「民謡」があるのですが、その歌詞に登場する「美少年」・・・実は「あの人」の「息子」という説があるようです。



スポンサーリンク


≪西郷隆盛の最期の様子≫

城山の戦い

薩摩軍は薩摩士族の驚異的な勇敢さを見せつけ善戦しますが、兵数が圧倒的に多く兵器が優秀な政府軍に「九州南部」の各地で連敗します。

そして、兵数は少なくなり、銃弾は底をつき、故郷で死ぬことを願って、政府軍の包囲を突破して鹿児島へ帰還。

そこで西郷は「軍の解散」を指示。「死にたくないものは逃げよ」と命じたのです。

西郷を慕って残った「372人」の薩摩軍は、鹿児島「城山」にたてこもります。(城山籠城戦

政府軍は5万人以上の兵で城山を囲み、遂に総攻撃。

戦況は圧倒的に薩摩軍に不利です。

西郷は自殺することは考えず、戦って死のうと考えていました。

そして、西郷が率いる部隊は「最後の突撃」に出ます。

西郷は銃弾の飛び交う最前線に行き、2発の小銃弾を被弾。これにより、西郷は覚悟をきめます。



スポンサーリンク


英雄「西郷隆盛」の最期

被弾して倒れた西郷は、後ろにいた別府晋介(べっぷしんすけ)(薩摩軍幹部のひとり)に言います。

「シンどん、もうここいらでよか。」

介錯してくれ・・・。つまり「とどめを刺してくれ」という意味です。

これを聞いた別府晋介は、涙を流しながら

「ごめんなってもんし(お許しください)」

と叫び、西郷の首を切断。(別府晋介ではなく桐野利秋がやったという説もある)

西郷隆盛戦死。享年51歳(満年齢49歳)

西郷の首は一度、土に埋められて隠されますが、山縣有朋たちの捜索で発見。

政府への反乱者であるにもかかわらず、西郷以下・薩摩軍幹部の死体は、寺の墓地に丁重に葬られます。

西郷の目的は、何だったのか?

戦争に勝利するつもりが、「熊本城」を落とせないという誤算が生じたのか?それとも、初めから「勝つつもりなどなかった」のか?

「敗北は誤算」だったのか。それとも「敗北は計画通り」だったのか。

いずれにしろ「西南戦争」を最期に、現在まで日本では「内戦」が起こっていません。これは「西郷隆盛」という、絶対的な英雄が政府に為すすべなく破れたからこその「平和」なのかもしれません。

「西南戦争」戦死者の数

西南戦争の戦死者数は、どれくらいなのでしょうか?

政府軍の戦死者は「6403」人。

薩摩軍の戦死者は「6765」人。

両軍とも、かなりの損害を受けています。

政府の勝利とはいえ、西郷隆盛の力は、政府と互角に戦えるだけのものがあったのです。

西郷の死後。大久保利通の末路

西郷隆盛が亡くなったことを知った明治天皇は、悲しみに暮れます。

「(自分は)西郷を殺せとは言わなかった」

「朕(わたし)を本当に想ってくれたのは、西郷ただ一人であった」

と周囲のものに語り、隆盛の死を悲しんだと伝えられています。

 

政府軍の指揮をとった「大久保利通」は、幼い頃から自分を実の弟のようにかわいがってくれた盟友「西郷隆盛」の死を知り、泣き狂い、こんな言葉をつぶやいたと言われています。

「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる。強か日本が・・。」

西郷隆盛が亡くなった1年後、1878年、大久保も西郷のあとを追うかのように「紀尾井坂の変」で壮絶な最期を遂げるのです。


大久保利通の生涯」「紀尾井坂の変」について、よろしければ、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・明治新政府は薩摩の暴発を恐れ、その新政府の挑発にのってしまった薩摩士族は武装蜂起をしていまいます。

・西郷は勝てるように戦略、戦術を考えようとせず、ただ、薩摩軍に体を預けるだけでした。

・城山に籠った薩摩軍に新政府軍は総攻撃をかけます。西郷も最後の突撃をし、銃弾をくらい、

別府晋介にその首をはねさせます。

日本最後の内乱である西南戦争。薩摩軍に壮大な戦略はなく、ただ局地的な戦闘を重ねるだけでした。

しかしながら、各戦線での薩軍の勇気と戦いぶりは驚嘆すべきものであり、政府軍を何度も退けます。

最後は兵数、兵器の質、物量などの差により敗れますが、見事に武士最後の戦いを飾ったと思います。



スポンサーリンク


余談ですが、「西南戦争」には、数多くの有名人の親族が参戦しています。

「元白虎隊士」「元新選組隊士」「新選組三番組長・斎藤一」「新渡戸稲造の兄」「山本五十六の兄」「古今亭志ん生の父」「沖田総司の甥」など。彼らは「警視隊」として参戦。その剣術で、とてつもない活躍をしています。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



スポンサーリンク


「西郷隆盛」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

これらの記事でも「西郷隆盛」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。

「西郷隆盛」の記事一覧

 

「西郷隆盛」の関係者 記事一覧

 

「西郷隆盛」に関係する歴史的出来事の記事

 

「大久保利通」の関連記事


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次