城山籠城戦(城山決戦)を時系列でわかりやすく解説!西郷隆盛の最期がスゴイ

「西南戦争」の最終戦「城山決戦(城山籠城戦)について、時系列でわかりやすく解説いたします。
維新の英雄「西郷隆盛」が、命を落とした「城山決戦」。
西郷隆盛が城山に至るまでの経緯と、最期の様子が、すごかった!
実は生き残ろうと思えば、いくらでも生き残れた。
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この記事を短く言うと
目次
西南戦争・戦闘開始(2/20)から、城山籠城(9/1)まで
そもそも西南戦争はどうして起こったのか?
1873年(明治6年)、西郷隆盛は「征韓論争」と呼ばれる大久保利通との政争に敗北。鹿児島へかえってきます。(明治六年の政変)
すると西郷を慕って、全国の士族(元サムライ)たちが続々と鹿児島に集結。
彼らの受け皿として、西郷は「私学校」という学校を作り、「軍事訓練」をさせるのです。
そんな西郷と私学校の武力蜂起、つまり反乱を恐れた明治政府は、私学校にスパイを送り込みます。
「サイゴウヲシサツセヨ」
私学校生徒に正体がバレたスパイは、拷問を受け、「シサツ」という私学校への潜入の目的を自白。
西郷を慕っていた私学校の生徒たちは、西郷を殺害しようとした明治政府に激怒。
反乱を抑えきれなくなった「西郷」は13000名の兵とともに、鹿児島から北上を開始。
1877年(明治10年)2月20日、薩摩軍「別府晋介」の部隊が、熊本城所属の政府軍偵察隊と衝突。
この戦いをもって、「西南戦争」が始まります。
薩摩軍は「谷干城(たにたてき・たにかんじょう)」が守る「熊本城」を攻撃。
しかし難攻不落の名城「熊本城」を攻め滅ぼすことができず、政府軍の援軍が熊本城救援のために接近してきます。
3月1日、薩摩軍は、政府の援軍を迎撃するため、「田原坂」に「防御陣地」を構築して戦闘。同時に「吉次峠」でも戦闘。
17日に渡って続いた「田原坂の戦い」は、両軍合わせて約3500名の戦死者をだし、政府軍が勝利します。
熊本城を攻め落とせなかった薩摩軍と西郷隆盛は、「人吉」の方面へと撤退。
5月26日、京都にて、西郷隆盛の盟友「木戸孝允」が病死。最期の言葉は
「西郷!いい加減にしろ!」
だったといいます。
8月15日、各地で敗北を重ねた薩摩軍は、宮崎県延岡の「和田峠」で政府軍と戦闘し、敗北。
8月16日、西郷隆盛は「軍の解散」を指示。1000名の軍のみが残ることとなります。
薩摩軍はその後、本拠地の「鹿児島」を目指して、政府の包囲軍を撃破。
9月1日、薩摩軍は鹿児島に到着。
城山籠城(9/1)から、城山決戦(9/24)まで

《城山決戦》
「引用元ウィキペディアより」
1877年(明治10年)9月1日、西郷軍が鹿児島に到着。
しかし、その時すでに鹿児島は、海から侵入してきた政府海軍により選挙されていました。
西郷軍の本拠地「私学校」も「200名」の政府軍が占領。ところが西郷軍は、あっという間に「私学校」を奪い返し、「城山」を中心に陣をかまえます。
9月3日、政府軍の反撃により、西郷軍は劣勢に。
9月4日、米倉での戦闘でも、西郷軍は敗北。
9月6日、政府軍は「城山」を完全包囲。この時、西郷軍は「372名」
9月19日、抵抗を続ける西郷軍から、「西郷」と「桐野利秋」には秘密にして、「山野田」「河野」の二人が、「西郷の助命」を交渉するため、政府軍総大将「川村純義」と「山縣有朋」と面会へ向かいます。
9月23日、「山野田」が西郷のもとへ帰還。西郷の従兄弟の夫である「川村純義」は、西郷に「降伏」をすすめ、西郷に恩のある「山縣有朋」は、西郷に手紙で「自決」をすすめたが、西郷は聞き入れませんでした。
この日の夜、政府軍の「西郷を慕う兵士」たち、「陸軍軍楽隊」により、城山へ「葬送曲」が奏でられます。現在でも、同日同時刻に、自衛隊が同じ曲を演奏する慣習が残っているみたいですね。
9月24日午前4時、政府軍による総攻撃が開始。
西郷隆盛をはじめ、桂久武・村田新八・桐野利秋・別府晋介らは、最期の突撃を開始します。
「西郷隆盛」最期の様子
政府軍へ突撃した西郷隆盛。
しかし足と腹部に銃弾を受けた西郷は、負傷してカゴに乗っていた「別府晋介」に声をかけます。
「晋どん。もうここいらでよか」
西郷は正座して身を正し、「明治天皇」のおわす「東」の方向に丁寧に礼をし、それを済ませると、静かに合掌。
「ごめんなったもんし(お許しくださいませ)」
と叫んだ別府晋介は、西郷の首へ刀を振り下ろします。
西郷隆盛。死亡。享年51歳。
直後に「別府晋介」も切腹。
村田新八・桂久武・桐野利秋らも、間もなく戦死。
西郷隆盛の首は、政府軍に奪われることを恐れた西郷軍により、地中へ埋められますが、政府軍が回収。
山縣有朋が、西郷の首を確認しています。
戦後、何が起こったのか
1877年9月24日午前9時、戦闘終了。薩摩軍は「160人前後」が戦死。「200人前後」が降伏しています。
それまで晴れていた鹿児島の街には、英雄「西郷隆盛」の死を悲しむかのように、涙雨が降り注いだ、と言われています。
雨が止むのを待って、政府軍司令官の1人「山縣有朋」は、西郷の遺体を確認します。
その後、毛布にくるまれた西郷の御遺体は、大きな木の箱に納められ、現在の「南洲神社の鳥居」あたりに埋葬されます。
その後発見された西郷の「首」もまた、丁重に葬られています。
1877年9月30日、西郷たち薩摩軍に協力していた鹿児島県知事「大山綱良」が、長崎で斬首刑。
1878年5月14日、内務卿「大久保利通」が東京「紀尾井坂」で「島田一郎」たちに襲撃されて死亡(紀尾井坂の変)
1889年(明治22年)2月11日、「大日本帝国憲法」の発布にともなう「大赦」が行われ、西郷隆盛の名誉が回復。わずか12年での「名誉回復」は、西郷を気に入っていた「明治天皇」のご意向が、強く働いていたとのことです。
1898年(明治31年)12月18日、「上野戦争」での戦勝を記念して、上野恩賜公園に「西郷隆盛像」が建立。西郷の妻「糸子」は、この銅像を観て
「違う!うちの人はこんな人じゃない!」
と叫んだといわれています。
どうやら「着流し」という粗末な格好をしていたことが気に入らなかったようです。顔が似ていないという意味ではなく、誰に対しても正装で迎えた西郷の人柄を訴えたかったのだと、西郷のお孫さんが、後に証言しています。
「大久保利通・暗殺」について、よろしければ以下のリンク記事を、お役立てくださいませ。
『城山決戦』について、レビュー(評論)!
城山決戦の時、西郷のもとには「372名」の兵士が残っていたといわれています。
西南戦争が始まった時、薩摩軍は「13000名」だったそうですから、3%弱しか残らなかったことになります。
しかし、「絶対に負ける」「生きては帰れない」状況にもかかわらず、「372名」もの人間が、西郷とともに死ぬことを選んだと考えると、「西郷隆盛」という人物の「カリスマ性」が、どれほど凄まじいものだったのかが、感じられる気がします。
個人的には、「どうして熊本城という、難攻不落の名城を攻めてしまったのか?」と考えてしまいます。
西郷軍は、薩摩を出発して熊本に到着するまでの間に、各地でかなりの賛同者を加えているのです。
熊本城にかまわず、全国にいた「西郷ファン」を加えるためにも、さっさと本州方面へ進んでしまっていれば、さらに戦局は好転したかもしれません。
もちろん、薩摩軍には、政府軍ほど安定した「補給」がないため、補給線が伸びきってしまうことは危険です。
しかしそれにしても、「熊本城」を攻撃したことは、失敗だったと思います。
「戊辰戦争を戦い抜いた精鋭部隊・最強『薩摩軍』ならば、熊本城など、あっという間に攻め落とせる」
そう過信していたのかもしれません。
もしくは「もともと勝利するつもりなどなかった」のか・・・。
いずれにしても「城攻めの名人」と呼ばれた「豊臣秀吉」に育てられ「築城の名人」と呼ばれた名将「加藤清正」がつくった「熊本城」が、270年の時を超えて、英雄「西郷隆盛」の死を早めた、と言えるのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめます
- 西南戦争は、「サイゴウヲシサツ」というスパイの自白に激怒した私学校生徒たちによって始まった
- 西南戦争は、薩摩軍が熊本城攻撃に苦戦し、田原坂の戦いに敗北したことにより、一気に政府軍有利へと戦局が傾いた
- 1877年9月24日、「城山決戦」で、西郷隆盛は亡くなった。最期は別府晋介の介錯で首を討たれた
以上となります。
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