「吉田松陰」と「坂本龍馬」の知られざる関係を、わかりやすく解説いたします。
「松下村塾」で、数々の偉人を育て上げた「吉田松陰」。
「薩長同盟」や「大政奉還」などを成し遂げた「坂本龍馬」。
実は二人はともに「佐久間象山」の弟子。つまり兄弟弟子だった!
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坂本龍馬と吉田松陰!接点は?
坂本龍馬は1836年に、土佐藩(高知県)の郷士の家に生まれました。
吉田松陰は1830年に、長州藩(山口県)の藩士の家に生まれました。
坂本龍馬は1853年、剣術修行のため江戸に遊学し、北辰一刀流の千葉道場に入門します。
龍馬は江戸遊学中、剣術修行の傍ら、著名な思想家で松代藩士である『佐久間象山』の私塾に入門しました。
下の写真が『佐久間象山』です。「真田幸村」の兄「真田信之」が治めた「松代藩」の天才。当時かなり有名な学者さんだった方。
引用元ウィキペディアより
そこで龍馬は西洋の砲術や蘭学などを学びましたが、龍馬が弟子入りし数か月後、佐久間象山は弟子であった吉田松陰の海外密航の企ての罪の連座で投獄され、その数か月後、京都で暗殺されたので弟子として学んだ期間は短かったです。
吉田松陰は1850年、江戸に遊学し佐久間象山に弟子入りしています。
2人とも佐久間象山の弟子であったという点は共通点です。
吉田松陰の方が兄弟子ということになります。
2人は互いの存在を知っていたのか?
当時、佐久間象山の元へは多くの著名人が学問に来ていました。
坂本龍馬もその中の1人にすぎず、また坂本龍馬が佐久間象山のもとに弟子入りする前月、吉田松陰は長崎にいて、入塾後数か月で海外密航を企ててとらえられています。
龍馬入塾後に吉田松陰は、佐久間象山と神奈川で会ったとされていますが、その際、ロシア艦隊への密航、ペリー艦隊への密航、また外国の話など、話したいことがお互い山ほどあったことを思うと、佐久間象山から龍馬のことを聞いて知り合ったとは、考えにくいです。
他方、坂本龍馬の側から見ると、その後、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎といった吉田松陰の松下村塾で学んだ長州藩の藩士と接することが多くあり、当然、江戸での学問の事、佐久間象山のことなどは話題にも出てくるはずで、また、吉田松陰自身が佐久間象山の門下の中でも有名であったことから、坂本龍馬は吉田松陰のことを知っていた可能性が高いと思います。
龍馬・松陰と勝海舟の意外な接点とは?
勝海舟も西洋について興味を持ち、学問を学びました。
西洋兵学を学ぶことは、佐久間象山に勧められてのもので、当時、最大の蘭学者であった佐久間象山に学んでいた可能性は高いです。
また、佐久間象山は勝海舟の妹を嫁にしています。つまり「佐久間象山」は、勝海舟の義弟。
年齢的にも佐久間象山は勝海舟より12歳年上です。
それらを考えると勝海舟も、佐久間象山の門下生のようなものであったと思われます。
坂本龍馬は勝海舟に弟子入りしますが、坂本龍馬も吉田松陰も勝海舟も、みんな佐久間象山の門下であったということになります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・坂本龍馬も吉田松陰も、二人とも佐久間象山の門下生であったという共通点がある
・坂本龍馬は、吉田松陰のことを知っていた可能性が高いが、吉田松陰はおそらく坂本龍馬を知らなかったと思われる
・じつは坂本龍馬・吉田松陰だけでなく、勝海舟もまた佐久間象山の門下であったといわれている
以上となります。
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