【田原坂の戦いとは】超わかりやすく解説!激戦の場所を地図でご紹介

「西南戦争」で最大の激戦「田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)」について、その「場所」や「地図」、「謎の美少年」について、わかりやすく解説します。

「田原坂の戦い」は、熊本市で行われ、3500名が命を落とした激闘。

この戦いに敗北した薩摩軍は、各地で敗走し、城山で滅びることとなる。


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この記事を短く言うと

  1. 「田原坂の戦い」は、現在の「熊本県 熊本市 北区 植木町」で行われた「西南戦争」最大の激戦。 
  2. この戦いで、政府軍は苦戦したものの、薩摩軍に勝利し、熊本城救援に成功した。
  3. 田原坂の戦いでは約「3500名」が命を落とし、1000万発近くの弾丸が使用された。

『田原坂の戦い』古戦場を地図つきで解説

《西南戦争》
「引用元ウィキペディアより」

1877年2月に始まった「西南戦争」。その西南戦争の中でも、最大の激戦とされるのが「田原坂(たばるざか)の戦い」。

この戦いは、現在の熊本県熊本市「北区植木町」の県道31号線付近で行われた戦いです。

薩摩軍は田原坂という道ぞいに、強力な「防御陣地」を構築し、政府軍を迎え撃ちました。

現在、戦場跡地には公園や碑が設置され、当時の激戦を今に伝えています。

 

1877年2月、「西郷隆盛」ひきいる「薩摩軍」と、「大久保利通」を実質的な首相とする「明治政府」の「官軍(政府軍)」との間で、「西南戦争」が勃発。

薩摩軍は、鹿児島から北上。政府の基地があった「熊本城」を攻撃します。

同年3月1日、「熊本城」への援軍が、薩摩軍と激突。ぶつかった場所が「田原坂」。

その「田原坂」には、「薩摩軍」が政府軍を迎え撃つために作られた「防衛ライン」や「砦」が設置されていました。

強力な薩摩軍に、官軍は苦戦するものの、最新兵器と圧倒的物量で、徐々に薩摩軍を圧倒。

3月31日、「田原坂の戦い」と「吉次峠の戦い」は、政府軍の勝利で終わることとなります。


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西南戦争の激戦「田原坂の戦い」までの経緯

大久保利通ひきいる「明治政府」は、日本を近代国家とするため、「廃藩置県」「廃刀令」などの改革を次々と行いました。

それは「士農工商」という、古い身分制度を廃止して、「四民平等」という、近代国家への基礎をつくる改革だったのです。

四民平等という改革により、元サムライたち(士族)は、次々と特権を奪われていきます。「俸禄」と呼ばれる給料。刀を持つ特権。

挙句の果てには「戊辰戦争の英雄」として、士族どころか日本中から絶大な人気を集めていた「西郷隆盛」を、明治政府は「暗殺」しようとしました(暗殺するつもりはなく、行き違いだったという説もあり)

「特権剥奪」「西郷暗殺計画」これに激怒した「薩摩士族」を中心とする士族たちは、西郷隆盛を大将に、西南戦争を開始。

鹿児島を出た「14000人」の軍団は、熊本城を攻撃。

熊本城を守っていた「谷干城(たに たてき)」は、政府に援軍を要請。

これを受けて、政府軍は援軍を「熊本城」へ差し向けます。

この援軍を迎撃するため、薩摩軍は「田原坂」と呼ばれる、政府軍が絶対に通るルートに「防衛ライン」を構築したのでした。

激戦の末に、政府軍は田原坂を突破し、熊本城を助けることに成功。

この戦いが、勝敗の別れ道となり、薩摩軍は各地で敗北を続けることとなります。

西南戦争のくわしい原因と経緯」について、よろしくければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「西南戦争の原因を簡単にわかりやすく解説!西郷隆盛の最期と覚悟に絶句」の記事はコチラ

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民謡で歌われる「美少年」の正体は、村田新八の息子

「田原坂の戦い」は、その悲惨さを、歌や詩で今に伝えています。。

現地では、こんな民謡が歌われているのです。

雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ 田原坂

右手(めて)に血刀左手(ゆんで)に手綱、馬上豊かな 美少年

春は桜 秋ならもみじ、夢も田原の 草枕

草を褥(しとね)に夢やいずこ、肥薩の天地 秋さびし

この「馬上豊かな美少年」とは、いったい誰のことなのか?

一説によると、この「美少年」とは、西郷隆盛の側近で「薩摩軍」の幹部を務めていた「村田新八」の息子「岩熊」ではないかといわれています。


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村田新八とは、勝海舟や大久保利通から高く評価されていた逸材。

村田新八
『引用元ウィキペディアより』

身なりが立派で、アコーディオンを愛し、音楽で薩摩軍を勇気づけた人物。

フロックコートにシルクハットで西南戦争を戦ったといわれている紳士です。

村田には「岩熊」「二蔵」、そして幼い三男坊と、三人の息子がおり、次男も西南戦争に参戦していたものの、生還。

長男「岩隈」は、3月20日、田原坂の戦いで壮絶な戦死を遂げています。

村田新八もまた、西郷隆盛が亡くなった「9月24日」に、「城山籠城戦」で胸に被弾して戦死しています。

上の写真をご覧いただければ、おわかりいただけると思いますが、村田新八はかなりのイケメン・・・。

その息子「岩熊」もかなりの美男子だったのでしょう。

村田新八の子孫」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「村田新八の生涯とその子孫!西郷どんと共に自決した、もう一人の英雄」の記事はコチラ

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戦死者の数『約3500名』。1日60万発の死闘

「田原坂の戦い」は、壮絶な死闘だった「西南戦争」の中でも、「最大の激戦」といわれています。

その理由は「とてつもない戦死者数」と「膨大な弾丸の消費数」

西南戦争では薩摩軍・官軍あわせて「14000人」の戦死者が出ています。その「4分の1」が「田原坂の戦い」で戦死しているのです。

つまり「田原坂の戦い」での戦死者は約「3500人」

更には、この戦いで消費された弾丸数が途方もない数字なのです。

官軍だけで1日60万発。

約17日続いたという「田原坂の戦い」での激闘・・・・1日60万発なら、17日で1000万発という計算になりますが・・。

今でも、田原坂では「当時使われた弾丸」が、発見されているくらいです。それどころか、弾丸と弾丸が空中でぶつかった「かちあい弾」と呼ばれる代物が、戦場跡から出土するほど。

この戦いで、政府軍は「小隊長30名」のうち「11人」が命を落としているのです。幹部が3分の1も命を落としたことからも、激戦の凄まじさが想像できます。


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『田原坂の戦い』について、レビュー(評論)!

「田原坂の戦い」・・・実は『薩摩軍』と『官軍(政府軍)』の装備は、性能にかなりの差がありました。

官軍は、最新兵器の「スナイドル銃」を使用していました。

「後込銃(あとごめじゅう)」と呼ばれるこの銃の長所は、弾丸の装填が簡単で、短時間に連発で撃てること。

短所は「弾丸の製造に専用の機器」が必要であること。しかし政府軍は、膨大な補給を可能としていたのです、弾丸不足にはおちいりませんでした。

 

対して「薩摩軍」は、旧式の「エンフィールド銃」を使用。長所は、「弾丸が簡単に製造できること」。そこらでひろった発射済みの弾丸を溶かし、型にはめれば出来上がりです。

短所は「先込銃(さきごめじゅう)」と呼ばれる銃であるため、一発撃つごとに、先端部分に「火薬」「弾丸」を入れ、棒で押し込まなくてはいけないこと。そのため「装填」に時間がかかっていました。

 

これほど装備に差があった「薩摩軍」と「政府軍」。

それでも薩摩軍は、政府軍を苦しめ、簡単には田原坂を通しませんでした。。

なぜか?

その理由は2つ。

1つ目の理由が、「田原坂に作られた防御陣地」

2つ目が「薩摩軍の元サムライたちが、めちゃくちゃ強かった」こと


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1つ目、薩摩軍は「田原坂」という道沿いに、広大な「防御陣地」をつくり、そこに籠もって戦ったため、政府軍は苦戦したのです。

2つ目、薩摩軍は「戊辰戦争」を経験した『歴戦の猛者』ぞろい。対して「政府軍」は『徴兵令』で集められた元農民たち。薩摩士族たちは、幼い頃から「剣術」などの戦闘訓練を当たり前のように繰り返していたため、「抜刀」、つまり刀を使った近接戦闘にめちゃくちゃ強かったのです。そのため政府軍は苦戦。

しかし元新選組や元白虎隊、そして「元薩摩藩士」などの士族により構成された「抜刀隊」の活躍などにより、政府軍はなんとか田原坂を突破します。

これにより、西南戦争の流れは一気に「政府軍」に傾き、薩摩軍は敗走。

1877年9月24日、「徳川幕府」を倒した英雄「西郷隆盛」は、「鹿児島城山」での「城山決戦」で、壮絶な最期をとげることとなるのです。

西郷隆盛の最期」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

西郷隆盛の最後の様子は壮絶!『最期の地』と『死に際の言葉』に絶句」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「田原坂の戦い」とは、1877年3月、現在の「熊本県 熊本市 北区 植木町」で行われた死闘
  2. 士族の権利剥奪、西郷暗殺計画に起こった薩摩軍は、熊本城を攻撃。その救援部隊が、薩摩軍と戦ったのが「田原坂の戦い」
  3. 「田原坂の戦い」で、政府軍は薩摩軍に勝利し、「西南戦争」は政府軍の勝利となり、西郷隆盛は戦死した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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「中村半次郎(桐野利秋)の最期と生涯!西郷どん側近で、子孫は芸人!」の記事はコチラ
「大久保利通の生涯と壮絶な最後!西郷隆盛と並ぶ『憎まれた英雄』の真実」の記事はコチラ
「【私学校とは何か】超わかりやすく解説!何を教える学校だったの?」の記事はコチラ

 

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