西郷隆盛とともに西南戦争を戦った「村田新八(むらたしんぱち)」の「生涯」と「最期」、そして「子孫のゆくえ」など、どのようになっているのでしょうか?
わかりやすく解説いたします。
大久保利通から信頼されながらも、西郷とともに西南戦争で亡くなった。もう1人の英雄だった
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この記事を短く言うと
・村田新八の功績は、西郷隆盛とともに明治維新に貢献したこと。大久保利通からも強く信頼されていた
・村田新八は、鹿児島下鍛冶屋町で西郷隆盛とともに育ち、最期は西南戦争で没した
・村田新八の子孫「村田経容」さんが、現在鹿児島にいる
村田新八とは、どんな功績を残した人なの?
村田新八
幕末の英雄「西郷隆盛」とともに生き、ともに最期を遂げた人物です。
そんな「村田新八」の功績と生涯とは、どんなものだったのでしょうか?
「村田新八」の功績
「村田新八」の功績を、短くご紹介いたしますと、以下の通り
・薩摩藩士として、倒幕に尽力
・「戊辰戦争」に参戦し「鳥羽伏見の戦い」や「上野戦争」「会津戦争」に参加
・西郷隆盛とともに「西南戦争」に参加し、最期を遂げた
「村田新八」は、西郷隆盛とともに戦い、共に亡くなった、西郷の盟友です
村田新八の生涯と最期
「村田新八」の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
1836年、村田新八は、「高橋八郎」の三番目の子として産まれます。
その後「村田家」の「村田十蔵」の養子となり、「村田」姓を名乗ることになります。正式名称は「村田新八経満」
西郷や大久保利通と同じ「下鍛冶屋町」の出身。西郷隆盛の9歳年少でした。
幼い頃から西郷のことを兄のように慕っていた新八。
24歳で、西郷や大久保が率いる「精忠組」に参加しています。
薩摩藩主「島津忠義」の父で薩摩藩の実験を握っていた「島津久光」が、軍を率いて上京。幕府に幕政改革を迫る作戦「率兵上京(そっぺいじょうきょう)」を実行しました。
村田新八は、軍の先駆けとして西郷隆盛とともに下関へ。
しかしこの時、大坂の過激派薩摩藩士たちが、暴発寸前という情報が入ったため、西郷は命令違反を覚悟し独断で大坂へ。後にこの罪を問われ、西郷は流罪となります。
村田新八もまた、京都へ移動。
1862年、京に上った島津久光。
その上京は、あくまでも幕政改革を幕府に促し、「公武合体」・・つまり、朝廷も幕府も挙国一致して諸外国に対抗する体勢をつくることでした・・・・が、薩摩藩の過激派は、久光が軍を率いての上京した理由を「攘夷」・・・つまり「外国勢力を日本から打ち払う」ためだと勘違いしていたのです。
久光に「攘夷」の意思がないことを知った薩摩藩の過激派は、朝廷と幕府の要人を暗殺し、久光が攘夷をするしかないところまで追い詰めようと画策。
この企みに久光は激怒し、精忠組の「大山綱良」に、これら過激派の鎮圧を命令。
「有馬新七」たちが粛清されます(寺田屋事件)
村田新八は、過激派に関与したとして「喜界島」に流罪となります。
西郷隆盛もまた、下関待機の命令に違反をしたとして「徳之島」「沖永良部島」へと流罪。
2年後
1864年、西郷隆盛の流罪は解除。
西郷は蒸気船で鹿児島へ帰還する際に、島津久光の許可も無しに、喜界島の「村田新八」を迎えに行きます。
それだけ西郷隆盛にとって、「村田新八」が必要不可欠な人材だったということです。
その後、村田は京都へ。
直後に京都で「禁門の変」が勃発。
村田も戦闘に参加し、薩摩藩は会津藩と協力して長州藩を京都から追放します。
その後、村田は長州との関係改善に奔走。
1866年、薩長同盟締結に尽力。
村田はこの頃、伊藤博文や坂本龍馬と知り合ったと考えられています。
戊辰戦争と明治維新
薩長同盟を締結した薩摩と長州は、「倒幕」を目指すこととなります。
薩摩は朝廷から「討幕の密勅」を受けましたが、徳川慶喜は直後に「大政奉還」をして、幕府が消滅。薩長は倒幕の名目を失います。
1867年、薩長は「王政復古の大号令」によって新政府樹立を宣言。徳川慶喜に「辞官納地(身分と領地の返還)」を迫ります。
これに怒った旧幕府軍は薩長と戦闘開始。「戊辰戦争」「鳥羽伏見の戦い」が始まります。
村田新八も、「戊辰戦争」「鳥羽伏見の戦い」に参戦。
鳥羽伏見の戦いの後、西郷隆盛が「勝海舟」と会談しますが、その前に村田は幕臣の「山岡鉄舟」と会談しています。
200年以上続いた徳川幕府は終焉を迎えます。
その後、村田は「上野戦争」や「会津戦争」など、各地を転戦しています。
「明治政府」と「岩倉使節団」
村田新八は明治新政府に参加
1871年、岩倉具視が率いる「岩倉使節団」に参加
この岩倉使節団の目的は、西欧諸国との「条約改正」。
それまで西欧列強との「不平等条約」に悩まされてきた日本は、条約改正に乗り出したのです。これに同行した薩摩藩士は「大久保利通」と「村田新八」のみ。
しかし、岩倉使節団は結果として条約改正を実現できず、村田も自費でフランスに留学したものの、後に「何も得られず」と自嘲気味に語る結果となりました。
1874年、村田新八は帰国
帰国した「岩倉使節団」と、留守を守ったいわゆる「留守政府」の面々、西郷隆盛や江藤新平が、「征韓論」・・・つまり「朝鮮半島への出兵」という政策で対立します。
征韓論を主張する「西郷・江藤」たちと、それに反対する「大久保利通」
結局、西郷たちは征韓論争に敗北し、下野。西郷は鹿児島に帰郷します。
論争に勝利した大久保利通は、西郷は帰郷しても、村田は明治政府に残るだろうと考えていました。
しかし西郷を慕っていた村田は、大久保の予想を裏切って鹿児島へ。それを知った大久保は呆然としたと言われています。
帰郷した西郷と村田は、鹿児島県知事だった「大山綱良」の協力を得て「私学校」を設立し、人材育成に尽力します。
「西南戦争」
1877年、西南戦争
村田は戦争勃発直前の会議で、それほど積極的に発言しなかったと言われています。
おそらく、村田は戦争に反対していたのでしょう。
村田は、西郷を「首相」にしようとしていたようです。
2月20日、西南戦争勃発
3月20日、「田原坂の戦い」・・・村田新八は、長男「岩熊」を亡くします。
薩摩軍は、その後も新政府軍を相手に戦闘を繰り返しますが、新政府軍には大久保利通による豊富な補給があったため、薩摩軍は敗色濃厚
9月1日、薩摩軍は鹿児島・城山へ
9月24日、西郷隆盛、別府晋介の介錯で自決。
最期
西郷隆盛の最期を見届けた村田新八は、桐野利秋(中村半次郎)たちと共に、新政府軍へ最期の戦いを挑みます。
フロックコートにシルクハットで西南戦争を戦ったと言われる村田新八。
次男の「二蔵」は、西南戦争で負傷しながらも生還。村田にはまだ幼い三男坊がおり、「幼い弟を頼むぞ」と二蔵は言われて生き長らえることを決断。
1877年9月24日、村田新八は、胸に被弾して戦死。
享年42歳
剣豪「桐野利秋」もまた、同時に亡くなっています。
岩倉使節団に参加した時、海外で購入し片時も離さなかったアコーディオン・・・死を覚悟していたらしく、最期の戦いを前に燃やされていました。
勝海舟は、村田新八について、後にこう言っています。
「大久保利通に次ぐ人物だった。
亡くなったことは非常に惜しい」
アコーディオンを愛用し、音楽を愛した村田新八。
美術も好んでいたと言われています。そのため、自費留学先に「フランス」を選択したのでしょう。
彼が奏でたアコーディオン・・・・その音色は、西南戦争でたくさんの兵士たちを勇気づけたのです。
子孫はいま、どこにいるの?
村田新八の子孫は今、どこにいるのでしょうか?
探してみたところ、どうやら鹿児島に子孫がいるみたいですね。
以下のブログに、「村田新八の子孫」の顔写真が掲載されていました。
その他にも、「ひ孫」が学校の先生をしていたとも言われていますし、TV番組「秘密のケンミンSHOW」に、村田新八の子孫が登場したという噂がありました。
そして、鹿児島に本社を置く「健康家族」という会社に務める「村田」さんが、「村田新八」の「玄孫(孫の孫)」を名乗っておられました。
村田新八には、三男一女がいたと言われています。
長男「岩熊」は、西南戦争・田原坂の戦いで戦死。
民謡「田原坂」に、「岩熊」を称える歌詞が残されています。
「雨は降る降る陣羽は濡れる、越すに越されぬ田原坂。
右手に血刀左手に手綱、馬上ゆたかな美少年。」
アメリカへの留学経験を持つ「岩熊」・・・早すぎた最期でした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・村田新八は、西郷隆盛とともに「戊辰戦争」「西南戦争」を戦った、西郷の盟友
・村田は、西南戦争で西郷隆盛の最期を見届けた後、桐野利秋とともに戦死
・村田新八の子孫は、鹿児島にいる
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
村田新八の次男経義は西南戦争終了後官軍に投降して懲役2年で宮城県監獄署に服役しています。
詳しくは「宮城県監獄署沿革史」の電子図書にあくせすしてください。
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