西郷隆盛にはなぜ3人も妻がいたのか?彼女達との離婚や別れを解説

西郷隆盛の三人の妻達をご紹介します。妻達との離婚理由もわかりやすく解説いたします。

明治の英雄「西郷隆盛」は、生涯で3度も結婚しています。

お相手は「伊集院須賀」「愛加那」「糸子」

なぜ3度も結婚したのか?悲劇的な偶然が重なり、2度も離婚することとなったのです。


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この記事を短く言うと

・西郷隆盛には「愛人」や「側室」がいたわけではなく、偶然が重なって離婚をしなくてはならなかっただけ

伊集院須賀愛加那とは、事情があって離婚を余儀なくされたが、事情が事情だけに悪感情はなかった

・三人目の妻「」は、二人目の妻「愛加那」の子供たち「西郷菊次郎」「菊草」を引き取り育てた


《なぜ西郷隆盛には、3人も妻がいたのか?》

当時の日本は、まだ一夫多妻制が残る時代で、妾を持つ人も少なくはありませんでした。

しかし、西郷隆盛は、生涯で3人の女性と結婚したと記録がありますが、決して妾として迎えたわけではありません。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

一人目の妻とは、西郷が24歳の時に結婚しましたが、その2年後には離婚しています。

二人目の妻は、西郷31歳の時に結婚した女性ですが、ある掟がもとで離婚せざるを得なかったのでした。

そして、西郷が亡くなるまで共に暮らした三人目の妻とは、西郷が37歳の時に結婚しています。

西郷隆盛に3人の妻がいたのには、様々な事情で離婚を余儀なくされたからでした。

それでは、西郷と夫妻関係になった3人の女性について解説していきましょう。


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《一人目の妻『伊集院須賀』》

西郷隆盛の最初の妻となったのは、同じ薩摩藩士の娘「伊集院須賀(いじゅういん・すが)」でした。

同郷とはいえ、須賀の実家・伊集院家は薩摩藩主である島津家の分家で、下級藩士の西郷家とは身分の差がありました。

しかし、とても良い縁談でしたが、わずか2年で離婚してしまいます。

離婚の原因は、夫婦仲が悪いとか、伊集院家と西郷家が険悪になったとか、そういう理由では無く、「貧困」にあったといわれています。

結婚当時、西郷は藩主・島津斉彬から江戸での勤務を言い渡されていました。

また、結婚してすぐに西郷の祖父と父、母が立て続けに亡くなり、残されたのはすでに嫁いでいた長女を除く5人の弟と妹たちでした。

江戸での生活で費用がかかる中、須賀はひとり薩摩で西郷の弟妹たちの面倒を見なくてはならなかったのです。

さらに、西郷は島津家の家臣として出世はしていましたが、父親の代からの借金もあり、暮らしは決して裕福とはいえませんでした。

そんな須賀の生活ぶりを見かねて、伊集院家が彼女を呼び戻したといわれています。

その後、江戸で暮らす西郷との話し合いで離婚が決定したのでした。

西郷自身も、貧しい暮らしの上、自分の弟妹の面倒を任せっきりにしていたことを悪く思っていたのか、「申し訳なかった」と須賀と伊集院家に謝罪したと伝わっています。

この名家と下級藩士との良縁について、西郷は後々まで離婚を後悔していたといわれます。


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《二人目の妻『愛加那』》

さて、西郷隆盛が31歳の時に結婚した女性が、二人目の妻「愛加那(あいかな)」でした。

愛加那
『引用元ウィキペディアより』

西郷が愛加那と出会ったのは奄美大島。

当時、西郷は幕府から目をつけられており、薩摩藩は幕府から西郷を守るために彼に奄美大島行きを命じたのでした。

この時、奄美大島で西郷の身の回りの世話をしたのが、島民の愛加那でした。

愛加那は、奄美大島の名家のひとつである田畑家分家の娘。

田畑家は薩摩藩の財政を支える産業のひとつ、砂糖の生産を管理していました。

西郷家に比べ領地も石高も多く、愛加那との結婚も先の須賀と同様、かなりの良縁であったと思われます。

やがて二人の間に息子「菊次郎」と娘「菊草」が生まれました。

しかし、幸せな生活が始まろうとした矢先、西郷の元に藩からの帰還命令が届きます。

今の時代なら妻や子どもを連れて故郷へ帰ることができますが、当時のきまりに「島妻制度」というものがあり、島で結婚した女性は本島に連れ帰ることができなかったのです。

西郷は泣く泣く妻と子どもを島に残し、薩摩へと帰ったのでした。

これが二人目の妻・愛加那との別れとなりました。

ここで、西郷と愛加那との間に生まれた子ども達のその後について簡単に紹介しましょう。

息子「菊次郎」は9歳の頃、鹿児島の西郷家に引き取られることになり、その後12歳の時にアメリカへ留学しました。

西南戦争では薩摩軍の一員として戦い、重傷を負うも生き延びました。

戦争後は外交官として、アメリカ公使館などで活躍しました。

そして、娘「菊草」は西郷隆盛の従兄弟である、大山誠之助へ嫁いでいきました。

大山誠之助は、あの有名な陸将「大山巌」の兄弟です。


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《三人目の妻『糸』》

西郷隆盛の最後の妻となったのが、彼が37歳の時に結婚した「糸(いと)」です。

《西郷糸子》
『引用元ウィキペディアより』

糸の実家は、西郷と同じく薩摩藩士の岩山家でした。

1865年、西郷と糸は結婚します。この時の媒酌人が、のちに「明治十傑」の一人となる小松帯刀でした。

糸は西郷との結婚の前に、別の家へ嫁いでいたことがあり、彼とは再婚同士となりました。

西郷と糸は、のちに日本の陸軍軍人となる寅太郎と、午次郎、酉三の3人の子供に恵まれます。

また、西郷と糸は先妻・愛加那の二人の子どもを引き取り、実子と同じ様に養育していきました。

当時、島から本島へきた人たちは「島人」と呼ばれ、差別の対象でしたが、そんな中、島で生まれた菊次郎と菊草を引き取り育て上げた糸の決意は並々ならぬものだったでしょう。

そして、1877年の西南戦争で西郷隆盛が戦死します。この時、糸は34歳でした。

その後、糸は再婚することもなく、子ども達を立派に育て上げ、79歳でこの世を去りました。


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《『西郷の妻たち』について、レビュー(評論)!》

一人目の妻「伊集院須賀」が、離婚後どのように生きたかは、記録がありません。おそらく不世出の英雄「西郷隆盛」と離婚したことを恥じて、一族が記録を残さなかったのでしょう。

愛加那は子供たちを本土へ送ったのち、甥を養子にして、兄弟たちとともに暮らします。

糸は「寅太郎」「酉三」という二人の子に先立たれ、最期は実業家だった次男「午次郎」とともに平穏に暮らして亡くなります。

糸は愛加那のことを心配し、仕送りまでしていたと言われています。非常にできた妻だったということです。

西郷隆盛・・・そんな出来た妻たちに慕われたということは、非常に魅力的な人だったのでしょう。

「西郷の家を訪れ、帰る際には愉快な気持ちになった」

後の内閣総理大臣「山本権兵衛」が、そう証言しています。

西郷隆盛・・・誰からも愛される英雄だったということでしょう。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

いかがでしたでしょうか。

西郷と3人の妻についてまとめると、

・3人の妻は決して妾ではなく、先妻たちとは様々な事情で別れなければならなかった。

・一人目の妻・須賀とは貧困が理由で離婚する。

・二人目の妻・愛加那とは奄美大島の掟により離婚する。

・三人目の妻・糸とは最期まで夫婦でいられた

となります。

西郷隆盛が3人の女性と結婚し別れなければならなかったのは、時代の流れが大きく影響しているといえるでしょう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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