皆さんは「柴田勝家とお市の方が、なぜ結婚したのか」を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- お市の方と柴田勝家が結婚した理由は、羽柴秀吉が、自分の権力が強まることに対する柴田勝家の不満や反発を和らげてるため、二人の結婚をすすめたため。
- 二人の夫婦仲は良かった。なぜなら二人はともに亡くなって、さらに同じ季語を使った辞世の句を残している。
- 柴田勝家とお市の方のあいだに、子供は産まれなかった
この記事では「柴田勝家とお市の方の結婚理由」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「柴田勝家とお市の方」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「柴田勝家とお市の方」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
なぜ柴田勝家は、お市の方と結婚したのか?
お市の方と柴田勝家が結婚した理由は、羽柴秀吉が、自分の権力が強まることに対する柴田勝家の不満や反発を和らげてるため、二人の結婚をすすめたためだと考えられます。
天下人・豊臣秀吉の天下への出発点となったのが、清洲会議での巧妙な駆け引きです。
山崎の戦いで仇討ちの功労者となった秀吉は、一気に織田家での発言力や影響力を強めます。
そのため秀吉は、織田家の重臣たちの反発を考慮して、その反発をおさえる必要があったのです。
なぜなら、反発をやわらげておかないと、周囲が敵だらけなので、一気に滅ぼされる可能性があったためです。
そこで秀吉は、秀吉の権力が強くなることに一番反発していた家臣筆頭の柴田勝家に、以前から勝家が好意を持っていた織田信長の娘・お市の方との結婚をすすめました。
さらには秀吉の居城である長浜城と北近江の領地を譲ることで、自分には天下を取ろうなどという野心がないことをアピールし、その反発をやわらげようとしたのです。
織田家の後継者には信長の嫡孫である三法師(織田秀信)を擁立します。
秀吉は、明智光秀を倒した功績により、京都周辺の明智光秀の領地を獲得しています。
この、お市の方と柴田勝家の結婚をすすめるという、一見まるで無欲な提案は、秀吉の天下統一への布石だったのです。
秀吉は、柴田勝家がお市の方へ好意をもっていることを利用して、勝家から秀吉に向けられている敵対心を薄めることに成功したのです。
この作戦は成功し、柴田勝家が、お市の方との新婚生活を楽しんで浮かれていた隙をつきます。
秀吉は二人の結婚からわずか6ヶ月で、仲間を増やして柴田勝家を圧倒したのです。
以前は、織田信長の三男・織田信孝が、羽柴秀吉の力が強くなりすぎることを警戒して、お市の方と柴田勝家を結婚させて、秀吉に対抗しようとしたという説が一般的でした。
しかし最近では、秀吉がお市の方と柴田勝家の結婚をすすめたという説が有力です。
秀吉はお市の方に好意を抱いていたという説が一般的でしたが、近年では、そもそも秀吉はお市の方と会ったことがないともいわれています。
秀吉はその後、お市の方の娘である茶々(淀殿)を側室にして、豊臣秀頼という子供を儲けます。
しかしこの秀頼が、秀吉の子ではないという噂が、当時からあったようです。
→→→→→【秀吉は子供ができない体質だったのか?秀頼は、秀吉の子ではない?】についてくわしくはこちら
二人の夫婦仲はよかったの?
二人は北庄城の落城で、ともに亡くなっていますので、夫婦仲は良かったと考えられます。
さらに二人は、同じ言葉を使った辞世の句を残しているのです。
お市と前の夫である浅井長政との関係は、きわめて良好だったといわれています。
しかし、お市と柴田勝家の夫婦関係については、ほとんど史料が残っていないため、詳細は不明です。
結婚してからわずか半年で2人とも亡くなってしまったこともあり、その関係性については推測の域を出ません。
ただし、お市の娘は柴田勝家に親しみを感じていたようであり、お市も勝家と共に死ぬことを選んだことから、おそらく二人の関係は一定程度良好だったと思われます。
また、二人は死の間際に、それぞれ辞世の句を残しています。
「柴田勝家」
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公
(夏の夜に見る夢のように短く、儚い人生だった。しかしどうか私の名を、雲の上まで高くかかげてくれ。やまホトトギスよ)
「お市の方」
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな
(ただでさえ、眠る間もなく短い夏の夜に、どうしてそれほどこの世との別れを急かすのか。ホトトギスよ)
- 夏
- 夢
- ホトトギス
という3つも言葉を共通して使う辞世の句を、お互いにつくりあって、二人は自害し、亡くなったのです。
これで二人の仲が悪いはずがないと思います。
余談ですが、柴田勝家の辞世の句は、おそらく室町幕府13代将軍・足利義輝の辞世の句をマネしたものだと思われます。
剣豪将軍・足利義輝も、辞世の句に「ホトトギス」が登場するのです。(幕末・吉田松陰の義弟である久坂玄瑞の辞世の句にもホトトギスが登場する)
足利義輝は、敵軍に寝込みを襲われ、名刀を畳に刺して、次々敵を切り倒したのち壮絶な最期を遂げたといわれています。
→→→→→【足利義輝の辞世の句と最期】についてくわしくはこちら
子供はいたのか?
柴田勝家とお市の方のあいだに、子供はいませんでした。
そもそも二人の結婚生活が、わずか半年ほどだったので、子供が産まれるはずがないのです。
しかし柴田勝家は、お市の方の三人の娘を大切にしたといわれています。
- 茶々(淀殿)
- お初
- お江
この三姉妹を大切にした勝家は、最後のときに、三人を敵である羽柴秀吉に託したのでした。
- 茶々は、秀吉の側室として秀頼を産み、大坂の陣で秀頼と共に自害。
- お初は、京極高次という武将に嫁ぎ、大坂の陣で講和交渉を成功させたのち、三姉妹でもっとも長生きしています。
- お江は、二代将軍・徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産み、幸福な生涯をおくりました。
勝家が、三姉妹を守ったおかげで、お市の方の血筋がその後も引き継がれることになります。
お市の方の子孫は、現在の天皇陛下です。
→→→→→【お市の方の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- お市の方と柴田勝家が結婚した理由は、羽柴秀吉が、自分の権力が強まることに対する柴田勝家の不満や反発を和らげてるため、二人の結婚をすすめたため。
- 二人の夫婦仲は良かった。なぜなら二人はともに亡くなって、さらに同じ季語を使った辞世の句を残している。
- 柴田勝家とお市の方のあいだに、子供は産まれなかった
以上となります。
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