西郷隆盛の妻「西郷糸子」について、彼女の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。
「西郷隆盛の死から45年後の大正11年、東京で亡くなった」
上野の西郷像に対して「違う」と叫んだのは、「顔が似ていない」という意味ではなかった!
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この記事を短く言うと
・西郷糸子とは、西郷隆盛の3人目の妻
・糸子は、西郷隆盛が愛加那と離れ離れになった約11ヶ月後に西郷と結婚した
・糸子が上野西郷像に「違う」と叫んだ理由は「顔が違う」という意味ではない
西郷糸子とは?いったい何をした人なのか?
西郷糸子
幕末「維新三傑」の一人「西郷隆盛」の妻
西郷は生涯に3度結婚しており、伊集院須賀、愛加那に続く3人目にして最後の妻が「西郷糸子」

《西郷糸子》
『引用元ウィキペディアより』
薩摩藩士「岩山八郎太直温」と、その妻「えい」の次女として「1843年」に誕生しました。
夫となる「西郷隆盛」とは15歳も年齢差がありました。
2人が結婚したのは「1865年」
西郷隆盛は、二人目の妻「愛加那」と引き裂かれてわずか11ヶ月しか経っていませんでしたが、大久保利通・小松帯刀・坂本龍馬たちに説得されて「糸子」と結婚。
糸子との間には「3人の男児」に恵まれ、愛加那との間に産まれた2人の子供も、一時的にではありますが引き取って育てています
(上の家系図では、「牛次郎」となっていますが、正確には「午次郎(うまじろう)」です。お詫びして訂正いたします。)
西郷糸子の功績
西郷糸子が何をした人なのか?一言で言えば
・最後の妻として、西郷隆盛を西南戦争で亡くなるまで支え続けた
・西郷隆盛との子供を、西郷の弟たちの未亡人やその子達とともに育てた
西郷隆盛を支えた・・・というのが最高の功績でしょう。
西郷糸子の生涯と最期
1843年、薩摩藩士「岩山八郎太直温」と、その妻「えい」の次女として「糸子」は誕生しました。
当初、糸子は父の上司に当たる「海老原家」へ嫁いでいますが、離婚
その後、西郷隆盛の妻として、小松帯刀が糸子に目をつけて、結婚をすすめたのだとか。
1865年、西郷隆盛と結婚。
隆盛との間に「寅太郎」「午次郎」「寅三」を儲けますが、次男「午次郎」を残して、寅太郎と酉三は糸子より先に亡くなっています。
愛加那と西郷の子供「菊次郎」と「菊草」も引き取って育てたと言われていますが、短い一時的なものだったようです。
1877年、西郷隆盛が西南戦争で戦死。
糸子は夫を役人に殺されたと感じたのか、役人からの香典を全て断っています。
鹿児島にいた彼女は、東京からおくられてきた香典を家人「永田熊吉」に命じて返還させています。
糸子は最終的に次男で実業家の「午次郎」を頼って、東京で生活
子供を笑わせるのが好きな人で、明るい思い出話しかしない人だったとか。
また、午次郎の妻「ひで」が言うには、芋粥を好み「幸せ」といいながら笑顔でそれを食べていたのだそうです。
1922年(大正11年)6月22日、死去。享年79歳
墓地は東京青山霊園
糸子は西郷の二人目の妻「愛加那」にも仕送りをするほど、情け深い人でした。
上野の「西郷隆盛」像に対して「ちがう」と叫んだ理由と真意とは?
1889年、上野戦争での戦勝を祝い、そして西郷隆盛の名誉回復を祝って、上野公園に西郷隆盛像が建てられ、糸子は西郷の弟・西郷従道とともに式典に参加
銅像の顔を見て、
「うちの人はこんな人じゃなかった」
と叫んだと言われています。
それは顔が似ていなかったからではなく、上野西郷像の服装が粗末だったため。
後年、糸子は孫に対してこう言っています。
「旦那様(西郷隆盛)は、誰に対しても丁寧で、みすぼらしい格好で出歩く人ではなかった」
つまり、だらしない格好で歩き回る人じゃない・・と言いたかったのでしょう。
顔が似ていなかったわけではない証拠に、西郷と面識がある人から、「似ていない」という苦情はそれほどでていません。
大河ドラマ「西郷どん」での新しい解釈
2018年の大河ドラマ「西郷どん」。
第一話の冒頭で、「黒木華」さん演じる「糸子」さんが、上野公園の西郷像に対して
「違う!うちの人はこんな人じゃなかった!」
と叫ぶシーンがありました。
最終話「敬天愛人」で、その意味が語られていました。
「旦那さま(西郷隆盛)は、人に見上げられたり、拝(おが)まれたりして喜ぶ人ではない。
いつも低いところで、弱い者によりそい、あちこち走り回っていた。
誰よりも心の熱く、太い人でした。」
西郷の子供達に、糸子はそう語っていました。
上野公園の西郷像は、かなり高いところにあり、みんなが見上げ、拝む位置に建てられています。
おそらく、ドラマ「西郷どん」における糸子の「違う」という言葉は
「西郷隆盛は、こんな高いところから人を見下ろすような、傲慢な人ではなかった」
という意味だったのでしょう。
それもまた、新しい解釈の仕方なのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・西郷隆盛の3人目の妻「糸子」は、西郷の子供「5人」を一時的にでも全員面倒見ていた
・最初の夫「海老原」と離婚し、その後「愛加那」と別れた西郷と結婚した
・上野西郷像に「似ていない」と叫んだのは、顔が似ていないという意味ではない
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
①西郷糸子の生涯と最後 1877年のの2行目「永田熊吉」に命じて変換は、返還だと思います。一旦受け取っているようなので、返却かも。
②糸子の言葉「西郷隆盛さまは、、」に違和感があります。後の文章にも書かれていますが、「旦那様(西郷隆盛)は、、」ではないでしょうか。
③上野の「西郷隆盛像」に対して「ちがう」と叫んだ理由と真意は
とても興味深く参考になりました。私自身は、顔が違うという理解をしていましたが、おっしゃる通りのようです。
勉強になりました。
「
ご指摘いただきありがとうございます
確認・調査ののち修正いたします
ありがとうございました