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白虎隊をわかりやすく簡単に解説!生き残りの子孫は今どこに?

「幕末の悲劇」として、現在の日本に記憶されている「会津戦争」の若き犠牲者「白虎隊」

そもそも「白虎隊」とは何なのか、よくわからないという方に、この記事は役に立つと思います。

白虎隊とは、10代の若者で結成された「会津藩」の少年部隊のことです。

この記事では、白虎隊の真実と、白虎隊の生き残り、そして彼らの子孫・末裔について、わかりやすく解説いたします。


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この記事を短く言うと

・白虎隊とは、会津藩が「会津戦争」のために編成した343名の少年部隊

・白虎隊士20名は飯森山で城下が燃えている様子を見、切腹。しかし一人だけ生き残った

・生き乗った「飯沼貞吉(いいぬまさだきち)」氏はその後「通信技師」として活躍。子孫の「飯沼一元」氏は、「白虎隊の会」を結成し、今の社会に「白虎隊」の伝説をつたえる活動をなさっている


白虎隊をわかりやすく簡単に解説

白虎隊とは、会津藩が結成した少年たちの部隊です。

鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府軍はピストルや大砲といった外国の近代的な武器を使用していました。

一方で、旧幕府軍側の会津藩では槍を中心とした兵士を組織。

この圧倒的な戦力の差は、会津藩を兵制改革の道へと進めたのです。

改革の内容は

・装備を西洋式にかえること

・軍隊を年齢別に編成すること

・農民から兵士を募集すること

以上3点です。

「白虎隊」とは年齢別に分けた軍隊の一つ

「白虎隊」の他にも「朱雀隊」「青龍隊」「玄武隊」が組織されました。

白虎隊は16歳から17歳の少年たちで構成。

《白虎隊》
「引用元ウィキペディアより」

白虎隊による飯盛山の自刃が有名ですが、この時決行したのは20名で、そのうちの1人は生残っています。

この20名が白虎隊として取り上げられますが、実際には343名の少年たちが白虎隊に所属していたのです。



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「飯盛山での悲劇」・・・白虎隊の最期

新政府軍が会津への侵攻を始めると、会津藩主・松平容保は徹底抗戦の構えに入りました。

当初の予定では少年隊である「白虎隊」は予備兵力として考えられていましたが、新政府軍の圧倒的な兵力に、白虎隊の前線への投入を余儀なくされました。

しかし、白虎隊の出撃もむなしく、戦況は好転することなく、隊士達は飯盛山へと逃げていきました。

この山裾には洞門が作られており、そこを抜けると会津若松へと出ることができました。

白虎隊の中でも階級の高い士中二番隊に所属する16人が、洞門を抜けて若松城が一望できる高台に到着します。

彼らがそこで見たのは、城下が燃える光景でした。

しかし、戦闘の最中で高揚している隊士達には、若松城そのものが燃えているように見えたと言われています。

若松城が落城したと勘違いした白虎隊の隊士達は、飯盛山での自刃を決意しました。

自刃したのは20名の隊士で、そのうちの1人は奇跡的に生き延びました。

そのほかの隊士達は鶴ケ城で籠城戦を行いますが、最終的に会津藩は新政府軍に降伏し、白虎隊も解散となったのでした。



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「白虎隊」生き残りの「子孫」は、今何をしているのか?

飯盛山で自刃を決行した隊士の中に、「飯沼貞吉」がいました。

しかし彼は、奇跡的に命を救われました。

長州藩士に救われた飯沼貞吉は、「楢崎頼三」という長州藩士に引き取られました。

母親にだけは彼の生存を知らせたものの、仲間が全員亡くなり自分だけが生き残ったことを恥じ、「生きていてよかったな」と長州藩の人間に言われた直後、自決を試みて止められたとのことです。

しかし、楢崎頼三に諭されて、勉学に邁進。

飯沼氏はその後、「通信技師」として活躍し、「日清戦争」にも従軍。日本のために立派に務めを果たしています。

彼の子孫である飯沼一元さんは、独自に白虎隊について研究し、各地で講演会を精力的に行っています。

また、「白虎隊の会」を設立し、白虎隊を後世に語り継ぐための活動が行われています。



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「白虎隊」と「会津戦争」について「ひとこと」いいたい

会津戦争の勃発前、会津藩主「松平容保」は薩長・新政府軍に恭順を示し、戦争回避を模索していました。

奥羽越の諸藩も、会津の赦免を求めるために「奥羽越列藩同盟」を組んでいます。元々「奥羽越列藩同盟」は「軍事同盟」ではなかったのです。

河井継之助・・・長岡藩の家老です。新政府軍をガトリング砲で最も苦しめた長岡藩も、当初は「中立」を主張し、戦争回避を模索。「奥羽越列藩同盟」への参加も拒否していました。

しかし、薩長新政府軍は長岡へ攻撃を強行。会津藩に対しても「禁門の変」での怨みがあったのか、攻撃を仕掛け、「戊辰戦争の総犠牲者の三分の一」・・・・数千人の犠牲者を出すに至ります。

白虎隊はその犠牲のうちの一つ。

少年たちの取り戻しようもない大きな犠牲は、後に「戦争」へと突き進む「日本」の「プロパガンダ(政治宣伝)」に・・・若者たちを戦争へと駆り立てるために利用されます。

白虎隊・・・・長州藩士に救われた「飯沼貞吉」・・・。長州と会津をつないだ縁なのでしょう。

しかし残念ながら、会津には今も長州(山口)を怨みに思う人もいるのだとか。

中には「坂本龍馬」に怨みを向ける人もいるみたいです。

150年後の今も続く怨念・・・・それだけの悲劇が会津を襲ったと考えると、想像を絶するものがあります。



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まとめ

いかがでしたでしょうか。

本日の記事をまとめますと

白虎隊についてのポイントは、

・白虎隊は16~17歳の少年で組織された、会津藩所属の軍隊であること

・若松城の落城を勘違いした隊士たち20名が飯盛山で自刃したこと

・自刃の中生き延びた隊士の子孫は、白虎隊を語り継ぐための活動をしていること

が挙げられます。

大人だけでなく少年たちも時代の波に翻弄されたことを、私たちは忘れてはならないでしょう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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