西郷隆盛の首の行方を調査!西郷の墓に眠っているご遺体は偽物か?

明治時代から噂されていた「西郷隆盛・生存説」と、行方不明になっていた「西郷の首」について解説いたします。

「西郷隆盛」がロシアで生きていた。または「首が行方不明」という都市伝説がありました。

結論をいえば生存説はガセ。首は2014年にゆくえが判明しています


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この記事を短く言うと

西郷隆盛の首の行方が、当時から行方不明と噂されていた

・2014年、新しい文書の発見により、「西郷の首」は明治政府が発見していたことが判明した

・「西郷生存説」が原因で、ロシア皇太子ニコライ襲撃事件「大津事件」が起こった

・西郷どんの首は、現在は鹿児島県の「南洲墓地」に眠っている


《西郷隆盛の首!実は行方不明になっていた?》

西郷隆盛

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

西南戦争で薩摩軍は薩摩士族の驚異的な勇敢さを見せつけ善戦しますが、戦況不利になり故郷で死ぬことを願って政府軍の重囲いを突破して鹿児島へ還って城山に籠ります。

政府軍は5万人以上の兵で城山を囲み、遂に総攻撃をかけます。

西郷隆盛は銃弾の飛び交う最前線に行き、2発の小銃弾を被弾。

西郷はつんのめるように倒れますが、すぐ体を起こし後ろの別府晋介(薩摩軍幹部のひとり)を振り返り言います。

「シンどん、もうここでよか。」

別府晋介は

「ごめんなってもんし(お許しください)」

と言って、西郷の首をはねました。


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西郷の首は一旦は土中に隠されますが、政府軍の捜索で探し出され、(発見者は加賀藩士、千田登文中尉)参謀山縣有朋が検分後、寺の墓地に丁重に葬られます。

ところが、英雄を生かしておきたいという人々の希望なのかどうか、「西郷生存説」が噂され、それに合わせて首も行方不明と言われていました。

城山で自刃した時、西郷のものと思われる胴体は発見されたものの、結局その首は発見されなかった、あるいは偽物だったというのです。

西郷には生前影武者がいたため、その胴体も本人の物かどうかわからないという事が発端になっていて、生存説がささやかれるようになったとか。

2014年になり、西郷の首の発見者である千田登文(のりふみ)中尉が陸軍に提出するために書いた「履歴書」が、金沢市の実家から発見されます。

その中に

「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル」

「探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺ニ到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将ニ呈ス」

ときわめて具体的に書かれていました。

「履歴書」の記述によって、発見、埋葬された首が本物であることがはっきりしたことで、「西郷の首」伝説は終止符を打つことになったのです。


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《西郷隆盛の生存説!》

非常に興味深い「西郷隆盛生存説」に触れます。

西郷が政府軍の囲いを破って脱出し、ロシアに渡ったというものです。

そして、明治二十四年(1891年)に、日本を訪問する予定になっているロシアのニコライ皇太子とともに帰国するという噂も、新聞報道までされています。

ここで、「大津事件」が発生します。

大津事件というのは、来日したロシアのニコライ皇子が滋賀県で、警備中の滋賀県警察「津田三蔵」巡査に斬り付けられた事件です。

ニコライ皇子は命に別状はありませんでしたが、当時重大な事件となりました。

津田巡査がニコライ皇子を斬り付けた理由に西郷生存説がからんできます。

西郷がニコライ皇子とともに帰国すると、西南戦争で政府軍として功績のあった津田巡査は、自分の勲章が剥奪されるのではないかと不安になったというのです。

当時西郷生存説がかなり信じられていたことが分かります。

ちなみにこの「ニコライ皇子」は、「日露戦争」時のロシア皇帝「ニコライ二世」です。


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その他、当時西郷星というのも話題になりました。

西南戦争が起こった明治10年(1877年)に、火星の大接近があり、最接近時の9月3日には距離5,630万km、光度-2.5等あまりにまで輝いていました。

当時の人々はこれが火星である事は知らず

「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」

という噂が流れ、「西郷星」と呼ばれて大騒ぎになったそうです。

また、西郷星の周りではもう一つ目立つ星が、西郷星と近づいたり離れたりしていました。

この星を見た人々は、この星は西郷隆盛の信奉者の一人である桐野利秋ではないかと考え「桐野星」と名付けています。

土星が桐野星の正体でした。


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《真相!西郷の首が眠るお墓の場所は?》

西南戦争が終結すると、浄光明寺跡で山縣有朋と政府軍幹部ら立ち会いのもとで検屍が行われます。

西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬されました。

このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられます。

そして、その2年後の明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地に改葬。

桜島を望む丘の上にある南洲墓地には、西南戦争後、城山や鹿児島県内のみならず、宮崎・熊本・大分の各県から集められた薩摩軍兵士2023名が眠っています。

西郷隆盛を囲むように兵士の墓が並んでいるほか、西郷らを支援した鹿児島県初代県令・大山綱良の墓や、西郷と深い親交があった勝海舟が、亡き友のために詠んだ歌碑が建っています。

この歌碑には

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

と刻まれています。

西南戦争で自らの意図とは異なるものの、私学校派の少壮士族らによる反乱の責任を負って散って行った西郷隆盛への、勝海舟の想いを読みとることができます。


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《『西郷隆盛』について、レビュー(評論)!》

西郷どん・・・日本で最も有名な人物かもしれません。徳川家康が開いた「江戸幕府」をあらん限りの手を駆使して終わらせた英雄。

しかし、彼はあくまでも「戦時」の人、つまり戦争が起きている際に能力を発揮できる人でした。幕末四賢侯の一人「松平春嶽」は、西郷さんについて

「智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷也」

と言っています。

西南戦争・・・・・自分が戦争が起きているときにこそ能力を発揮できると知っていた西郷さんは、西南戦争を「日本最後の内乱」にしようと、心に決めていたのではないでしょうか。

西郷さんは西南戦争で祭り上げられたものの、決して積極的に作戦立案などをしていません。

しかも「征韓論争」で敗北し、下野する際

大久保利通岩倉具視がいれば、新政府は大丈夫」

と、自らを下野に追い込んだ二人を、恨むどころか信頼しきった物言いをしています。

結果、西南戦争は、日本最後の内乱となり、現代まで内乱は起こっていません。

明治22年、大日本帝国憲法発布の大赦で、名誉回復。逆賊であるにも関わらず、わずか12年で名誉を回復。

当時の日本人誰もが、西郷さんは逆賊ではないということを、知っていた証拠でしょう。

ちなみに明治天皇も、西郷さんをとても愛していたと言われています。

西郷隆盛・・・明治維新を成し遂げ、最期の内乱を起こした英雄。その遺功は今も輝きを失ってはいないでしょう。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・西郷は城山で敗死します。ところが、西郷の首が行方不明あり、西郷は生存しているとの噂がありました。最近西郷の首発見者の履歴書が発見され、そこに西郷の首を発見した状況が具体的に書かれていたため、西郷の首伝説は終止符を打つことになりました。

・西郷生存説では西郷はロシアに渡ったとの事です。大津事件では、ニコライ皇子を斬り付けた犯人の動機にも西郷生存伝説がからんでいます。

・西郷は鹿児島の桜島を望む「南洲墓地」に薩摩軍兵士と一緒に埋葬されています。

源義経、織田信長明智光秀、豊臣秀頼…非業に死んだ日本史に残る英雄がもし生きていたら、という人々の思いで生存伝説はつくられます。

西郷隆盛も、「西郷さんが生きていれば、明治政府ももっとよくなるかも」と思われていたに違いありません。

西郷は明治の人々からとても愛されていた英雄なのです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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