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西郷隆盛が島流しになった理由とは?奄美大島で生活と子孫のゆくえ

明治維新を成し遂げた英雄「西郷隆盛」が、「流罪」、つまり「島流し」にあっていたことをご存知でしょうか?

「奄美大島」や「沖永良部島」で生活していた西郷さんの子孫が、今につながっています。

西郷さんは奄美大島や沖永良部島で、どのような生活をしていたのでしょうか?実はそこでの生活は、幸せの絶頂だった!

西郷さんの島流しについて、わかりやすく、簡単な解説をさせていただきます。


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この記事を短く言うと

西郷隆盛が島流しになったのは、「安政の大獄」からの逃亡と、「命令違反」が原因

・島流しにあった「沖永良部島」には、記念碑と記念館がある

・西郷が島津久光を嫌っていた理由は、久光が「島津斉彬」を暗殺したと思っていたから


「西郷隆盛」が島流しになった理由

「島流し」になった経緯を解説

西郷隆盛は、人生で2度ほど島流しになっています。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

1回目は、1859年

実はこれ、「島流し」ではなく、西郷の身を助けるために取られた手段だったのです。

薩摩藩主・島津斉彬は西郷をとても可愛がっており、斉彬公の手足となって動いていました。

斉彬公が幕政に関わりだすと、14代将軍の座に誰を押すかで激しい対立が起こります。

井伊直弼を中心とする紀州藩「慶福」擁立派、越前藩「松平春獄」と薩摩藩「斉彬」公を中心とする「一橋慶喜」擁立派の争いです。

そんなとき、「斉彬公」が急死します。

大老の井伊直弼は、このタイミングで反対派の弾圧「安政の大獄」に乗り出します。

斉彬公の手足として動いていた西郷にも、危険が及びます。

西郷は、京より鹿児島へと脱出。

その時、盟友である「月照」上人を救うことができず、鹿児島・錦江湾で入水自殺を図るも生き延びます。

薩摩藩は西郷が死んだものとして扱い、「菊池源吾」と名前を変更させます。

そして、新しい名前で罪人として奄美大島へ流刑されることになりました。

カモフラージュとして流刑された西郷は、奄美大島で「愛加那」という妻を迎えています。

西郷さんの奄美大島での生活は、彼の人生の中でも非常に穏やかなものだったことでしょう。

妻「愛加那」と、子供「菊次郎」とともに、とても幸せな時間を過ごしていたのです。

その証拠として、大久保利通らが西郷を薩摩に呼び戻そうと画策していたことを知り、西郷は「帰りたくない」と手紙を送っています。

「自分はいないものとおもってくれ」と・・・。

そんなわけにはいきません。西郷をなによりも大切に思っていた盟友「大久保利通」にとって、西郷隆盛というカリスマは手放せるはずのない存在なのです。

穏やかな生活を終えた西郷は、「明治維新」に向けて大きく前進することとなります。

 

2回目は、1862年

奄美大島から無事に帰還したわずか数か月後、島津久光公から「命令違反」として、今度は「徳之島」「沖永良部島」へ島流しを受けます。

久光公は、「公武合体」・・・つまり「幕府を助け、朝廷・幕府の協力体制の実現」を推し進めていました。

西郷は久光公の力量不足を感じており

「久光公には、天下の政治の策動は無理で、兄君・斉彬公の足元にも及ばない」

というようなことを、面と向かって発言したそうです。

また「下関で久光公の到着を待ってから上京行軍に同行せよ」という久光公命令に対し、、京都・大坂での薩摩藩・過激派の暴発に危機感を感じていた西郷は、命令を無視。

久光公の合流を待たずに上京し、過激派の暴発を抑えようと画策します。

この命令違反と、過激派への抑えつけとして、罪を問われた西郷は島流しになります。



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奄美大島で産まれた西郷さんの「子供と子孫」

2人目の妻「愛加那」との間に、西郷は長男「菊次郎」、長女「菊草」という二人の子供を授かっています。

この長男「菊次郎」が、西南戦争で片足を失いながらも家人「熊吉」により命を救われた後の京都市長である「西郷菊次郎」さん。

そして「菊草」は、陸軍大臣「大山巌」の弟「大山誠之助」の妻となり、夫の暴力に苦しむこととなります。

「西郷菊次郎」さんの孫「西郷隆文」さんとその弟「等」さんは、奈良県出身ですが、現在鹿児島県で「陶芸家」として活動しておられます。



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「西郷隆盛」が島流しになった場所は、どこ?現在はどうなっているのか

1862年に西郷が島流しになった沖永良部島には、港のすぐ近くに「西郷隆盛上陸之地」という石碑が建っています。

西郷隆盛が収監される牢屋があった「和泊集落」には、牢屋跡があります。

再現された牢屋の中には西郷像が備えられており、収監時の西郷隆盛の姿も見ることが出来ます。

また近くに「西郷南洲記念館」がオープンしています



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「西郷隆盛」が「島津久光」を怒らせた原因とは?西郷は久光を恨みぬいていた

西郷は久光公に対して「田舎者(ジゴロ)」と言ったり命令違反をしたり、反抗的な態度を取っています。

「斉彬公と違い、久光様はジゴロ(田舎者)でございます」

これは、西郷が島津斉彬を弟の久光が暗殺したと確信していたから、と言われています。

西郷は斉彬の弟子であり、後追い自殺までしようとするぐらい、斉彬を尊敬していました。

そのため、西郷は久光を恨んでいたのではないか。と、言われています。



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「西郷隆盛」について「ひとこと」いいたい

西郷さん・・・幼いころから心優しく、正義感の強い人物であったお方。

そんな西郷さんですが、流罪になったにも関わらず、どうして後世に名を残すことができたのでしょうか?

「流罪」・・・今でいうなら刑務所に収監されたようなものであり、出世の道は絶たれたようなもの。

出世できた理由は2つあります。

1つは、西郷さんが斉彬公に育て上げられた「超一流の工作員」だったため。

京都・江戸という「天皇・将軍」のお膝元で、人脈とパイプを持っていたのこと。

この時、島津久光公は、京都・江戸で影響力を持ち、政治に介入しようとしていたので、西郷の力が必要不可欠だったのです。

2つ目が、圧倒的な「人望」です。

西郷さんは薩摩藩の人間から、絶大な信頼を受けていました。

そのため、西郷さんを実働部隊のリーダーにすえないと、薩摩藩士が久光公の命令に従わない危険性があったのです。

「実力」と「人望」

この二つを持っていたため、西郷は「島津久光」からいくら嫌われても、出世することができたのです。

この「人望」は、彼の正義感によって築き上げられたものでしょう。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・西郷隆盛は、人生で二回ほど島流しにあっている。

・末裔は、現在鹿児島で「陶芸家」をしておられる。

・二回目に島流しにあった沖永良部島には、石碑や牢屋跡を見ることが出来る。

・西郷隆盛は、、斉彬の死を久光の暗殺だと確信していた。

幕末の偉人 西郷隆盛は、人生のエピソードがまだまだありそうですね。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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