剣豪集団「新選組」。その「新選組」の中で「最強の剣豪」は、いったい誰なのでしょうか?
「沖田総司」「斎藤一」「土方歳三」「近藤勇」「永倉新八」などなど。
数々の剣豪がいる新選組なかで、最強候補1位が「沖田総司」。そのライバルが「斎藤一」。
しかしそんな二人よりも強い「剣豪」がいた!
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新選組で特に強かったメンバーたち
新撰組局長 近藤勇

近藤勇
『引用元ウィキペディアより』
「真剣を持たせると敵なし」と言われた近藤の強さは、池田屋事件が証明しています。
長州藩の尊王派志士20数名に対し、新選組は数で劣る中、近藤勇は、援軍(土方隊)が来るまで、約2時間を戦い抜いています。
池田屋に踏み込み沖田が昏倒、藤堂が負傷し戦闘不能になった中、永倉新八と近藤勇は2名で孤軍奮闘しました。
永倉が傷を負った一方、池田屋に最初に突入したメンバーでありながら一時間を超える戦闘の中で唯一怪我一つなく、また刀も折れず曲がらず鞘に戻ったと伝わっています。
二番隊組長 永倉新八

下段の中央が「永倉新八」
『引用元ウィキペディアより』
永倉新八は、近藤、沖田、藤堂、周平とともに最初に池田屋に討ち入ったうちの一人です。
永倉も左手親指を負傷し、身につけていた武器防具もボロボロになります。
にも関わらず、落ちていた刀を拾って戦い、なんと4人を討ち取ります。
この襲撃で永倉は、金十両、別段金十両、しめて二十両の報奨金を得ています。
新撰組設立当初からのメンバーで、池田屋事件などの新撰組の大きな事件全てに参加しているうえに、戊辰戦争のとき、京都から江戸まで主要な戦のほとんどに参加していながら、明治時代まで生き残ります。
沖田総司より強かった男とは?
永倉新八
1846年、齢7歳にして岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。
その後、めきめきと腕を上げ免許皆伝となっています。
元服すると、松前藩を脱藩。剣術修行のため、各地で道場破りを行い、その後、近藤勇が率いる天然理心流「試衛館」の食客となります。
新撰組結成後は、組長兼剣術師範をしていた永倉新八は、「鳥羽・伏見の戦い」では甲冑を脱ぎ、刀一つで突撃する「決死隊」において活躍するという勇猛さを見せました。
1894年(明治27年)、『日清戦争』が勃発。
日本全国から義勇兵(金銭的な見返りを求めず自発的に戦闘に参加する兵)の志願が相次ぎました。
55歳になっていた永倉は、刀一つで敵陣に飛び込む抜刀隊に志願しますが、さすがに「お気持ちだけ…」と断られたそうです。
晩年の永倉は映画を好み、よく映画館を訪れていました。
ある時、孫と小樽の街で映画館の出口を出ると、地元のやくざにからまれましたが、その鋭い眼光と一喝でやくざを恐れさせ、退散させたという逸話が残っています。
永倉は酒に酔うと、ふんどし一枚になって体についた銃創を叩き
「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」
と叫んだそうです。
「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らないんじゃ」
と一生を剣術に捧げた永倉新八。
1915年(大正4年)1月5日、虫歯の重症化による感染症で死去します。享年75。
斎藤 一

斎藤一
『引用元ウィキペディアより』
新選組には藤堂平助(北辰一刀流 目録)、沖田総司(天然理心流 免許皆伝)など、高名な流派の免許皆伝者が何人もいました。ですが、斎藤一はそうではありません。
それにもかかわらず、入隊してすぐに最年少幹部となり、後に三番隊を率い、剣術師範頭をも務めています。
これは彼の実力を証明していますし、それを近藤、土方も認めていたということです。
あるとき、四条堀川西へ入るところにある米屋に鉄砲を持った三人組が押し込み強盗に入ります。その通報を受けた新撰組は、永倉新八、斎藤ら5名が出動。店内に突入してくる新撰組に対し強盗は銃を発砲するが、ひるむことなく戦闘の末に強盗3名を斬殺したと言われています。
他にも活躍した話として、大阪力士との乱闘、四条大橋の斬り合い、天満屋事件、油小路の変などがあります。
なかでも後年、永倉が弟子に語った油小路の変で服部武雄を倒したのは斎藤であるという逸話は、斎藤の強さを証明していると思います。
池田屋事件の際には、斎藤は土方歳三隊に所属。この功績により、事件後幕府と会津藩から金十両、別段金七両の恩賞を与えられたといいます。
新撰組内部での粛清役として、隊内での暗殺も行ったと言われる斎藤。
剣豪が揃う新撰組において、隊士を暗殺できたほどの腕前だったという証拠でしょう。
「左片手一本突き」を得意としていた斎藤
明治の末、ある人物が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたところ、そこにひとりの老人が通りかかります。竹刀を借りると老人は一瞬で突き、缶は揺れることなく貫通していました。
老人は
「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」
などと教えます。
その老人こそ斎藤であった、という逸話があります。
新選組結成とほぼ同時に入隊し、西南戦争まで戦ったのは斎藤だけです。このことから、つわもの揃いの新選組においても、実戦に身を投じた回数が最も多かったのはおそらく斎藤だったのではないかと推測されます。
斎藤は戦場に倒れる事無く、畳の上でほぼ天寿を全うします。
1915年(大正4年)9月28日、 享年71歳
階級は警部、勲等は勲七等青色桐葉章。
最強は誰?
新撰組の隊士、阿部十郎によると新撰組の中では
「一に永倉、二に沖田(総司)、三に斎藤(一)」
の順に強かったと言います。
永倉は弟子に
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」
と語ったと言われています。
永倉新八は、「力の剣法」と言われる神道無念流で免許皆伝。力強い打突や、上段からの一本を尊ぶ流派でした。
永倉の得意技は、下段の構えから敵の剣を擦りあげ、返して切り落とす「龍飛剣」という技だったそうです。力の剣術と、向こう見ずな永倉の性分は、ずいぶん相性が良かったようで、この組み合わせの妙が、剣術では新選組最強とまで評された永倉新八の伝説を作るのに一役買っているようです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・新選組で特に強かったメンバーは、近藤勇と永倉新八。
・沖田総司より強かったのは、永倉新八と斎藤一。
・新選組最強は、永倉新八ではないだろうか。
以上となります。
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