西郷隆盛の首を斬り落とした男・別府晋介の最期と、その子孫・家系図について、わかりやすく簡単に解説いたします。
西郷とともに西南戦争を戦い、切腹する西郷の介錯(首斬り)を行った別府晋介。
彼は、尊敬する西郷にとどめをさした直後、自らも切腹したのです。
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この記事を短く言うと、以下の通りです。
別府晋介とは、いったい何をした人なのか?
陸軍少佐・別府晋介
諱は景長さんというそうです。
江戸幕府を倒し、明治維新を成し遂げて日本の近代化に成功した英雄・西郷隆盛とともに日本最後の内戦である西南戦争を戦い、西郷の介錯を務めたお方です。
- 《別府晋介》
「引用元ウィキペディアより」
さて、その別府晋介という方は、いったいどんな功績を残した人なのでしょうか?
別府晋介の功績
別府晋介さんの功績を簡単に解説いたします。
- 戊辰戦争に参戦し、各地を転戦
- 征韓論を主張した西郷隆盛の命令で、朝鮮半島を視察。「韓国を倒すなら、私に2~3の中隊を与えてくれれば十分だ」と桐野利秋に対して豪語した
- 西南戦争で奮戦。西郷自決の際に介錯をつとめた
別府晋介さんは、西郷隆盛の介錯、つまり首切りを担当した人物です。
切腹には、介錯といって首切りをする人物がつきます。
切腹する者を苦しませないため、とどめをさしてあげるのです。
介錯は、残酷なように見えるかもしれませんが、そうではありません。
麻酔無しで手術を受けたある有名タレントさんが、そのときに受けた苦痛の経験について、こんなことをおっしゃっていました。
「腹を斬るということが、どれほど苦しいかがわかれば、介錯は情けであるとわかる」
通常、介錯は剣術に覚えのある人物が担当します。別府晋介が、相当な剣の技術を持っていたことがうかがえます。
生涯年表
- 1847年
鹿児島で、父・別府十郎の次男として誕生。 - 1868年(明治元年)
戊辰戦争に参戦。後の海軍大将・川村純義のもとで、白河城・棚倉・二本松・会津若松・十六橋の戦いなどに参戦。 - 1871年(明治4年)
廃藩置県のとき、西郷隆盛がひきいた御親兵に参加。 - 1872年(明治5年)
日本との国交を拒絶する朝鮮半島へ密かに潜入。
2ヶ月の調査を終えて帰国すると
「韓国を倒すなら、私に2~3の中隊があれば十分」
と言っていた。当時の韓国は弱体化していたので、実際それで十分だったのだろう。
(1中隊で約1500名前後) - 1873年(明治6年)
征韓論争に敗れた西郷が、下野(辞職)して鹿児島に帰ると、別府もまた少佐の地位を捨てて帰郷。 - 1874年(明治7年)
西郷と大山綱良(鹿児島県知事)が、私学校を創設する際に、別府晋介も協力した - 1877年(明治10年)2月
西南戦争勃発。
別府晋介は6番大隊と7番大隊の連合大隊を、大隊長として指揮。
熊本城所属の政府軍偵察部隊と激突。
西南戦争の火蓋をきった。
(ちなみに西南戦争での政府軍・海軍総大将は、戊辰戦争で別府晋介の上官だった川村純義だった) - 同年9月24日
熊本城の戦い・田原坂の戦いで敗北した薩摩軍は、鹿児島・城山に立て籠もり、最期の抵抗を見せる。
負傷した西郷隆盛の介錯をした別府晋介は、直後に切腹し、亡くなった。
享年31歳
別府晋介の娘たちと兄について
別府晋介の3人の娘たち
別府晋介には、妻と3人の娘がいたことがわかりました。
別府晋介は、最期の地・城山の洞窟から、娘たちへの形見分けの書を、従者によって届けさせたとのことです。
とてもありがたいことに、別府晋介の末娘のひ孫、つまり別府晋介の玄孫に当たられるお方から、直接ご指摘をいただきました。
この場を借りまして、ご指導に心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。
実兄・別府九郎について
別府晋介さんには、別府九郎というお兄さんがいました。
陸軍大尉・別府九郎
有名な従兄弟の陸軍少将・桐野利秋(中村半次郎)や、弟の陸軍少佐・別府晋介に比べると、それほど有名ではないかもしれません。
しかし、この別府九郎さんもまた、西郷さんとともに戊辰戦争・明治維新を戦い抜いた英雄なのです。
それだけではありません。
別府九郎さんは、西南戦争において騎兵隊隊長をつとめて各地を転戦。
西郷さんが壮絶な最期を遂げた城山決戦まで付き従った薩軍の幹部だったのです。
この別府九郎さんもまた、桐野利秋・別府晋介にも負けない歴戦の英雄です。
西郷隆盛を介錯したあと、いったい何が起こったのか?
1877年(明治10年)9月24日
そのとき別府晋介は、足を負傷してカゴに乗って移動していたと言われています。
「晋どん、もう、ここいらでよか」
覚悟を定めた西郷は、カゴに乗っていた晋介を振り返り、声を掛けます。
介錯を頼む
そういう意味だったのでしょう。
「ごめんなったもんし(お許しくださいませ)」
薩摩弁で、許しを請う言葉を叫びながら、別府晋介は西郷を介錯。
西郷隆盛、死去。享年51歳(満49歳)
切腹によって、その武士の罪は洗い流され、罪人ではなくなります。
罪人を処刑する斬首と違うことを表すため首の皮一枚をつなげるのが、介錯の礼儀とされています。
別府晋介も、西郷の首の皮一枚を残して介錯したことでしょう。
その後、晋介は西郷が自決したその場で切腹。頭上には弾丸が飛び交っていたと言われています。
別府晋介、享年31歳
従兄弟である桐野利秋(中村半次郎)も、そして村田新八も、西郷の自決を見届けたあと壮絶に戦死。
西郷を支援し続けた鹿児島県知事の大山綱吉は、西郷に協力した罪で処刑。
政府軍を指揮していた総大将にして西郷の盟友・大久保利通は、西郷の死を聞き、狂ったように家の中を徘徊し、号泣したと伝えられています。
別府晋介さんについて、ひとこといいたい
別府晋介
英雄・西郷隆盛を介錯した男。
その罪悪感は想像を絶するものがあります。
西郷の従兄弟で、西南戦争に参戦した・大山巌は、西郷さんを死なせた罪悪感から、生涯にわたって故郷・鹿児島の地を踏みませんでした。
弟・西郷従道も、兄・西郷隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に、内閣総理大臣を固辞し続けました。
西郷を死なせた政府軍の総大将・大久保利通は、今でも鹿児島で西郷どんの敵とみなされ、人気がないのだそうです。
不世出の英雄。これは西郷隆盛にピッタリな言葉だと思いますが、その西郷隆盛にとどめをさした別府晋介の苦しみは相当なものだったはず。
別府晋介は、西郷の介錯を終わらせた直後に切腹したといわれています。
一秒たりとも生きていられないと思ったのかもしれません。
おそらく自らも切腹することで、西郷を死なせた罪を謝したのでしょう。
別府晋介は今、鹿児島南洲墓地にある西郷隆盛のお墓のすぐ右隣りに眠っています。
従兄弟・桐野利秋は、西郷隆盛のお墓のすぐ左。
二人は今も、西郷さんの左右を支え、守っているのです。
英雄・別府晋介さんについて
別府晋介さんの末裔のお方から、ご教授頂きましたことを、こちらに記させていただきます。
この度は貴重な情報を頂きましたことに、心より御礼を申し上げます。
《別府晋介》
「引用元ウィキペディアより」
別府晋介さんの末裔にあたられるこのお方は、お若い頃に、大叔父様から
「ご先祖様の功績を語り継いでいくように」
とお言葉を受けられたのだとか。
お話を頂きました末裔の方のみならず、剣豪・別府晋介さんの血を引く末裔の方々に、心よりお礼を申し上げます。
別府晋介さんのご先祖さまとは?
別府晋介さんのご先祖様は、桓武平氏。桓武天皇四世の平良文流です
家紋は「日の丸扇の丸の中に鷹の羽紋」
ご先祖さまは、源平合戦(治承・寿永の乱)における【屋島の戦い】にも参戦しておられたといわれています。
別府五郎平忠明のご先祖さまにあたられる人物が、屋島の戦いに参戦し、那須与一が射ぬいたという扇の的を射ぬいた戦いに参戦していたといわれており、そのときの平氏の家紋「扇」のなかにこのときの逸話の縁起をかついで、日の丸の鷹の羽紋を入れたのだと考えられます。
平忠明公の何代か前の方が、南九州の開拓を始めたといわれています。
薩摩のあたりは、平忠明の兄弟である川辺平氏が開拓したといわれています。
平家一門の一人であるこの平忠明公が、12世紀(1177年頃)に薩摩・別府城の城主をつとめていたのです。
別府氏は公金を扱い、知勇を兼ね備えていた
別府晋介さんといえば、剣豪というイメージがありますが、実は別府氏は、武のみならず、文そして算術にも優れた能力を発揮しておられました。
別府晋介さんの従兄弟にあたる陸軍少将・中村半次郎こと桐野利秋の家では、薩摩藩において、公金を扱う役職についていたのです。薩摩藩の帳簿は、別府家がつけていました。
別府家に伝わる家帳によると、別府家は【薩摩藩・島津家の帳簿役であった】との記載が、実際に残っております。
つまり、算術に明るく、文についても相当高い能力を持っていたことがうかがえます。
もともと薩摩藩は、郷中教育という教育方法で優れた人材を多数輩出していましたが、中でも公金を任されていた別府氏は、知も兼ね備えた優れた一族であることがわかります。
- 中村半次郎(桐野利秋)
実は、別府晋介さんの父である別府十郎さんが、桐野利秋に文字を教えていたといいます。
中村半次郎が日記を残すことができたのは、十郎さんが文字を教えたためだと考えられます。
一部の説では、中村半次郎(桐野利秋)が、武には秀でていたが文には暗かったという噂があるようですが、そもそも郷中教育が施されていた薩摩藩において、文に暗いということは、極めて可能性の低い話であると思われます。
別府晋介さんの強さとは?戦闘集団・島津の精鋭
西郷さんは西南戦争で亡くなるかなり前から、別府晋介さんを、自らの最期に介錯をさせる役として指名していたといいます。
当然ながら介錯には、尋常ではない剣の技が必要になります。
別府晋介さんは、その腕前を西郷さんから信頼されていたということになります。
もともと剣豪として名高かった別府晋介さんですが、その一族は、相当な戦闘集団だったと考えられます。
別府家はそもそも藩主・島津氏の警護をするために、朱い毛槍を任されていたお家柄でした。
つまり別府家は、藩主の籠の前後を朱い毛槍で警護する役を任せられていたのです。
皆朱の槍といえば、家中随一の武者たる証なわけですが、鬼島津と呼ばれた先頭集団・島津家において、別府家の実力は際立ったものがあったといえます。
薩摩という地は、人吉山脈に守られた天然の要塞でした。そのため、出水街道と吉野街道という2つの街道を塞いでしまうと、鹿児島を落とすことは至難となります。
当然ながら、この2箇所の街道は、鹿児島を守るための拠点として重要視されるわけですが、この街道近くには、別府家と婚姻関係にあった親族の桐野と川上という苗字の方が、数多くお住いになられておられます。
つまり、鹿児島を守護するのための重要拠点に、
- 別府家
- 桐野家
- 川上家
の方々が配置されたということになります。
- 1578年【耳川の戦い】で、大友宗麟の軍団を撃破し
- 1584年【沖田畷の戦い】で、別府家と婚姻関係を結ぶことになる川上家の川上忠堅が、龍造寺隆信を討ち果たし
- 1586年【戸次川の戦い】で、長宗我部元親を撃破してその子・信親を討ち
- 1598年【朝鮮出兵・泗川の戦い】では、10万の敵軍を2千の軍で大破
- 1600年【関ヶ原の戦い】では、徳川家康軍の中央を突き破って戦線離脱
戦国時代に恐るべき戦歴を誇り、鬼島津の異名をとった戦闘集団・島津家の中でも、別府晋介さんの別府氏は、最精鋭と呼ぶべき存在だったのです
西南戦争に参戦
1877年、別府晋介さんは、秩禄処分や廃刀令などによって権利を奪われた不平士族たちとともに立ち上がった西郷さんに従い、鹿児島を出陣。
- 《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』
西南戦争において、もっとも壮絶な戦闘が行われたとされる【田原坂の戦い】において、別府晋介・九郎兄弟の親族の一人である別府一二三さんが戦死なさっておられます
この田原坂の戦いは壮絶な死闘であり、現在でも古戦場から、鉛玉が発見されるといわれています。
【かちあいだま】と呼ばれる、空中で銃の弾丸と弾丸とが衝突したものも、古戦場から多数発見されているとのことです。
空中で弾丸と弾丸がぶつかるほどに、雨あられと弾丸が降り注がれた激戦【田原坂の戦い】。
この戦いにおいて、壮絶な戦死をなさった別府晋介さんの親族・別府一二三さんの勇名は、西南戦争の戦没者記念碑に刻まれているのです。
別府晋介さんの甥にあたられる方が、西南戦争で生き残った経緯とは?
実はこの西南戦争において、別府晋介さんの甥にあたる人物が、それぞれの家名を継がせるために、戦場から逃がされたという言い伝えがあります。
別府晋介さんの兄弟である別府九郎さんの息子で、別府彦兵衛さんという方が、別府家の系図を引き継ぐために、戦場から落ち延びたのでした。
このとき、別府彦兵衛さんが、戦場から離脱することに協力した多数の人達がいました。
この別府彦兵衛さんを含めた【5名の若者】が、戦場から離脱。
5名の若者たちの歳の頃は、わずか10代前半だったといわれています。
5名は城山から、薩摩半島最南端の指宿にくだり、指宿から協力者の手引もあって大隅半島最南端・佐多岬へ、佐多岬から内之浦の海岸を通って、高山町・波見の海岸へ上陸、そこから各地へ散らばって潜伏をしたのだとか。
そのうち2名が高山町へ潜伏。残りは東串良町へ潜伏。計5名は、身を隠し、生き延びたのでした。
西南戦争において不世出の英雄・西郷隆盛は戦死。
西郷さんとともに戦った人々は、自らが囮となって、自らの死をもって武士の世・混乱の世を終わらせようとしたのです。
このとき、逃された別府彦兵衛さんたち幼い子どもたちは、次の時代を築くために、西郷さんたちに生かされたのでした。
コメント
コメント一覧 (4件)
京都府内の住民です。母の祖父が鹿児島出身の別府善スケという方で8人兄弟だったと聞いています。
西南戦争の折負傷し傷を手当てしてくれた方と結婚、現在に至るとも聞いていますが、果たして別府晋介さんとは関係がなかったのでしょうか。私には調べる由もないままになっております。
こんにちは
この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます!
また、それだけではなく、この上なく貴重な情報をありがとうございます
不世出の英雄西郷隆盛とともに戦った別府晋介さんの末裔の方かもしれないとのことですが、偉大な偉人の末裔の方からのメッセージに、私共一同興奮を抑えきれません!
もしもお時間等よろしければ、そのお話しをもっと詳しく教えていただけませんでしょうか!
何卒よろしくおねがいいたします!
大変恐れ入りますが、お母上さまのお祖父様の「家紋」について、何かご存知ありませんでしょうか?
どのような形の家紋であったか、ご記憶等ございませんでしょうか?
不躾な質問をいたしました失礼を、どうかお許しくださいませ。
ものすごく貴重なお話しをいただき、大変興奮しております。
申しわけありません!!