大山巌の生涯と最期!西郷隆盛と戦い、ロシアにも勝利した隠れた名将

西郷隆盛のいとこ「大山巌」について、その「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。
「英雄・西郷隆盛と西南戦争で戦い、それが原因で、二度と故郷の鹿児島に帰れなくなっていた」
「日露戦争」を勝利に導いた名将『大山巌』。敵国ロシアからも尊敬されていた
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・大山巌の功績とは、西南戦争鎮圧に尽力。日露戦争において、ロシア軍に勝利
・大山巌は、西郷隆盛の従弟。西南戦争では、西郷と戦い、鹿児島に二度と帰らなかった
・日露戦争でロシアと戦ったにも関わらず、大山は葬儀で「ロシア」から、大きな花輪を霊前に供えられた
目次
大山巌とは何をした人なのか?その功績を一言で解説
大山巌
陸軍大臣や文部大臣、内大臣を歴任した、明治期の軍人・政治家

《大山巌》
『引用元ウィキペディアより』
大山巌は、西郷隆盛の従兄弟にあたります。
大山の父親「大山綱昌」が、西郷隆盛の父親「西郷吉兵衛」の弟
ちなみに、大山巌の弟「大山誠之助」は、西郷隆盛と愛加那の娘「菊草」と結婚しています。菊草は、借金と暴力に相当苦しんだらしいですがね・・・。
大山巌の功績
大山巌の功績を短く解説いたします。
・戊辰戦争で各地を転戦(会津戦争では、新島八重に狙撃されたという説がある)
・西南戦争などの士族反乱を多数鎮圧
・日清戦争において、第2軍司令官として勝利に貢献
・日露戦争において、陸軍を率い、海軍の同郷・東郷平八郎とともに勝利に貢献した
大山巌・・・かなり太っちょで温和な人だったみたいですが、後に「昭和天皇」から「山県有朋」「山本権兵衛」と並んで、「名将」として評価されている人物です。
明治天皇からは
「お前はボーっとしているから(切れ者・児玉源太郎の上司として、余計な口出ししないから)最適だ」
と言われた話は有名です。
大山巌の生涯と最期
大山巌の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
1842年、西郷隆盛の叔父「大山綱昌」の次男として、鹿児島下鍛冶屋町で誕生。
西郷隆盛の弟で、年が近かった「西郷従道」と行動をともにすることが多かったようです。
過激派の薩摩藩士による蜂起未遂事件「寺田屋事件」では、過激派に組みしたため、帰国謹慎処分となっています。
1863年、「薩英戦争」が起こると謹慎解除。
砲術の威力を目の当たりにし、後の総理大臣「黒田清隆」たちとともに「砲術」を学ぶことになります。
戊辰戦争で転戦
戊辰戦争では新式銃の一部隊を率いて「鳥羽伏見の戦い」や「会津戦争」に参加。
会津戦争では籠城兵から狙撃されています。「右の股」を内側から弾丸が貫通。
その時、大山が担当していた「会津若松城・北出丸」には、狙撃兵は「新島八重」しかいなかったと言われています。
新島八重・・・「同志社大学」を設立した「新島襄」の妻。大河ドラマ「八重の桜」で女優「綾瀬はるか」さんが演じていた女性
もしかしたら「新島八重」に撃たれたのかもしれません。
スイス・ジュネーブへ留学
1869年(明治2年)ヨーロッパへ渡り、プロイセンとフランスの戦争「普仏戦争」を視察
1870年から3年間、スイス・ジュネーブに留学しています。
西南戦争に参戦
1877年、「西郷隆盛」による士族反乱「西南戦争」が勃発
大山巌は鎮圧に尽力。西郷隆盛を攻めた大山・・・その後も西郷隆盛の弟「西郷従道」とは、仲が良かったと言われています。
日清戦争
1894年、日清戦争が勃発
大山巌は、陸軍大将・第2軍司令官として参戦し、勝利に貢献しています。
日露戦争
1904年、日露戦争が勃発
大山巌は元帥として参戦。
主に陸軍を率いて、旅順要塞攻略に着手。
乃木希典・児玉源太郎たちの奮戦により、203高地を占領。その後要塞は降伏
大山巌の同郷「東郷平八郎」の活躍により「日本海海戦」でバルチック艦隊を撃破。
日本は奇跡的に大国ロシアに勝利
その後、アメリカ大統領「セオドア・ルーズベルト」が日露両国を仲介。
小村寿太郎の活躍により「ポーツマス条約」を締結して終戦となります。
最期
1916年(大正5年)内大臣を務めていた大山巌は、陸軍演習を参観した帰り道で倒れます。
胃病に加えて胆嚢炎を発病。12月10日に亡くなりました。
享年75歳
亡くなる時、枕元には「山県有朋」や「寺内正毅」「川村景明」「黒田為楨」など、歴戦の名将たちが集まり、まるで「元帥府」が建てられたかのようだった・・と言われています。
実は大山巌臨終の前日、明治の文豪「夏目漱石」が他界していました。
そのため、新聞はほとんどが夏目漱石の死を報じ、大山巌の訃報は目立たないものでした。
西南戦争で西郷隆盛と戦った
大山巌は、数々の士族反乱鎮圧に参加していますが、最期の士族反乱にして日本最期の内乱「西南戦争」にも参加しています。
その西南戦争を起こしたのは、幼い頃から尊敬していた従兄「西郷隆盛」
大山はとても苦しみますが、それでも軍人として、反乱を起こした西郷とその軍を討伐します。
西郷隆盛の弟「西郷従道」は、東京で鎮圧部隊を支援
反乱を鎮圧し、西郷隆盛が亡くなると、大山巌の盟友「西郷従道」がそのことを明治天皇に報告しました。
薩摩の英雄にして従兄「西郷隆盛」を相手に戦ったことを気にした大山巌は、その後二度と故郷「鹿児島」へ帰ることはなかったと言われています。
帰れなかった・・・というのが本当のところかもしれません。
西郷隆盛の人気は、鹿児島では凄まじいものがあります。西郷と対立し、西郷が最も信頼した盟友「大久保利通」は、西南戦争を鎮圧し西郷を死なせた為、最近まで故郷・鹿児島へ埋葬されなかったと言われるほどです。
大山巌・・・故郷に帰る気になれなかったのもわかりますが・・・帰れなかったのでしょう・・・。
その後、大山巌は政府の重鎮となっていきますが、西郷従道とともに最期まで「内閣総理大臣」を固辞し続けました。
西郷従道は、大山巌の後妻「捨松」との結婚前、「捨松」の両親を説得しているのですが、その席で
「大山も自分も、共に逆賊(西郷隆盛)の身内」
と発言しています。
やはり二人とも苦しい思いをしていたのでしょう。
日露戦争でロシアに勝利し、ロシアに愛された名将
大山巌は、日露戦争において「元帥」として勝利に大きく貢献しています。
大山のもとには、有名な「乃木希典」や名将「児玉源太郎」、「秋山好古」たちがいました。
その大山巌が亡くなった時、その敵国ロシアが、心を尽くした弔いをしているのです。
通常参列する「ロシア大使」だけではなく、ロシア軍「ヤホントフ」少将も、大山邸に現れ、「全ロシア陸軍」を代表して、とても大きな花輪を大山の霊前に供えたのでした。
実は、日本海海戦に勝利した「東郷平八郎」も、ロシア軍から丁重に弔いをしてもらっています。
「陸の大山・海の東郷」、この2人は、敵国からも尊敬を集めていたのです。
大山巌は今、栃木県那須塩原市の墓所に眠っています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・大山巌は「西郷隆盛」の従兄弟。西南戦争や日清戦争・日露戦争にて活躍
・元帥として日露戦争勝利に貢献した
・1916年に死去。日露戦争で戦ったロシア陸軍からも、丁重に弔いを受けた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「西郷隆盛」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
これらの記事でも「西郷隆盛」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。
「西郷隆盛」の記事一覧
「西郷隆盛」の関係者 記事一覧
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。