「維新三傑」と呼ばれた「西郷隆盛」と「大久保利通」は、どういう関係だったのか?
わかりやすく解説いたします。
「西郷隆盛」と「大久保利通」は、「ご近所さんの幼なじみ」
二人は「兄弟」のように育ち、信頼しあっていました。
しかし二人は「征韓論争」ですれ違い、対立。
「西南戦争」で西郷が、「紀尾井坂の変」で大久保も亡くなります。
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この記事を短く言うと
西郷隆盛と大久保利通!二人の出会いと幼少期
ともに明治維新を成し遂げた「西郷隆盛」と「大久保利通」
「木戸孝允」を加えて「維新三傑」と呼ばれています。
二人はどういう関係だったのでしょうか?
西郷と大久保利通の二人は、同じ「薩摩藩 鹿児島 下鍛冶屋町」で誕生。
二人の実家は「150m」ほどの距離をおいた「ご近所さん」なのです。
1828年1月23日「西郷隆盛」誕生。
1830年9月26日「大久保利通」誕生。
おそらく、二人はいつ出会ったのかも覚えていないくらい古い付き合いでしょう。
大久保からすれば、西郷は近所のお兄さん。西郷からすれば、大久保は近所の「弟」のような男の子。
二人は一緒に勉強・剣術などを学んで育ちます。二人が一緒に「禅」を組んで修行した「座禅石」が「鹿児島 座禅石公園」に残されているほど。
貧しかった幼い大久保は、お腹が空くと西郷の家の食卓に忍び込み、優しい西郷と一緒に食事をしたとのこと。
優しい西郷と、勉強ができる大久保。二人は兄弟のように仲が良かったのです。
明治維新に成功!大久保が考え、西郷が支える
薩摩藩士として、「島津斉彬」とその弟「島津久光」というお殿様に仕えた「西郷」と「大久保」。
大久保には夢がありました。
「西欧列強にも負けない、強い日本をつくること」
そのためには「徳川幕府」という、古く弱い統治機構を破壊する必要がありました。
二人は力をあわせて、徳川幕府を倒し、「明治維新」とよばれる「革命」を成功させます。
この時、「明治維新」という「近代化の構想」を考えたのは頭脳派「大久保」でした。
そしてその「構想」、つまり大久保の「理想」を形にしたのが「西郷」だったのです。
つまり「倒幕(徳川幕府を倒す)」を目指し計画したのは「大久保」。実際に「倒幕」を成功させたのは「西郷」です。
例えて言うなら、二人は「作曲家」と「ピアニスト」のような関係だったと言えるでしょう
「大久保」が作曲し、「西郷」が演奏して音楽を形にする・・・。互いになくてはならない関係だったのです。
対立!二人が決別した「明治六年の政変」
1873年(明治6年)、明治新政府を運営していた「西郷」と「大久保」の二人は、「征韓論」と呼ばれる政策で対立。
「日本人と関わるものは処刑する」
そう宣言した「朝鮮国」に対して、西郷が使者としておもむき、朝鮮と国交をむすんでくる。
西郷は2000人の朝鮮半島の居留民を救うため、朝鮮半島へ行くことを希望したのです。
しかし大久保が、それに真っ向から反対。
理由は簡単。西郷は朝鮮半島へ行ったら「生きて帰れない」から。日本へ敵意剥き出しの朝鮮へいったら、西郷は確実に処刑されます。
ところが、正義感の強い西郷は「朝鮮国」へ行くことを希望して譲りません。
「西郷を死なせたくない大久保」と「居留民を救うためなら命もおしくない西郷」
二人はすれ違ってしまいます。
「明治六年の政変」と呼ばれる、これらの騒動で、「西郷隆盛」は明治政府を辞職(下野)してしまいます。
しかし「西郷」は「大久保」を全く恨んではいませんでした。
「大久保と岩倉具視さんがいれば、政府はなんの心配もない」
晴れやかにそう言った西郷は、鹿児島へ帰郷。
「私学校」という学校をつくって、後輩たちの育成に力を尽くします。
おそらくですが、大久保はこれが西郷との「永遠の別れ」になるとは考えもしなかったことでしょう。
兄弟喧嘩をしても、いつか必ず仲直りできる・・・。大久保はそれくらいにしか考えていなかったはずです。
「今わかれてしまったとしても、いずれ西郷さんを明治政府へ呼び戻せばいい」
大久保はしばらくすれば自然と仲直りできると、信じて疑わなかったのです。
しかし、仲直りがかなうことは、ありませんでした。
「明治六年の政変」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
もう一つの対立理由「江藤新平」
二人が対立した理由は、もう一つあります。
「江藤新平」
佐賀(肥前)藩出身の天才法律家です。
江藤は、大久保が「岩倉使節団」で2年の間「海外出張」をしている間に、西郷隆盛と協力して、日本の留守を守っていた政治家でした。数々の改革を成し遂げた「西郷」と「江藤」。
「江藤」は、それまで「大久保」が務めていた「西郷隆盛」の女房役を、大久保に変わって務めることができた人物でした。
しかし、「江藤」は「大久保」と意見が合わず、非常に仲が悪かったのです。
そのため、大久保は「江藤」を失脚させようと計画します。
そのことを実行に移すため、西郷に協力を頼みます。
「江藤を明治政府から追い出したいから、協力してほしい」
と・・。
しかし西郷は、あろうことか「江藤」の味方をするのです。
西郷が江藤の味方をしたことに、大久保は愕然としました。
「これまでどんなことがあっても味方でいてくれた西郷が、よりによって自分の宿敵『江藤新平』の味方をしている・・・」
大久保は嫉妬に狂ったかのように、江藤を憎みます。
その憎しみは、殺意へと代わるほど。
大久保は罠をはりめぐらし、「江藤新平」を「佐賀の乱」首謀者にまつりあげます。
そして、形ばかりの裁判をおこなって、強引に江藤新平を処刑。無残にもその首をさらしてしまうのです。
「大安心」
江藤新平を処刑した大久保は、満足したかのように日記にそう記していました。
「江藤新平」「佐賀の乱」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
二人の最期!「西南戦争」と「紀尾井坂」
西南戦争
1877年(明治10年)2月、西郷隆盛は不平士族たちにかつがれるように、「西南戦争」を起こします。
大久保は、西郷が西南戦争を起こしたことに愕然とします。
明治政府の事実上のトップはまぎれもなく「大久保利通」でした。そして薩摩軍を率いて、その明治政府に戦いを挑んできたのが「西郷隆盛」だったのです。
西南戦争は、言いかえると「西郷隆盛 VS 大久保利通」のようなもの。
大久保は「西郷を説得」しようとしますが、周囲に説得されて断念。西郷をかついだ不平士族たちは、「廃刀令」などで武士の特権を次々奪った「大久保」を恨みぬいていたのですから。
大久保にしてみれば「強く新しい日本をつくる」という夢を実現するためにも、西郷の反乱をほうっておくわけにはいきません。
西郷を討伐するために、大久保は次々と援軍を九州へ派遣します。
徐々に劣勢にたたされる西郷達「薩摩軍」。
そして薩摩軍は、西郷と大久保の故郷「鹿児島」へと追い込まれます。
1877年9月24日「西郷隆盛」戦死。享年51歳(満年齢49歳)
それを知った大久保は、一晩中正気を失ったように泣きました。
そして大久保は、このことが原因で、平成の現代日本でも未だに「西郷さんを殺した男」と呼ばれ続けることになるのです。
明治天皇も、西郷を惜しみ
「西郷を殺せとは言わなかったぞ!!」
と仰せられ、涙なされた、といわれています。
「西南戦争」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
紀尾井坂
1878年5月14日
西郷隆盛が亡くなってから8ヶ月後、大久保利通もまた、東京「紀尾井坂」で亡くなります。
石川県の不平士族ら6人に襲撃されたのです。
その現場は悲惨極まりない惨状でした。
不平士族らが「大久保」を襲撃した理由は、「行うべき政治改革を行わず、私腹をこやしているから」だそうです。
しかし、大久保は全く私腹をこやしておらず、むしろ借金まみれだったのです。つまり「勘違い」で殺害されてしまったということ。
西郷を死なせてしまい、その死を無駄にしないために奔走していた大久保。
「強い日本をつくる」という夢を叶えるため、最愛の友「西郷隆盛」ですらも、葬らなくてはならなかった「大久保利通」。
想像を絶するほどに、無念だったはずです。
『西郷と大久保』について、レビュー(評論)!
西郷と大久保は、どういう関係だったのか?もう一度、整理してみたいと思います。
簡単に言ってしまうと、二人は「兄」と「弟」のような関係でした。
大久保は「西郷」を信頼しきっていました。
「信じている」というわけではなく「疑っていない」のです。まるで「子供が、母親を信頼しきっている」ように。
大久保は、西郷が自分を裏切ったり、敵対したり、決別したり、傷つけたりすることを、まるで想定していません。疑うことなく信頼しきっているのです。
だからこそ、西郷が「私学校」をつくって鹿児島の士族反乱を抑えているとき、大久保は
「鹿児島が暴発したり、反乱を起こしたりすることは、ありえない。
西郷が鹿児島にいる限り、それはない」
と断言していました。
その予想が外れ、鹿児島士族が反乱を起こしたときも、大久保は「西郷が反乱に参加しているはずがない」と、西郷をまるで疑っていないのです。
しかし、西郷が反乱軍に参加していると知ると、「西郷を説得し、思いとどまらせる」と言って、鹿児島行きを希望します。
鹿児島になんて行ったら、大久保は即座に殺害されます。
彼は鹿児島士族からとてつもなく憎まれていたのですから。
しかし大久保は「西郷が自分を殺すはずがない」と信じていたのです・・・。というより疑ってもいなかったでしょう。
確かに、西郷が大久保を傷つけることはありません。
しかし、周囲にいた「桐野利秋」達からすると、大久保は「天敵」・・・あっという間に斬り殺されます。
大久保の「薩摩行き」は「伊藤博文」に止められて、断念。
大久保は、西郷を全く疑っていない・・・父や母を信じきっている子のように、兄を全く疑わない弟のように、「西郷は自分の味方」だと無邪気に信じきっている大久保。
二人はそんな関係だったのではないでしょうか。
だからこそ、西郷が「江藤新平」を支持したとき、大久保はこれ以上ないほどに「江藤」を憎んだのです。もしかすると大久保は「江藤に西郷を取られた」と感じたのかもしれません。
西郷が死ぬと、大久保は狂ったように嘆き悲しみます。
「おはんの死とともに、新しか日本がうまれる。
強か日本が。」
西郷の死を無駄にしない。この時、大久保はそのことを堅く心に誓い、「新しい日本をつくる」ために前に進むのです。
西郷の死には、大きな意味があったのだと、後世の人間たちに証明するために・・・。
その8ヶ月後、自らも「紀尾井坂の変」で凶刃に倒れ、無残な死をむかえることになるとも知らず・・・。
凶刃に倒れた大久保のふところ・・・そこには西郷から大久保へと送られた手紙が、大切におさめられていました。
「美男子とはいえないのだから、写真をとるなんて武士らしくないことは、もうおやめなさい」
心優しい兄が、新しいもの好きな弟をたしなめるような、優しげな手紙・・・・。自分の写真を撮影させて、自慢するかのように西郷へ送った大久保。
大久保が大切に持っていた手紙は、それに対する西郷からの返事の手紙でした。何度も何度も読み返したであろう「西郷の手紙」。
大久保は「西郷を死なせた男」として世間から憎まれていました。それは現代の日本でも続いているほどです。
しかし大久保は西郷を片時も忘れたことがありませんでした。
最愛の兄、最愛の友、「西郷隆盛」・・・・。その死を誰よりも悲しんだのは、大久保利通だったのです。
「紀尾井坂の変」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「西郷隆盛」と「大久保利通」は、ご近所さんの幼なじみで、まるで「兄弟」のような関係だった
- 「明治六年の政変」で、二人は対立し、決別してしまった
- 西郷は「西南戦争」で戦死。翌年、大久保利通も「紀尾井坂の変」で暗殺されてしまう。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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