西郷隆盛の二人目の妻「愛加那(あいかな)」は、どのような「生涯」と「最期」だったのでしょうか?わかりやすく解説いたします。
西郷隆盛と別れ、子供たちとも別れ、最期は「脳溢血」で亡くなった。
「愛加那」の「子孫」についても「家系図」の画像付きで、ご紹介いたします。
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この記事を短く言うと
・愛加那とは、西郷隆盛の二人目の妻で、奄美大島・有力者一族の女性
・西郷隆盛と結婚した後、2人の子供と別れ、奄美大島で生活した
・離婚した理由は、「島の妻は、鹿児島へ連れていけない」という法律があったため
《愛加那とは誰なのか?何をした人?》
愛加那
西郷隆盛の二人目の妻
西郷と愛加那の間には2人の子供がいます。
「京都市長」である「西郷菊次郎」
後の陸軍大臣「大山巌」の弟「大山誠之助」の妻「菊草」
西郷隆盛と大山巌・大山誠之助は、従兄弟同士ですので、菊草は親戚に嫁いだことになります。
愛加那の功績とは?
愛加那の功績を分かりやすく短く解説すると、以下の通りです。
・尊崇する主君「島津斉彬」を亡くし、盟友「月照上人」を死なせ、失意の「西郷隆盛」を立ちなおらせた
・後に「京都市長」などを歴任する「西郷菊次郎」や「菊草(菊子)」を生み育てた
愛加那・・・・記録には残っていませんが、西郷隆盛亡き後、「菊次郎」や「菊草」を励まし支えたものと考えられます。
腕に刻まれた「刺青(いれずみ)」の謎
2018年大河ドラマ「西郷どん」にて、女優「二階堂ふみ」さんが「愛加那」を演じています。
そんな「二階堂・愛加那」さんの腕には、「刺青(いれずみ)」が!!
この刺青・・・実は「島の風習」なのだそうです。
幼い頃から右手の甲に「魔除け」として、「はぐみ」または「針突(はづき)」と呼ばれる墨を入れ始め、16歳頃・・・つまり「結婚適齢期」頃までに完成するのです。
右手に墨が入れられているということは、未婚であることを意味するのだとか。
結婚後、左手にも刺青をして「妻」としての忍従を誓い、これで結婚していることを意味するみたいですね。
つまり、愛加那さんは西郷隆盛との結婚前は、右手にのみ刺青を・・・結婚後は左手にも刺青をしていたはずです。
《愛加那の生涯と最期》
愛加那の生涯と最期について、解説いたします
生い立ち
1837年、奄美大島・龍郷(現在の龍郷町・たつごうまち)の名家「田畑」家の分家「龍為志」と、母「枝加那」の娘として誕生。姓は「龍」
龍家の本家当主「龍佐民」は、奄美大島を代表する役人。後に西郷隆盛と愛加那との結婚を後押しする人です。
大河ドラマでは、愛加那たち「龍」一族は、薩摩からの代官にいじめられていましたが、実際にはそんな事はありません。なぜなら「龍」一族は、取り締まる側であり、取り締まられる側ではないのですから。
琉球王の子孫とか、源頼朝の叔父で猛将として有名な「源為朝」の子孫とも言われているとか。
異母兄弟も含めて、愛加那には4人の兄弟がいたと言われています。愛加那は4番目で「次女」
西郷との結婚前の名前は
「於戸間金(おとまがね)」・・・「於(お)」は、女性の名前の前に付けられる尊称
「金」は、彼女の古称なので、正式なお名前は「とま」・・・大河ドラマ「西郷どん」では「とぅま」とされています。
西郷隆盛との結婚
1858年、西郷隆盛は「安政の大獄」により幕府に追われ、盟友「月照」とともに錦江湾へ入水
月照だけが亡くなり、生き残った西郷隆盛は、「菊池源吾」と名前を改めて「奄美大島」へ潜伏・・・。これは流罪ではなく潜伏なので、薩摩藩からお米の支給もありました。
ちなみに「菊池」とは、西郷家の出自である「菊池」一族のこと、「源吾」とは「吾(わ)が源(みなもと)」
つまり「菊地源吾」とは
「やり直せるなら吾が源である菊池からやり直す」
という意味で、生まれ変わることを示唆しています。
西郷隆盛は、当初、元妻「伊集院須賀」との離婚後、再婚にためらいを覚えていました。
その後、島一番の美女「愛千代」という人に一目惚れ。西郷さんは奄美大島に美女が多いことに驚いていたらしいですね。
しかし、「愛千代」は既に人妻であり、西郷はあえなく失恋。
このことから、西郷は「再婚にためらい」はあるものの、その気がないわけでもないことを知った島の人間から、再婚をすすめられます。
当時、奄美大島には「島妻」といって、本島から来た人物に女性を嫁がせ、その子供を本島に送るという例が多数あり、「島妻」は積極的に行われていました。
薩摩藩による厳しい取り立てに抗議してくれる「西郷」は、島民からの厚い信頼を得ていたので、ぜひ島の女性を妻に・・・と言われたのでしょう
そこで持ち上がったのが島一番の名家「龍」家の「とぅま」
当初西郷は、「とぅま」との結婚をためらいます。
しかし、島民から説得され、更には本人が島に骨を埋める覚悟をしたらしく、結婚を決意
1859年、西郷は「とぅま」と結婚。これを期にして「とぅま」は、「愛加那」と改名
ひと目も気にしないほどに、2人はイチャイチャしっぱなしだったとか。
そうかと思えば、今でいう「DV」もあったと言われています。西郷が愛加那の髪を掴んで、彼女を庭に投げ飛ばし、愛加那の兄「富堅」が抗議して西郷が謝る・・・なんて騒動もあったみたいです。
どうやら愛加那さん・・・かなり気が強い女性だったようですから、西郷さんとぶつかったのかもしれません。
子供の誕生と、西郷との別れ
1861年、長男「菊次郎」が誕生。
西郷家の出自である「菊」の字が名前につけられています。そして長男であるにもかかわらず「次郎」とつけられた理由は、いずれ西郷は正妻をもらうだろうから、正妻との間に男児が生まれた場合、その子を嫡男として扱うためでしょう。
ちなみに、菊次郎が産まれたのは、西郷隆盛が潜伏生活を余儀なくされた「安政の大獄」を行った大老「井伊直弼」が亡くなった、「桜田門外の変」の1年と1日後。西郷は「桜田門外の変」を、めちゃくちゃ喜んだと言われています。
西郷は奄美大島に新居を建設。
新居完成の祝をしていた翌日に、薩摩藩から「改名して帰還せよ」という帰還命令
1862年、「大島三右衛門」と改名して、薩摩へ・・・・・。ちなみに「大島三右衛門」とは、「奄美大島に来て三年」だからだそうです・・・。
この時、愛加那は妊娠中。娘「菊草」がお腹の中にいました。
西郷と別れた後
愛加那が西郷と別れて数カ月後、西郷は島津久光に対して「命令違反」を起こして流罪に・・。
愛加那がいる「奄美大島」の隣・・・徳之島へ流されてきます。隣とはいえ数十kmほどありますけどね。
西郷がいる徳之島へ、産まれた娘「菊草」をあわせに来た愛加那。
西郷はその直後、徳之島から遠く「沖永良部島」へと更に流されます。
この地で西郷は、後の西郷家の家宰「川口雪篷」と出会うのです。
1864年、西郷の流罪が解かれ、「村田新八」とともに帰還。
薩摩藩は、「生麦事件」を発端として起こった「薩英戦争」で窮地に立たされ、西郷というカリスマの力を必要としていたのです。
愛加那は、その後も「奄美大島」で菊次郎や菊草とともに暮らしています。
西郷は、薩摩に戻って1年弱が経過した時、「糸子」と再婚。このことを愛加那がどのように知ったかは不明です。
1868年、長男の菊次郎が、西郷と糸子に引き取られて鹿児島へ。
1875年、長女「菊草」もまた、西郷に引き取られて行きます。
1877年、西南戦争で西郷隆盛が亡くなります。
その後も愛加那は一人、奄美大島で生活していました。息子の菊次郎が1年ほど里帰りしたことがあったようですが、長女「菊草」から20年も音信不通となったこともあったと言われています。
娘の「菊草」は、大山巌の弟「大山誠之助」と結婚したのですが、夫の借金と暴力に苦しんだのです。
菊草は、愛加那が亡くなるまで里帰りせず、最期は兄・菊次郎を頼ってともに生活。
もしかしたら、苦労の多い生活をしていることで、母親に心配をかけたくなかったのかもしれません。
最期
1902年8月、愛加那は大雨にも関わらず畑仕事に出ます。暗くなっても帰ってこない愛加那・・・。
心配したご近所の方々が、夜中に探しに行くと、道端で倒れていました。
戸板で運ばれた愛加那でしたが、そのまま亡くなりました。
享年66歳
死因は「脳溢血」
後に「菊次郎」の息子「隆治」が愛加那の墓に立派な碑を建てています。
《西郷隆盛との離婚理由》
どうして西郷は、愛加那と離婚したのでしょうか?
そしてどうして、西郷は鹿児島へ愛加那を呼ばなかったのでしょうか?
実は当時、「島妻は本島に連れていけない」という法律があったのです。なぜかそんな法律があったかというと、おそらくですが「さとうきび栽培」の貴重な労働力を、島外へ移住させないため、でしょう。
たとえば、西郷の親友・大久保利通の父「大久保利世」も、「沖永良部島」で島妻をもっていましたが、本島に帰る際に別れています。
西郷隆盛は、愛加那との別れに際して、かなりためらっていました。
とはいえ、愛加那は、西郷がいつか帰ってしまうとわかっていたため、覚悟を決めていたようです。
夫が日本を動かす大人物だと、わかっていたのでしょう。
そして、西郷が本島に戻って1年足らずの後、西郷は「糸子」と再婚。
呼ぶに呼べない状況となったようですね。
《子供達とも引き離され、孤独な一生だった?》
愛加那は、奄美大島で約3年、西郷と共に過ごしています。
2人の子供に恵まれたと言っても、その後、子供達は二人とも西郷と糸子に引き取られています。
菊次郎はアメリカへ留学し、西南戦争で片足を失い、その後は台湾や京都市長として活躍。
娘の菊草は西郷隆盛の従弟「大山誠之助」に嫁ぎ、そのまま生涯一度も母に連絡なし。夫の暴力に苦労している姿を見せまいとしたのでしょう。
愛加那は数十年もの間、一人で奄美大島で暮らしています。
彼女は孤独だったのか?
結論から言えば、子供と別れて寂しかったとは思いますが、孤独ではないと思います。
なぜなら愛加那は、あくまでも奄美大島の名家出身。
4人の兄弟たちが側にいた上に、兄の子「丑熊(うしくま)」を養子としています。
奄美大島は広い島ですが、近所や親戚との関係が強いであろうことは容易に想像できます。
寂しかったとは思いますが、孤独ではなかったのではないでしょうか。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・愛加那は、西郷隆盛の「島妻」で、手に「魔除け」の刺青をしていた
・当時は「島妻を本島に連れていけない」という法律があったため、西郷は一緒に連れていけなかった
・愛加那は、夫や子供と離れて暮らし、寂しかっただろうが、親戚や養子がいたため孤独だったわけではないだろう。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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