皆さんは常陸・出羽の佐竹氏の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 佐竹氏の子孫は、2024年現在、秋田県知事をつとめておられる
- 佐竹氏の現在の当主は36代目で、養子ではあるが、鬼義重と恐れられた猛将・佐竹義重の女系子孫にあたられる
- 佐竹氏は、八幡太郎と呼ばれた源義家の弟・新羅三郎義満の息子から始まったとされる
かつて常陸国(茨城県)を支配し、鬼佐竹の名で知られた戦国大名・佐竹氏。
しかし関ヶ原の戦いを機に、その運命は大きく変わることとなります。
本記事では、常陸を追われた後の佐竹氏の歩みを紐解き、江戸時代から幕末維新、そして現代に至るまで続くその歴史を紹介いたします。
源氏の流れを汲む名門として栄華を誇った佐竹氏。
しかし、豊臣秀吉のもとで隆盛を極めた後、関ヶ原の戦いで徳川家康の不興を買い、常陸国を離れることを余儀なくされます。
出羽(秋田県)久保田藩へ移封された佐竹氏は、新たな土地で藩政改革を断行し、領内の繁栄に尽力します。
その後、幕末維新の動乱期においても、佐竹氏は独自の道を歩み、明治維新を迎えます。
現代においても、佐竹氏の血脈は受け継がれ、その歴史は語り継がれているのです。
本記事では、常陸国を去った後の佐竹氏の苦難と栄光、そして現代に至るまでの軌跡を、詳細な史料に基づきながら紹介いたします。
戦国大名から近世大名、そして現代へと続く佐竹氏の壮大な物語を、ぜひご堪能ください。
佐竹氏の子孫の現在とは?
平安時代から始まり、戦国時代に活躍した佐竹氏の子孫は、現在のところ、佐竹宗家36代目・佐竹孝さんが当主をつとめておられます。
さらに、2024年現在の秋田県知事も、佐竹氏の子孫です。
佐竹孝さんは、35代目・義栄さんの養子ではありますが、戦国時代に「鬼義重」と呼ばれて恐れられた18代目当主・佐竹義重の女系子孫にあたられるお方です。
佐竹孝さんには、佐竹基博さんというご子息がおられますので、おそらく37代目を継承されるのでしょう。
佐竹家の分家である佐竹北家と呼ばれる家の21代目当主・佐竹敬久さんは、2024年現在、秋田県の知事をつとめておられます。
佐竹敬久さんは、2001年から秋田市長を務められ、2009年からは秋田県知事を務めておられます。
この佐竹敬久さんは、江戸時代に鬼義重と呼ばれて恐れられた猛将・佐竹義重の子孫にあたるお方です。
佐竹氏の初代は、源義業という人物です。
八幡太郎と呼ばれた名将・源義家の弟である新羅三郎義満の息子である源義業(別名・佐竹義業)を、実質的な初代としています。
その子孫が、現在の36代目の佐竹孝さんや、秋田県知事の佐竹敬久さんというわけです。
余談ですが、この源義業の弟・源義清の子孫が、あの有名な武田信玄です。
また、源義業の父・源義家の子孫には、源頼朝、源義経、足利尊氏、新田義貞などの有名人が多数おられます。
さらに徳川家康も、源義家の子孫を自称していましたが、これはでまかせだという説が一般的です。
余談ですが、2021年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場し、俳優・佐藤浩市さん演じる「上総介広常」に対して
「お前、老けたなぁ」
と言った直後に豪快に斬られた武将・佐竹義政は、先ほどご紹介しました初代・佐竹義業の孫に当たります。
佐竹義政を演じた「平田広明」さんは、声優としても活躍しておられ、人気漫画「ワンピース」のサンジ役や、「パイレーツオブカリビアン」のジャック・スパロウの吹き替えで有名です。
佐竹氏は、戦国で滅びることなく、今現在も繁栄している
佐竹氏は、戦国時代や江戸時代に数多くの苦難に遭いながらも繁栄を続け、今現在も子孫の方をつなげて繁栄しておられます。
佐竹氏には、佐竹宗家の他に、江戸時代に別れた佐竹四家と呼ばれる分家があります。
分家は、東家、西家、南家、北家と呼ばれ、2024年現在の秋田県知事は、佐竹北家の出身です。
佐竹氏の血筋は、各地に分散しており、野馬追で有名な戦国大名・相馬氏にも、佐竹氏から養子が出されています。
現在の相馬家の当主さんは、佐竹氏からの養子の子孫なので、血筋でいえば佐竹氏の子孫というわけです。
また、18代目当主で、鬼義重と呼ばれた猛将・佐竹義重は、娘をお公家さんに嫁がせています。
高倉家というお公家さんに嫁いだその姫の子孫が、柳原という家に嫁いでいるのです。
その柳原家の子孫が明治天皇に嫁ぎ、大正天皇を出産しているのです。
そのため、現在の天皇陛下は、佐竹義重の子孫にあたられるということになります。
他にも余談ながら、現在の天皇陛下は、数多くの歴史上の偉人の子孫にあたられます。
→→→→→【浅井長政とお市の方の子孫】についてくわしくはこちら
関ヶ原の戦いのあと!常陸(茨城県)から出羽(秋田県)へ減封
佐竹氏は、1600年の関ヶ原の戦いで中立を保ち、徳川家康に味方しなかったため、先祖代々の地である54万石の常陸(茨城県)から、20万石の出羽(秋田県)へと、大幅に領地を減らされての国替えを命じられます。
戦国時代、鬼佐竹の名で恐れられた佐竹氏は、関ヶ原の戦いを機に大きな転機を迎えます。
鬼義重と呼ばれた猛将・佐竹義重の息子で当主だった佐竹義宣は、徳川家康による会津征伐に際し、上杉景勝と密約を結び、中立的な立場を取ります。
家康への恭順を主張する父・義重とは対照的に、義宣は独自の判断で行動。
関ヶ原の戦後、東軍勝利の知らせにも動かず、沈黙を貫きます。
実は佐竹義宣は、西軍の石田三成と、個人的にとても親しい関係だったのです。
家康にも三成にも味方しない義宣の態度を、家康は「律儀」と評したものの、減封および国替えを命じます。
国替え先は当初明示されず、後に北半分のみとなった出羽国へ。
これは、無傷の兵力を温存していた佐竹氏を遠ざける、家康の意図によるものでした。
大幅な減封を受けながらも、義宣は秋田の地で再起を図ります。
家臣を能力主義で登用し、人材育成に力を注ぎ、藩政を安定させます。
1614〜1615年、豊臣秀頼が亡くなり豊臣家が滅亡した大坂冬の陣と夏の陣では、佐竹義宣は徳川方として参戦し、大活躍を見せます。
義宣は、その実直な人柄も相まって、二代将軍・徳川秀忠から全幅の信頼を得るようになります。
後継ぎに恵まれなかった義宣は、秀忠の信任を得て、弟の息子つまり甥である岩城吉隆を養子に迎えます。
吉隆は、2代藩主・佐竹義隆として、佐竹家を継承します。
二代藩主・義隆の母の実家である相馬氏との縁戚関係もあり、佐竹氏は東北の有力大名として江戸時代を生き抜いていくのです。
佐竹氏の支配する秋田は、久保田藩と呼ばれるようになります。
→→→→→【改易・減封とは何かわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
江戸時代!有名な画家も輩出
江戸時代の佐竹氏からは、名君のみならず、なんと画家が誕生したといいます。
佐竹義隆の後を継いだのは息子の佐竹義処でした。
義処は、兄の佐竹義寘と弟の佐竹義長に土地を分け与え、佐竹家は、後に
- 久保田新田藩
- 岩崎藩
となり、久保田藩の後継者がいなかった時に助けになりました。
また、義処の次男は祖母の出身である相馬中村藩主の相馬家に養子に入りました。
久保田藩の財政は佐竹義処の時代から厳しくなり、彼は藩政改革に取り組む中で健康を害してしまいます。
その後、久保田藩は経済的な問題に直面し続けました。
佐竹義処の跡を継いだのは息子の佐竹義格です。
義格は、若くしてその才能を発揮しました。
彼は植林を奨励し、貧困対策にも取り組みました。
しかし、藩の財政は地震や火事などの出費がかさむ中で崩壊。
彼は若くして亡くなり、跡継ぎがいませんでした。
跡継ぎとして、支藩のひとつである岩崎藩出身の佐竹義峯が藩主に就任。
しかし佐竹義峯は、前代の倹約令を廃止し、贅沢を尽くしたため、藩の財政は破綻寸前になりました。
その後、久保田新田藩の佐竹義真、そして岩崎藩の佐竹義明が跡を継ぎました。
しかし、久保田藩は飢饉と財政政策による問題に直面し、政治的な抗争が起きました。
義明の息子である佐竹義敦は、藩政には関心を持たず、絵画に熱中。
義敦は西洋画法を学び、秋田蘭画というジャンルを築きました。
義敦は、あの平賀源内から絵の才能をみとめられ、藩士の小田野直武を、平賀源内のもとで学ばせます。
小野田直武は、有名な杉田玄白の解体新書の絵図作成を手伝うなどして西洋画法を身に付けたのでした。
小野田直武とともに、佐竹義敦は「画法綱領」という西洋の画法を論じる文書まで残しているほどです。
義敦の跡を継いだ佐竹義和は、久保田藩の再建に取り組みました。
義和は、藩校「明徳館」を創設し、殖産興業に力を入れ、文人大名としても活躍しましたが、41歳という若さで亡くなりました。
義和の息子の佐竹義厚が、久保田藩主を継承しています。
幕末!新政府軍に協力し、旧幕府軍と戦闘
佐竹氏は、幕末に新政府軍に味方して、旧幕府軍や奥羽越列藩同盟と戦うことになります。
佐竹家の歴史は、佐竹義厚の息子・佐竹義睦の時代に動乱の幕末をむかえています。
義睦の治世下で、ペリーの来航以来、日本中が混乱の渦に巻き込まれていた時期でした。
この混乱の中、ロシア船の接近が久保田藩にも外国船の脅威を直接感じさせました。
しかし、義睦は若くして亡くなり、跡を継いだのは久保田新田藩から養子入りした佐竹義堯です。
義堯は相馬益胤の子で、相馬家の直系子孫であるため、佐竹家の後継者となりました。
彼は若い頃から喘息の持病があり、藩医が彼のために龍角散を調合したという逸話が残っています。
久保田藩は国学者・平田篤胤などの影響を受け、他の東北の藩に比べて尊皇攘夷派が多かった地域でした。
→→→→→【尊皇攘夷をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
戊辰戦争が勃発すると久保田藩は、仙台藩などと共に、新政府に反抗する勢力を討伐するように命じられます。
義堯は新政府軍を追い払いたいと思っていましたが、若手の藩士たちは新政府軍との連携を選びました。
彼らは仙台藩の使者を殺害し、新政府軍の一員として名乗りを上げました。
こうして、久保田藩は新政府の拠点として東北で戦いましたが、庄内藩や盛岡藩などの藩から攻撃を受け、大きな損害を被りました。
その後、久保田藩は名前を秋田藩に変え、明治時代に廃藩置県によって、秋田県として新たなスタートを切ることになります。
余談かもしれませんが、廃藩置県は日本に存在していた藩という独立国を処分する大改革だったため、当時は日本全国で反乱が次々起こると恐れられていたといいます。
西郷隆盛も、反乱が起こることを覚悟していたといわれています。
→→→→→【廃藩置県をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
明治以降!爵位をさずかり華族となる
佐竹氏は、明治になると爵位をもらって華族になりましたが、その後爵位を失い、秋田県知事を輩出するなどして、現在でも人々に貢献しておられます。
佐竹義尭の後は、佐竹義脩が当初は跡を継ぎましたが、最終的には義堯の実子である佐竹義生が引き継ぎました。
義生は、貴族院議員として活動する傍ら、秋田育英会の総裁として人材育成に努め、田沢疏水事業にも関わるなど、秋田の発展に尽力しました。
跡を継いだのは義生の子であり、その後孫の佐竹義春、曾孫の佐竹義栄と続きます。
義栄の代には侯爵の地位を失いましたが、秋田県育英会理事長として地域に奉仕しました。
昭和期の佐竹家当主である佐竹義栄は、遺言により、久保田城跡の土地を秋田市に寄贈。
この土地は千秋公園として整備され、今なお市民の憩いの場として親しまれています。
義栄には実子がいましたが早世し、その後は妻の兄である大給松平家の大給義龍の子である佐竹孝氏が跡を継ぎました。
佐竹孝さんは、2024年現在の佐竹氏当主であり、養子ではあるものの、鬼義重と呼ばれた猛将で、18代目・佐竹義重の女系子孫です。
また、秋田県知事を務めている佐竹敬久氏は、佐竹家の一族ですが、久保田藩主家ではありません。
敬久氏は佐竹北家の出身で、江戸時代には秋田県仙北市角館の地を治めていました。
6代目・佐竹義躬から、佐竹北家は文化的な面でも優れており、義躬の時代には秋田蘭画の代表的な画家として知られました。
また、義躬の子である佐竹義文は、領内の名産品である樺細工を手がけ、周辺の藩主にも作品を贈った記録が残っています。
敬久氏もまた、秋田県知事として、かつての佐竹家の領地、秋田県のために尽くしています。
佐竹家は、常陸国を離れて秋田の地に根を張り、現在でもその地域に貢献し続けています。
また、佐竹氏は常陸を離れる際に、領内の美女を全員出羽へ連れて行ったといわれています。
そのため秋田には美人が多く、これが秋田美人の始まりとされています。
これも余談かもしれませんが、佐竹氏が親しくしていた石田三成は、関ヶ原の戦いののち処刑されています。
ところが、三成の子供たちは全員命を救われて、秋田のとなりに位置する津軽藩で、今も子孫が続いています。
→→→→→【石田三成の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 佐竹氏の子孫は、2024年現在、秋田県知事をつとめておられる
- 佐竹氏の現在の当主は36代目で、養子ではあるが、鬼義重と恐れられた猛将・佐竹義重の女系子孫にあたられる
- 佐竹氏は、八幡太郎と呼ばれた源義家の弟・新羅三郎義満の息子から始まったとされる
以上となります。
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