明治維新の偉人「大久保利通」
何をした人なのか?分かりやすく解説!
どうして暗殺されたのか?理由も解説!
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この記事を短く言うと
・大久保利通は、西郷隆盛・木戸孝允とならぶ「維新三傑」の一人で、明治維新の功労者
・討幕を実現し、その後は「廃藩置県」「廃刀令」など、数々の改革で近代国家の礎を築いた大久保だったが、盟友「西郷隆盛」を「西南戦争」で死なせたことで、地元の鹿児島で大久保は非常に不人気
・士族反乱を鎮圧したことで、暗殺を狙った不平士族(元サムライ)に暗殺された
≪大久保利通って誰?≫
大久保利通
明治維新を成し遂げた偉人「大久保利通」
薩摩藩の「西郷隆盛」、長州藩の「木戸孝允(桂小五郎)」と並ぶ「維新三傑」の一人
薩摩藩の下級武士の家に生まれ、西郷隆盛達とともに幼い頃から一緒に学んだ・・と言われています。
薩摩藩の名君「島津斉彬」から見出され、その弟「島津久光」に重用され、後に「討幕」「王政復古」「開国」など「明治維新」に向けて行動。
明治維新がなった後は、「富国強兵」というスローガンを掲げ、日本を近代国家にするために、数々の政策を実施。
また、「西南戦争」などに代表される「士族反乱」の鎮圧に貢献。
最期は「紀尾井坂の変」と呼ばれる襲撃事件で暗殺されてしまいました。
「島津斉彬」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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≪功績と功罪!嫌われる理由とは?≫
大久保利通の功績
大久保利通とは、具体的に何をした人だったのか?
大久保は、明治維新前は「討幕」・・つまり徳川幕府を倒すために動いていました。
「西郷隆盛」「小松帯刀」などの薩摩の偉人たちと協力して「討幕の勅許」という命令を、朝廷から引き出すことに成功。
この「討幕」を回避するため、15代将軍「徳川慶喜」は「大政奉還」し、「討幕」の大義名分を失わせます。
「大政奉還」に対抗し、大久保利通はさらに「王政復古のクーデター」を実行し、幕府を事実上廃止。
戊辰戦争、箱館戦争で、新政府軍が勝利し、明治維新がなった後は、日本を近代国家にするために数々の政策を実行
「版籍奉還」「廃藩置県」「岩倉具視使節団での外遊」「士族反乱鎮圧」「地租改正」「徴兵令」などなど。
つまり、大久保利通がやったことを一言で言ってしまうと、こうなります。
「明治日本の基礎となる改革・法整備を整えた」
西郷隆盛は、主に「破壊」を得意としました。「戊辰戦争」などの有事で、西郷はその能力を遺憾なく発揮。「薩長同盟」「王政復古の大号令」「辞官納地」「鳥羽伏見の戦い」「江戸城無血開城」などなど、次々に手をうち、ついには「徳川家康」が開き、264年も続いた江戸幕府を崩壊に至らしめます。
しかし新しい国家の基礎を作る「法整備」となると「大久保」のほうが圧倒的に優秀。
大久保は、明治新政府の実質的な「首相」となり、その改革を手動。つまり「西郷隆盛」を「武将」とするならば、大久保利通は「官僚」と言っていいと思います。
大久保利通が「岩倉使節団」とともに、2年ほど欧米諸国を視察していた間、西郷が「留守政府」を預かって数々の改革を断交しています。しかしこれはあくまでも、もう一人の官僚「江藤新平」が実務を行っていたから出来たこと。
ちなみに、ともに官僚タイプの「大久保利通」と「江藤新平」は非常に仲が悪く、大久保の仕掛けた罠により、最終的に「佐賀の乱」で江藤新平は処刑。
名君「松平春嶽」は大久保利通について賞賛し、こう言ったとのことです。
知勇は大久保
知仁は木戸
勇は西郷
「勇」は「西郷隆盛」・・・しかし「知」において「西郷」は、「大久保利通」と「木戸孝允(桂小五郎)」には及ばなかったのです。
嫌われている理由
「大久保利通」はなぜか、地元の薩摩・鹿児島から非常に嫌われていることで有名です。
なぜなら、理由は簡単で「西郷隆盛を死なせた」から。
西郷が西南戦争を起こしたと聞き、驚愕。
大久保は西郷を説得しようとしますが、九州に行くことを周囲から反対され断念。
西南戦争の鎮圧軍に、後方から続々と補給が届けられたのは、大久保利通の指揮によるもの。
これにより、西郷隆盛は敗北し、自刃。
西郷の死を聞いた大久保は号泣し、家の中を歩き回り、ブツブツと嘆いたとのこと・・・。
「あなたの死とともに、強い日本が生まれる」
とブツブツ言い続けていたのです。
これが原因で、最近まで、薩摩・鹿児島への大久保利通の納骨は、避けられていたほどです。
西郷が大きすぎたために、大久保は損をしたのかもしれません。
≪暗殺された理由は何?≫
暗殺された原因は何だったのでしょうか?
士族が明治政府に対して、強い反感を抱いていたことは、当時の世論からも明らかです。
「廃刀令」などで武士の特権を剥奪されて、西郷隆盛は士族を率いて「西南戦争」が勃発。
この、士族反乱を鎮圧したのが、大久保利通。
「萩の乱」や「秋月の乱」などの士族反乱を、次々と鎮圧していき、西南戦争を最期に「明治政府に武力で逆らっても無駄」と、国内は知ることとなるのです。
反乱は無理と悟った「不平士族」は、「反乱」ではなく「要人暗殺」を計画。
「私腹を肥やしている」という理由で、1878年(明治11年)5月14日、現在の「東京都千代田区紀尾井町清水谷」で、6人の士族による襲撃を受けて、大久保利通は暗殺されました。
大久保は、士族反乱を鎮圧したことで、士族から睨まれていたのです。
この事件後、「私腹を肥やしている」を言われた大久保利通の資産状況が明らかになりましたが、借金まみれで、私腹を肥やしているどころか、私財を投じて国家へ尽くしていたことが判明。
しかもその懐には、親友・西郷隆盛からの手紙が2通、しまわれていたとか。
常に、西郷隆盛からの手紙を肌身離さず持っていたことから、西郷の死を悲しんでいたことが、うかがえます。
「西郷隆盛の最期」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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「西郷隆盛の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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≪まとめ≫
本日の記事をまとめますと
・大久保利通とは、「維新三傑」の一人で、明治維新を成し遂げた偉人
・西郷隆盛を西南戦争で死なせたことで、嫌われている部分がある
・暗殺の理由は、士族による不満の爆発。しかし、私腹を肥やしているという事実はなかった
以上となります。
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ありがとうございました
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