西郷隆盛の「素顔」と「写真」について解説いたします。そして最近発見されたと話題になっている「西郷の写真」と、面識のある人物が書いた肖像画も、ご覧いただきます。
なぜ「西郷」さんの写真がないのか?実は西郷さんは写真嫌いだった。
鹿児島の銅像をみれば、お顔が簡単に確認できる
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この記事を短く言うと
・西郷隆盛の写真が発見された・・・と言われているが、本当に西郷隆盛かどうかは不明
・西郷隆盛の顔を確認する方法は、「上野西郷像」や「鹿児島市立美術館の西郷像」
・上野西郷像に対して、妻「西郷糸子」が「ウチの人はこんな人じゃない」と叫び、しかも写真が現存していなかったため、顔が不明となった
《西郷隆盛の顔写真はどこにある?》
維新の英雄「西郷隆盛」
上の写真は、西郷隆盛本人を撮影したものではなく、西郷の弟「西郷従道」と、従弟「大山巌」の顔を参考にして、西郷隆盛と面識のないイタリアの画家「キヨッソーネ」という画家が書いたもの。
本人のお顔は、平成の今も謎に包まれている・・・と言われています
そんな西郷隆盛の写真が、近年見つかったという噂が一部でされています
どういうことなのか?
「フルベッキ群像写真」という代物をご存知でしょうか?
幕末の英雄が勢揃いしたと噂されている写真ですが、そこに「西郷隆盛」が写っている!と騒がれているのです。
大きな矢印がつけられているのが「西郷隆盛」・・・。
一説には、この中に「明治天皇」まで写っていると言われている代物です。
そして、この写真に写っている「西郷隆盛」と瓜二つな人間が写っている写真が、「福島県いわき市」の、とある図書館から見つかったのです。
その図書館が解体される際に、「日本歴史写真帳」なるものが見つかりました。
その中に「島津久光」の息子・薩摩藩12代藩主「島津忠義」と、それを取り囲む薩摩武士たちが写っているのですが、その一人が「西郷隆盛」だと・・・。
以下に、その写真のリンクを張っておきました。
一番右の高身長の人物が「西郷隆盛」と言われているようです。ちなみに真ん中に座っている人が「島津忠義」だと考えられます。
さて・・・・この写真に写っている高身長の人物は、本当に西郷隆盛なのでしょうか?
実は、上に掲載いたしました「フルベッキ群像写真」ですが、最近の研究では「維新の英雄勢揃い」なんかしていないということがわかっています。
この写真が撮影されたのは「明治元年」。明治維新以前に亡くなっていた「坂本龍馬」が写っているはずがないです。そして、西郷隆盛も写っている可能性も低いのだとか・・・。
福島県で発見された写真に写る高身長の男性・・・確かに「フルベッキ群像写真」に写っている「西郷隆盛」と言われている人間と顔が似ていますが、そもそも「フルベッキ群像写真」に写っている男性が「西郷隆盛」でないなら、新発見の写真も、西郷隆盛のものではないでしょう。
ただ、「フルベッキ群像写真」の西郷隆盛とされる男性・・・・よく見ると「杖」をついていることがわかります。
西郷隆盛は、「禁門の変」において「足」を負傷しているのです。もしもこの「フルベッキ群像写真」が「禁門の変」前後に撮影されたものなら、この写真の男性が「西郷さん」である可能性も出てくると思うのですが・・・。やはりこの男性だ西郷さんである可能性は低いと思います。
西郷隆盛の顔を知っている人が書いた肖像画が話題になったこともありました。
しかし、実は西郷隆盛と面識がある画家が書いた肖像画はたくさん実在していますので、それほど驚くべきことではないのだとか。
先日あるテレビ番組で「西郷と面識がある人間が書いた肖像画」として話題になったものの写真のリンクを張っておきます。
それよりも実は、西郷隆盛の顔を手軽に確認する方法があった・・・といわれているようですので、そちらをご紹介いたします。
《西郷の本当の顔を確認する方法とは?》
西郷隆盛の顔を確認する方法。
それは「上野」にある「西郷隆盛像」のお顔をみること。
うわさでは、この西郷像のお顔が、本人とは違っている!と言われているようですが、そんな事はありません。
どうして「銅像の顔が西郷本人とは異なっている」なんて言われているのか。
それは「西郷隆盛」の妻「糸子」が、完成した銅像を見て
「うちの主人はこんな人じゃなかったですよ」
と叫んだから・・・。
しかし、上野西郷像が完成したのは「1898年」・・・西郷隆盛が亡くなったのが「1877年」ですので、「21年」後につくられたのです。
西郷と面識がある沢山の人が、この銅像を見ているはずですが、クレームがついた・・・という話はありません。西郷従道・吉井友実などなど・・。
糸子さんが「うちの人はこんな人じゃなかった」と叫んだのは「顔が似ていない」という意味ではなく「西郷隆盛は着流しで人前に出るような人ではなかった」という意味だったようですね。
西郷と糸子の孫の「吉之助」さんが、祖母「糸子」さんが語っていた内容を、後に証言しています
「祖母は最期まで、上野の西郷像が気に入らなかったようですね。
『おじいさまは、とても礼儀正しいお人で、相手がどんな身分の人であっても、決しておごり高ぶったようなことをなさることはなかった。
いつも鄭重な言葉遣いでした。
ましてや、あんな無様な姿で人様の前に出るなんてことは、絶対にありませんでした』
と、折に触れて我々に言っていたものですよ」
どうやら「糸子」さんの言葉は、「顔が似ていない」という意味ではなく、「服装がだらしない」という意味だったようですね。
糸子さんはキヨッソーネの肖像画も気に入らなかったようで、孫に対して
「お祖父様(隆盛)は確かに目が大きな方でしたけど、とても慈愛に満ちた眼差しをしておられた」
と言っていたみたいです。確かにキヨッソーネの西郷は、目元が怖いですからね。
英国の通訳「アーネスト・サトウ」も、西郷の目を
「黒ダイヤのようだ」
と証言していました。目が印象的な方だったのでしょうね。
以上の証言から考えてみると、上野の西郷像・・・本人と顔が異なっているわけではない、と考えられます。
《西郷の顔が「謎」となった理由》
どうして「西郷隆盛」の「顔」は、長い間「謎」とされてきたのでしょうか?
その理由は2つあります。
1つ目が「糸子」さんの「うちの主人は、こんな人じゃなかった」という上野西郷像に対する発言。
そしてもう一つが「西郷隆盛」が写真嫌いだったこと。
西郷隆盛は、写真がとても嫌いだったと言われています。
盟友「大久保利通」は写真が大好きで、自分の写真を西郷隆盛に向けて送っていたとのことですが、西郷はそれに対してお説教のお手紙を送っているのです。
「武士たるものが写真を撮影するなんて・・・。
決して美男子とも言えないし、みっともないから、もうおやめなさい」
まるでお兄さんがヤンチャな弟に対して、軽くいましめるような文句ですね。西郷はこんなことを、大久保利通に送ったのです。
大久保利通は、1878年に「紀尾井坂の変」で暗殺されましたが、その時大久保利通の懐には、この「西郷から写真をいましめる手紙」が入っていたとのこと。
大久保は1877年、西南戦争で政府軍を京都から指揮して、西郷を死に追いやった人物。
西郷を想い、常に手紙を持ち歩いていたのでしょう。この血染めの手紙は、西郷隆盛の従弟「大山巌」に渡ったと言われています。
西郷が写真嫌いだった・・・上に貼り付けた「フルベッキ群像写真」も、西郷の写真である可能性は低いと思います。
鹿児島市立美術館にも西郷隆盛像がありますが、噂ではそれが最も西郷隆盛に似ている・・なんて言われているようです。
コチラは上野西郷像と違って軍服姿ですね。
妻・糸子さんも、この作品には満足していました。
この銅像こそが、西郷隆盛の生前のお顔を現代に伝えるものと考えていいと思います。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・西郷隆盛の写真が発見された・・・という噂がある。
・西郷隆盛の顔・・・上野西郷像が似ていないというわけではない
・鹿児島市立美術館の西郷隆盛像が、本人にとても良く似ていると噂されている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
ちなみに「フルベッキ群像写真の真実」について、考察・調査してみました。
それについてよろしければ、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
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