「国軍の父」と呼ばれた、元内閣総理大臣「山県有朋(やまがたありとも)」。
「山県の子孫」と、「松下村塾で劣等生だった」説について、わかりやすく解説いたします。
「子孫はサハリン沖で遭難したが、今も続いている」
「高杉晋作からボロクソに言われるほど劣等生だった」
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この記事を短く言うと
・山県有朋は高杉晋作がつくった「奇兵隊」に参加し、「功山寺挙兵」にも参加。明治政府では、近代的な陸軍を作り上げるなどの功績を残した
・山県の子供は若くして次々と亡くなっているが、養子をとって「山県」の姓を名乗る子孫は残っている
山県有朋とは?その功績を簡単に解説
山県有朋
内閣総理大臣を2回務めた人物。
軍創設に力を発揮し、「国軍の父」と呼ばれた
松下村塾の中では、劣等生だったと言われているようですが・・・・本当なのでしょうか?
山県有朋の功績
山県有朋の功績を短く言うと、こんな感じになります。
・高杉晋作が創設した「奇兵隊」に参加し、高杉晋作や赤禰武人のあとを継いで、実質的な責任者となった
・高杉晋作の「功山寺挙兵」に駆けつけ、参加した
・西郷隆盛の後ろ盾で、「徴兵制」を導入(徴兵制に反対した同門「前原一誠」は「萩の乱」で刑死)
・内閣総理大臣のほか、大臣を歴任
・明治政府では、陸軍の基礎を作り上げ「国軍の父」と呼ばれるようになります。
・参謀総長として「日露戦争」勝利に貢献
これだけの能力を発揮している「山県有朋」ですが、どうやら松下村塾では、劣等生と言われていたようです。
更に・・・・「自由民権運動」を弾圧したことから、国民からの人気は相当に低かったのだとか・・・。
山県有朋の葬儀は、かなり寂しいものだったと言われています。
自由民権運動を弾圧
山県有朋は、「自由民権運動」を弾圧したことで有名です。
そのため、国民からの人気は相当に低かったのです。
山県有朋は1922年2月に亡くなっています。。
その葬儀は、国民参列者の乏しい、数百人だけの、元総理大臣の葬儀にしてはかなり寂しいものでした。
1922年1月には、同じく元総理大臣で早稲田大学創立者「大隈重信」の葬儀も行われていましたが、この時の参列者は「30万人」以上
新聞記者だった「石橋湛山」は、「死もまた社会奉仕」などと、山県有朋が亡くなったことをまるで「喜ぶべきこと」であるかのように言っています。
とはいえ、当時の自由民権運動は、国状を無視したものであったことも確かです。
日露戦争においては、最前線の「奉天」で既に弾薬などの物資が尽きており、それを隠して小村寿太郎はロシアと講和交渉を行っていました。
にもかかわらず自由民権運動の方々は、ロシア首都「サンクトペテルブルク」への進軍を政府に要求しているのです。
賠償金が取れず、小村寿太郎の自宅を焼き討ちするなど・・・結構「やんちゃ」やっていましたよね。
まぁ・・・・この時代だったら仕方ないことなのかもしれませんけど・・・
子孫は今現在、どこにいる?
山県有朋の子孫は、今どこにいるのでしょうか?
調査してみたところ、「直系で血の繋がった子孫」は、見つかりませんでした。
とはいえ、養子を迎え、現在も「山県」の姓を名乗っておられる方は発見しました。
山県有朋は、妻「友子」との間に7人の子供を儲けました。しかし、娘「松子」を除いて、全員が若くして亡くなっています。
そのため、山県は姉の息子「伊三郎」を養子にして、山県の苗字を伝えているのです。
この「伊三郎」の子孫が現在「山県有成」さん。
山県有朋の子孫が遭難!
「山県有成」さんの父「有徳」さんは、以前、飛行機で「遭難」し、ニュースになったお方です。
2001年7月8日、サハリンの東の沖・・・オホーツク海で小型機が消息不明になりました。
4名の乗組員の一人が「山県有徳」さん。
この乗組員は、翌日全員が救助されました。
山県有徳さんは、かつて日本航空の社員でしたので、この関係で飛行機が身近にある生活をなさっておられるのでしょう。
余談になりますが、山県有朋は戦国武将「武田信玄」の家臣で「武田四名臣」の一人「山県昌景」の子孫・・・・言われていますが、最新の研究では、関係ないと言われているようです。
松下村塾では、伊藤博文と並んで、メチャクチャ劣等生?
後世に名を残す偉人「山県有朋」
吉田松陰が教えている「松下村塾」の門下生として有名ですが、実は相当な「劣等生」だったことでも有名です。
山県有朋には、「松下村塾・三秀」と呼ばれた「高杉晋作」や「吉田稔麿(よしだとしまろ)」から、「能力が低い」ことをからかわれたエピソードがあります。
高杉晋作・・山県を「クソミソ」に言う
松下村塾に通っていた時、山県有朋は「高杉晋作」に対して、「自分」が「吉田稔麿」に比べて、どれくらい能力が劣っているのかを質問したことがありました。
すると、高杉晋作は笑って応えます。
「比べ物にならん。
吉田稔麿が座敷に座っているとしたら、お前は玄関番にもなれん。
味噌も糞も一緒にするとは、まさにこのことよ」
かなりの言い草ですが、山県有朋も後に総理大臣になっていますからね。
松下村塾の門下生「品川弥二郎」は、稔麿について
「生きていたら総理大臣になっていた」
という程の秀才でした。
山県有朋も、負けないほど成長したということではないでしょうか。
吉田稔麿・・山県を「棒切れ」呼ばわり
ある日、吉田稔麿が熱心に「絵」を書いていました。
そこには4つの代物が描かれていたのです。
- 「暴れ牛」
- 「烏帽子」
- 「木刀」
- 「棒切れ」
山県有朋が、これは何かと尋ねると吉田稔麿は応えました。
「暴れ牛は『高杉晋作』
俊才であり、一度野に放たれると誰も止められん。
烏帽子は『久坂玄瑞』
立派な雰囲気を身にまとっているので、屋敷の広間に座らせたら絵になるだろう
木刀は『入江九一(いりえ くいち)』
切れぬが、脅しには使える」
山県有朋は、「棒切れは誰か?」と尋ねると吉田稔麿は
「それはお前だ。
凡庸なだけで、何のとりえもない」
- 久坂玄瑞
- 高杉晋作
- 吉田稔麿
- 入江九一
「松下村塾」の「四天王」と呼ばれた秀才たち・・・。
彼らに比べたら山県有朋ですらも、かすんでしまうのかもしれません。
まぁ・・・・四天王は全員、師匠「吉田松陰」と同じく早死しているので、山県有朋くらいがちょうどよかったのかもしれませんね。
伊藤博文も劣等生だった
松下村塾においては、初代内閣総理大臣「伊藤博文」もまた劣等生でした。
師である吉田松陰は、伊藤博文について、こんなことを言っています
「才劣り、学幼し。
しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」
つまりこういうことでしょう
「才能は乏しいし、学識は幼い。
でもとても素直で、私は彼をとても買っています」
・・・・。
まるで、出来ない子を励ます優しい先生の言葉を耳にしているようです。
松陰は、伊藤博文に対してこんな言葉も残しています。
「彼には政治の才あり」
確かに伊藤博文は、政治家としてたくさんの功績を残しています。
吉田松陰の予言はあたったと言っていいでしょう。
それとも、松陰の励ましの言葉のおかげで、伊藤博文は総理大臣になれたのかもしれません
昭和天皇は「名将」として評価していた
昭和天皇は、皇太子に対して、名将の一人として「山県有朋」の名前をあげています。
「明治天皇の時には、山県有朋・大山巌・山本権兵衛たちのような『陸海軍の名将』がいたが、今度のときには、あたかも第一次世界大戦のドイツのごとく、軍人が跋扈(ばっこ)して対局を考えず、進むを知って、退くを知らなかった」
大山巌は日露戦争で「東郷平八郎」とともに勝利に貢献した「西郷隆盛の従兄弟」
山県有朋は、それに並ぶ逸材と、昭和天皇は考えておられたのでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・山県有朋は、松下村塾・奇兵隊に参加し、後に戊辰戦争や西南戦争で活躍し、日露戦争勝利にも貢献した
・山県有朋・・・現在の子孫は「山県有成」さん
・松下村塾において、山県有朋は「劣等生」あつかいだったが、昭和天皇は名将と評価していたし、内閣総理大臣にもなっている
以上となります。
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