西郷隆盛の最後の様子は壮絶!『最期の地』と『死に際の言葉』に絶句

倒幕、明治維新などでの活躍を知られる西郷隆盛。

しかし、明治政府に不満を持った不平士族に推され、盟主として西南戦争を起こし、逆賊の烙印を押されてしまいます。

今回は、明治政府の敵となってしまった西郷隆盛の最期の地と最期の言葉について語っていきたいと思います。


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この記事を短く言うと

・西郷隆盛は、別府晋介の介錯で亡くなった。

・最期は、鹿児島の城山で亡くなったが、今は史跡となっている。

・西郷の最期の言葉には「西南戦争を最期の内乱にしよう」という意志があったのではないか?


西郷隆盛の最期の様子

まず、西南戦争のきっかけについて軽く触れておきたいと思います。

西郷隆盛は、1874年に(明治7年)士族達の統率と、県内の若者を教育するため、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設しました。

近代化を進める明治政府は、1876年(明治9年)に廃刀令、秩禄処分(ちつろくしょぶん)のふたつを発布しました。

秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞与を合わせた呼称です。

このふたつは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせました。

これらが原因となり、私学校に通う士族達が明治政府に対し反抗するようになりました。

そして、西南戦争終期、転戦を続けて西郷隆盛達が最後に行き着いたのは鹿児島城山(しろやま)という場所です。

西郷は桐野利秋(としあき)、別府晋介(べっぷ しんすけ)、村田新八、池上四朗らとともに、城山の洞窟に立て籠もります。

1877年(明治10年)9月24日、西郷率いる薩軍が立て籠もった鹿児島城山に向け、政府軍は総攻撃を始め、集中砲火を浴びせました。

戦争に負けることは誰の目にも明らかであり、西郷と薩軍将兵たちは、潔く前へ進んで死のうと決意を固め、城山を下山し始めました。

政府軍が放った流れ弾が、西郷の肩と太股に当たり、西郷はその場に膝を落としました。

西郷は近くにいた薩軍の幹部のひとりである別府晋介に向かって言いました。

「晋どん、もうここいらでよか……」

西郷は膝まづいて襟を正し、遙かに東方を拝礼し、切腹の用意を整えました。

別府は西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き

「ごめんやったもんせー(お許しください)」

と叫び、西郷の首を斬り落としました。

その後、別府もその場で切腹して亡くなっています。

更にその後、最期の戦いに出撃した盟友「村田新八」らも戦死しています。


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最期の地はどこ?

西郷が別府達と立て籠もった鹿児島城山は鹿児島市中央部にある丘陵です。

前述の通り西南戦争最後の激戦地であり、国の史跡および天然記念物に指定されています。

今そこは、錦江湾(きんこうわん)から美しい桜島をのぞむことができる観光地となっています。

上野公園の西郷像と対をなす西郷像が立っています。

この像は、西郷夫人のが「もっとも自分の主人の生前の姿に近い」という感想を述べたことでも有名です。

またこの地は、江戸時代初期に島津氏の本拠地・鹿児島城が築かれた場所でもあります。

西郷が慕っていた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の祖先に関わる地で、彼が最期を迎えたのも運命的なものがあると思います。


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最期の言葉に込められた意味

「晋どん、もうここいらでよか……」

もうここいらで天にゆだねるよ、と言っているようにも思える、この言葉の意味は何なのでしょうか。

西郷が西南戦争に乗り気でなく、内乱に意味がないことを誰よりも知っていたと言われています。

彼は天皇や政府に牙を剥くつもりはありませんでしたが、それでも薩摩の不平士族達の不満のはけ口としてその身を捧げました。

薩軍の倍以上の兵力を持つ政府軍に負けることは明らかで、負けるとわかっていた、死を決していたと思います。

西南戦争を、最期の士族反乱にしよう」という意志があったのでしょう。

実際に西南戦争は、平成の現在においても日本最期の内乱となっています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

✳︎西郷隆盛は西南戦争に負けることを覚悟し、別府晋介の介錯で亡くなった。

✳︎西郷隆盛の最後の地は、鹿児島城山は鹿児島市中央部にある丘陵で、現在国の史跡および天然記念物に指定されている。

✳︎西郷隆盛の最期の言葉には、「西南戦争を、最期の士族反乱にしよう」という意志があった。

明治の日本を創った人物のひとりである西郷隆盛。

数々の功績があるものの、最期は明治政府の敵として亡くなってしまいました。

西南戦争という内乱には意味がないことを知っていた彼の死を無駄にしないためにも、日本は今後内乱を含む戦争を起こさない国であってほしいと思います。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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コメント

  1. atom0305 より:

    西郷隆盛の最後の言葉「晋どん、晋どん、もうここいらでよか」は有名ですが疑問が一つだけあります。
    この最後の言葉はいったい誰が聞いていて、誰が後に伝えたのでしょうか?
    晋どんと呼ばれた別府晋介は西郷の後を追うように切腹していますし、その他の幹部も切腹をしたり、討って出て戦死と伝わっています。
    誰かが生き残って伝えたのでしょうか?

    • rekishiru より:

      貴重なコメントをいただきましてありがとうございます。
      質問にお答えいたします。
      実は、西南戦争には生き残りが複数います。
      西郷隆盛を介錯した「別府晋介」の兄「別府九郎」や「佐藤三二」、「神宮司助左衛門」「野村忍介」「坂田諸潔」など、複数名が西郷隆盛の最期を見届けた後に政府軍へ投降しています。
      誰がどのように、西郷隆盛の最期の言葉を伝えたのかは定かではありません。
      一説によると、西郷隆盛は「切腹するつもりはなかったが、立派な最期を遂げるべきである、と周囲から推されて殺害された」なんていう話もあります。
      有名な「最後の言葉」ももしかしたら、後世の創作かもしれません。
      西郷は何も言っていない可能性すらあります。
      有名な「板垣退助」の言葉「板垣死すとも自由は死せず」という名言も後世の創作で、本当は「痛ぇから医者呼べ!」と叫んだらしいですからね。
      真実はタイムスリップでもしない限りわからないのでしょう。しかし、後世まで語り継がれたこの言葉が、最も可能性が高いのではないでしょうか。
      あいまいな答えで恐れ入ります。コメントを頂きまして、誠にありがとうございました。