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西郷隆盛の最後の様子は壮絶!『最期の地』と『死に際の言葉』に絶句

明治政府の敵となってしまった「西郷隆盛の最期の地」と「最期の言葉」について、わかりやすく解説したいと思います。

倒幕、明治維新などでの活躍を知られる英雄「西郷隆盛」。

しかし、明治政府に不満を持った不平士族(不満を持つ元サムライ)におされ、盟主として西南戦争を起こし、「逆賊の烙印」を押されてしまいます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・西郷隆盛は、別府晋介の介錯(首切り)で亡くなった。

・最期は、鹿児島の城山で亡くなった。今は史跡となっている。

・西郷の最期の言葉「もう、ここいらでよか」には「西南戦争を最期の内乱にしよう」という秘めた想いがあったのではないか?


西郷隆盛の最期の様子

「西南戦争」勃発の理由

まず、西南戦争のきっかけについて、軽く触れておきたいと思います。

西郷には、戦争を起こすつもりなどありませんでした。

1874年(明治7年),西郷隆盛は不満を募らせる士族(元サムライ)達の統率と、県内の若者を教育するため、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設。その目的は「戦争を起こすこと」どころか、むしろ「戦争をさせない」ことにあったのです。

1876年(明治9年)、近代化を進める明治政府は、「廃刀令」「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」のふたつを発布しました。

秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と、維新功労者に対して付与された褒美を合わせた呼び名です。

このふたつは「帯刀」「俸禄の支給」という元武士たちの最後の特権を奪う法律でした。そのため、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせることとなります。

これらが原因となり、私学校に通う士族達が明治政府に対し反抗するようになるのです。

私学校には続々と士族が集まります。大久保利通は「私学校党」を警戒。

薩摩藩に保管されていた「武器弾薬」を他の場所へ移動させる命令を「山縣有朋」「大山巌」にくだし、さらに薩摩出身の警察官たちをスパイとして私学校へ送り込みます。

弾薬の移動にきた政府軍を、私学校党は襲撃。スパイの存在に気づいた私学校党は、そのスパイを拷問。

スパイは潜入したその目的について「西郷をシサツすること」と自白。「視察」を「刺殺」と勘違いした私学校党は激怒。

1,明治政府に「廃刀令」などで、特権を次々奪われた
2,武器弾薬を勝手に移動しようとした政府を襲撃
3,「西郷暗殺の命令」に激怒

この3つが「西南戦争」勃発の原因となってしまうのです。



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「西南戦争」開戦~熊本城の戦い。

1877年明治10年1月、政府との行き違いで私学校生徒が暴発。2月15日13000人の兵士が、半世紀ぶりの大雪のなか、東京に向けて進軍。

日本では変革の時に、雪が降るのだとか。「桜田門外の変」で「井伊直弼」が亡くなったときも「大雪」でした。

熊本城の戦いで、難攻不落の名城「熊本城」を落城させられず、かといって船舶も3隻しかなかったため、陸路を行くしかなかったため、薩摩軍は進退窮まります。

戊辰戦争で凄まじい戦果を残し、無敵と考えられていた薩摩軍は、政府軍の拠点だった熊本城を攻撃。

しかし熊本城は、薩摩軍の襲来を予想していた元土佐藩士「谷干城(たにたてき)」により、近代的な戦いを想定した要塞へと作り変えられていたのです。

挙句の果てには、政府軍は「天守閣」へ自ら放火。理由は「戦いの邪魔になる」から。

戊辰戦争で活躍した歴戦の猛者「谷干城」は、政府の援軍を加えた4000名の軍と、数々の補給物資により、薩摩軍の攻撃に頑強に抵抗。

ついに政府軍の援軍が到着するまで、熊本城を守りきります。



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「田原坂の戦い」

「田原坂(たばるざか)の戦い」は、壮絶極まりない戦いでした。

薩摩軍が熊本城攻略戦に苦戦している間に、政府軍の援軍が、熊本城へ近づいていました。

それに対して、薩摩軍は「田原坂(たばるざか)」で迎撃。

政府の援軍が絶対に通らなくてはいけないルート「田原坂」に強力な「防衛ライン」を構築した薩摩軍は、ついに政府軍と激突。

「かちあい弾」と呼ばれる、「空中で弾丸同士がぶつかったもの」が発見されるほど壮絶な激戦を繰り広げた後、薩摩軍は敗北。

熊本城を攻め落とすこともできず、宮崎方面へと徹底していくのです。

 

田原坂の戦い」について、詳しく解説させていただきます。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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最期の戦い「城山決戦」への経緯

1877年8月15日、延岡北方の和田越(わだごえ)における決戦で、薩摩軍は大敗。

1877年8月16日、西郷隆盛は「薩摩軍」に解散を命令。それでも最期まで西郷隆盛とともに戦いたいと希望したものは「372名」。

この時すでに、西郷の本拠地「薩摩」は、海路から進んできた「政府軍」に占領されていました。しかし西郷は「鹿児島市」の「城山」に籠城。(城山籠城戦

薩摩軍「372名」 VS 新政府軍「5万」

最終的に、薩摩軍のうち約160名が戦死。200名近くが降伏することとなります。

それにしても、よく「372名」も残ったものです。

西郷隆盛という人が、どれほどの人望をもっていたのかがわかります。

「西郷先生は不思議なお人だ。

一日接すれば、一日の愛がうまれ

二日接すれば、二日の愛がうまれる。

私はもう数ヶ月も西郷先生と接してしまった。

もはや離れる事はできない。

一緒に死ぬしかないのだ。」

西郷とともに戦った、大分の士族が、このような言葉を残しています。

「敬天愛人(けいてんあいじん)」

西郷が尊敬した学者「藤田東湖」が大切にした言葉です。

「天を敬い、人を愛する」

西郷が愛されたのは、西郷もまた、人を愛していたからなのでしょう。



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西郷隆盛「最期の5日間」

1877年、西南戦争終期、九州南部で転戦を続け、西郷隆盛達が最後に行き着いたのは「鹿児島城山(しろやま)」という場所。

西郷は桐野利秋(きりのとしあき)、別府晋介(べっぷ しんすけ)、村田新八、池上四朗らとともに、城山に自ら掘った洞窟へ立て籠もります。(この洞窟は「南洲翁洞窟」と呼ばれ、現存しています)

この洞窟で「9月19日~9月24日」までの「最期の5日間」を過ごしています。

1877年9月19日、薩摩軍の「山野田一輔」と「河野主一郎」が、西郷には秘密で「西郷隆盛の助命」を頼むため、政府軍の副司令官「川村純義」と会談。
しかし助命は認められず、「河野」は捕らわれ、山野田は解放。

9月23日、西郷のもとに戻った「山野田」は、政府軍副司令官の山縣有朋からの「西郷への手紙」を西郷に見せます。そこには「山縣」から「西郷」への「切腹のすすめ」が書かれていました。西郷は大切に、その手紙を懐へしまったとされています。

この時、「項羽」の「四面楚歌」の故事にならってか、城山を包囲していた政府軍から「葬送曲」が演奏され、鹿児島市民が演奏を聞き入ったといわれています。現在も、同日同時刻に「葬送曲」を演奏されています。西郷たちへの「鎮魂」の意味が込められているのでしょう。

西郷はその後、「最期の宴」を開きました。花火を打ち上げたり、舞を踊ったり、まるで祝宴のような宴が催されたといわれています。



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最期

1877年(明治10年)9月24日午前3時50分頃、西郷率いる薩軍が立て籠もった「鹿児島城山」に向け、政府軍は集中砲火を開始。

戦争に負けることは誰の目にも明らかであり、西郷と薩軍将兵たちは、潔く前へ進んで死のうと決意を固め、城山を下山し始めました。

自決ではなく戦死を選んだ西郷は、最期の突撃へ。

しかし「二発の銃弾」が、西郷の脇腹(肩とも言われている)と太ももを貫き、その場に倒れこみます。

西郷は近くにいた薩軍の幹部のひとりである別府晋介に向かって言いました。

「晋どん、もうここいらでよか……」

西郷は膝まづいて襟を正し、明治天皇がおられる東方を拝礼し、手を合わせます。

別府は西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら抜刀

「ごめんやったもんせー(お許しください)」

と叫び、西郷を斬首。

西郷隆盛、死亡。享年51歳(満年齢49歳)

直後に別府晋介も切腹。

更にその後、最期の戦いに出撃した盟友「村田新八」「桐野利秋」らも戦死しています。

薩摩軍約200名が降伏。残り約160人が戦死。

「西郷の助命」をうったえて薩摩軍に捕まっていた「河野主一郎」は、開放されて後に「台湾・台北市宜蘭市庁長」「青森県知事」などを歴任。開放された「山野田」は戦死。

西郷隆盛の首は、一時「私学校の門前」に埋められましたが、すぐに政府軍が回収。山縣有朋が確認し、西郷隆盛だと断定しています。

両軍あわせて「13000人」もの戦死者を出した「西南戦争」は、こうして終結したのです。



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最期の地はどこ?

西郷が別府達と立て籠もった鹿児島城山は、鹿児島市中央部にある丘です。

前述の通り、西南戦争最後の激戦地であり、国の史跡および天然記念物に指定されています。

「鹿児島市城山」・・・・とても立派な石碑がたてられており、「西郷隆盛終焉の地」とされています。

最期の夜を過ごした「南洲翁洞窟」から300mほど下ったところに石碑があります。「南洲翁終焉之地」と、碑には記されています。

この近くには「敬天愛人の碑」や「西南戦争薩軍本営跡」「私学校跡」「西南戦争弾痕跡」「鹿児島城」「天璋院篤姫像」「五代友厚生誕地」などがあります。

島津氏の本拠地「鹿児島城」のすぐ近くで、西郷隆盛は亡くなります。

西郷が慕っていた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の祖先に関わる地。そこで西郷が最期を迎えたのも、なにか運命的なものがあるのかもしれません。



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異説!「西郷を殺した二人の男」

西郷は死の直前、身体に「2発」被弾しています。

作家「伊東潤」さんが言うには、ここに違和感が残るのだとか。

通常「薩摩軍総大将」である「西郷隆盛」を撃った人間がいたら、それは大手柄。誰が撃ったか記録があるはず。しかしそれがないのです。

確かに「西南戦争」よりも300年も前に行われた「織田信長」の「桶狭間の戦い」も、敵将「今川義元」を討ち取った「服部小平太」「毛利新介」の二人は、今も名前が残っています。

「伊東潤」さんが言うには、「西郷さんは味方に撃たれた」と考えられるのだとか。

伊東さんの説によると、城山に到着した時、西郷は「死ぬ」つもりなど全くなく、政府軍に降伏して生き残り、西南戦争の意義を国民に問いたいと考えていたのだとか。

しかし、側近「桐野利秋」と「村田新八」は、それに反対。

敵に西郷さんをわたしてしまうと、西郷は生き恥をさらし、「晩節を汚す」こととなる。二人はそれを恐れたのだとか。

そのため、二人は「西郷」を一発ずつ狙撃。二発被弾した西郷は倒れ込み、斬首。

「西郷隆盛は、壮絶でいさぎよい最期を遂げなくてはいけない」

桐野利秋と村田新八は、そう考えていたのかもしれません。



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なぜ「西南の乱」ではなく「西南戦争」という名前なのか?

なぜ「西南の乱」「西南の変」ではなく「西南戦争」と名付けられたのでしょうか?

どうやら当時の新聞が『西南戦争』と名付けたらしいですね。

「西南戦争」の前に起こった「士族反乱」は、「秋月の乱」「神風連の乱」「萩の乱」など全て「乱」とつけられているのに。

実はこれら「乱」は、全て300人前後の規模でした。対して「西南戦争」は、薩摩軍総勢3万人。まず、規模が違います。

なぜ「乱」ではないのか。

個人的な見解ですが「西郷隆盛」は当時から凄まじい人気を誇る英雄でした。

彼が「乱」や「変事」を起こすという感覚が、新聞はじめ民衆にはなかったのではないでしょうか。

西南戦争で兵を挙げた西郷は、民衆からも熱烈な支持を集めていました。

熊本城を攻めず、さっさと素通りして本州へ入っていれば、薩摩軍はさらに膨れ上がった可能性が高いといわれているほどです。

そんな民衆から支持を受けていた西郷は「政府の悪政を正すために立ち上がった」と考えられていたのです。

そのため「乱」「変事」ではなく、「戦争」という言葉で表され「西南戦争」とされたのではないでしょうか。



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最期の言葉に込められた意味

「晋どん、もうここいらでよか……」

もうここいらで天にゆだねるよ、と言っているようにも思える、この言葉の意味は何なのでしょうか。

西郷が西南戦争に乗り気でなく、内乱に意味がないことを誰よりも知っていたと言われています。

彼は天皇や政府に牙をむくつもりはありませんでしたが、それでも薩摩の不平士族達の不満のはけ口としてその身を捧げました。

薩軍の倍以上の兵力を持つ政府軍に負けることは明らかで、負けるとわかっていた、死を決していたと思います。

西南戦争を、最期の士族反乱にしよう」という意志があったのでしょう。

「もうここいらで、私の役目は終わった」

「ここいらでよかろう。日本人同士の戦いは、もう終わらせよう」

そう思っていたのではないでしょうか。

西郷は薩摩武士を相手に勇敢に戦う「徴兵」された政府軍の兵士を見て

「これで、もう日本は大丈夫だ」

と満足気に語ったといわれています。

「敬天愛人(けいてんあいじん)」。西郷隆盛が、盟友「橋本左内」とともに尊敬した学者「藤田東湖」が残した言葉です。この言葉を、西郷もまた大切にし、敵軍にすらも「愛情」を持って接していたということです。

実際に西南戦争は、2018年の現在においても日本最期の内乱となっています。

西郷隆盛の意志は、盟友「大久保利通」へと委ねられます。

その大久保利通は西郷の死の8ヶ月後、「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」という、過酷な運命を迎えるのです。

紀尾井坂の変」については、以下のリンク記事を是非お役立てくださいませ。



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西郷の死後

「明治天皇」と「大久保利通」の反応

西郷の死を知った大久保利通は号泣したといわれています。そして西郷の伝記を作るよう指示。

「おはんの死とともに、新しか日本がうまれる。

強か日本が・・・。」

大久保は泣きながら「西郷の死を無駄にはしない」と口にし、固く心に誓ったのでした。

大河ドラマ「西郷どん」の最終話「敬天愛人」では、鈴木亮平さんが演じる「西郷」さんが

「自分が死ねば、全国の士族が、ようやく新しい生き方を探すようになるだろう。

自分の死とともに、新しい日本が生まれるのだ」

と口にするシーンがありました。実際に西郷さんがそう口にしたかどうかは、定かではありません。しかし、ドラマ「西郷どん」におけるこの言葉は、間違いなく「大久保利通」が実際に口にした言葉を基礎としているのでしょう。二人は離れていても、心を通わせていたことを表しているのかもしれません。

もしかすると、西郷さんは本当に「自らが死ぬことで、新しい日本を生み出そう」としたのかもしれません。なにせ西南戦争で、西郷さんはほとんど指揮をとっていないのですから。



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「明治天皇」は、西郷隆盛の弟「西郷従道」の報告により、西郷の死を知ります。そして従道に対して「これからも尽くせ」と指示。

「西郷を殺せとは言わなかったぞ!(西郷を殺せなどという命令は出していないぞ!)」

と、その死を嘆かれたとも言われています。

その後、明治天皇は宮中の歌会で「西郷隆盛」を題として歌を作らせた。西南戦争を起こした逆賊であるはずが、明治天皇は「西郷の功績をたたえ、罪を歌ってはならない」と厳命しています。明治天皇は西郷を絶対的に信頼していたということです。

明治天皇は、のちに

「朕(天皇の一人称、私という意味)を誠におもってくれていたのは、西郷ただ1人であった」

と涙しながら語られたとのこと。

その後、明治22年、大日本帝国憲法発布の特赦で「西郷隆盛」は名誉回復。

黒田清隆たちの尽力もあったといいますが、そこには明治天皇のご意向が強く影響しているはずです。死後わずか12年での名誉回復は異例です。

西郷隆盛の息子「西郷寅太郎」は、天皇に兵を向けた逆賊の子であるにもかかわらず、西郷の功績をたたえられ「侯爵」という極めて高い爵位を与えられ、しかも13年もの長きにわたり、ドイツへ留学しています。

これは西郷隆盛の功績あってのことでしょう。

この留学にも、西郷を信頼していた明治天皇のご意向が強く影響していたと考えられています。


西郷隆盛と大久保利通の関係」について詳しく解説いたします、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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西郷は生きていた!

実は「西郷は生きている」という都市伝説もありました。

1891(年明治24年)、滋賀県巡査「津田三蔵」がロシアの「ニコライ皇太子」に切りつけた「大津事件」

このとき、まことしやかに流れた噂の中に、こんなものがありました。

「西郷隆盛は死んでおらず、ロシアへ渡っていた。

ロシア皇太子の来日とともに西郷隆盛が帰国する」

津田三蔵は、「西南戦争」で政府軍として参戦。勲章を授与されていました。

西郷隆盛が帰国したら、その勲章を取り上げられると考えた津田は、ロシア皇太子を襲ったのです。

西郷隆盛の弟「西郷従道」は、ロシアを恐れ「極刑」を主張しました。

しかし伊藤博文らが「超法規的措置」に反対。

津田は無期懲役刑。

事件から4ヶ月後、津田は肺炎で獄死。精神疾患があったといわれています。

言うまでもないことですが、西郷は間違いなく、西南戦争で亡くなっています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

西郷隆盛は西南戦争に負けることを覚悟し、別府晋介の介錯で亡くなった。

西郷隆盛の最後の地は、鹿児島城山は鹿児島市中央部にある丘陵で、現在国の史跡および天然記念物に指定されている。

西郷隆盛の最期の言葉には、「西南戦争を、最期の士族反乱にしよう」という意志があった。

明治の日本を創った人物のひとりである西郷隆盛。

数々の功績があるものの、最期は明治政府の敵として亡くなってしまいました。

西南戦争という内乱には意味がないことを知っていた彼の死を無駄にしないためにも、日本は今後内乱を含む戦争を起こさない国であってほしいと思います。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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