英雄「西郷隆盛」は、右腕が動かないのに、なぜ出世できたのか?わかりやすく解説いたします。
「戊辰戦争」を勝利に導き「明治維新」をなしとげた英雄「西郷隆盛」。
幼い頃に負ったケガのせいで、右腕が思うように動かなかった・・・。
しかし大出世できた理由は名君「島津斉彬」のおかげだった。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
目次
西郷隆盛の右腕は、怪我で動かなかった
2018年の大河ドラマ「西郷どん」
その「西郷どん」の記念すべき第一回放送で、幼い西郷隆盛が喧嘩で怪我をし、右腕が使い物にならなくなるという事件が起こります。
実は西郷の右腕が動かなかったのは史実通りです。彼の右腕は怪我が原因で動きませんでした。
ドラマでは、別の村の子供達に襲われ、鞘にしまった状態の刀で殴られた際に、鞘が壊れて右腕を斬られた事になっていました。
しかし実際には、1839年、仲間とお宮参りに行った時、仲間が他の村の子供達と喧嘩しそうになったのを止めたのだとか・・。
その時、相手が抜いた刀が右腕内側の神経を切断。
3日のあいだ高熱を発した西郷は、右腕で刀が握れない様になってしまったのです。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』
これを良い転機と捉えた西郷は、武術ではなく学問にて立身する決意を固めました。
とはいえ、武術をなにもしないわけにも行かず、「相撲」に熱心に取り組んだと言われています。
「学問」で立身しようとした西郷・・。
同じ鍛冶屋町には、秀才・大久保利通がおり、西郷はとても敵わなかったようですが・・・。
学問でも大久保ほどに優れていなかった彼は、どうやって立身したのでしょうか?
なぜ出世できたのか?名君「島津斉彬」のおかげ
結論から言うと、立身できた理由は、2つ
「西郷のやる気」
「名君・島津斉彬のお引き立て」
この2つのおかげです。
どういうことなのでしょうか?
以下でくわしく解説致します。
やる気満々の西郷
西郷隆盛・・・やる気に満ち満ちていました。
その証拠として、西郷は上司である島津斉彬に対して「建白書」・・つまり、報告書をめちゃくちゃな数を書きまくったのです。
西郷はその建白書を書きまくることで、主君・島津斉彬が知らないだろう下々の生活と問題点を伝えようとしていたわけです。
名君・島津斉彬
その建白書・・・普通の藩では大抵が握りつぶされ、殿様の目に届きません。
しかし、島津斉彬はその建白書を「全部もってこい」と命じていました。
その為、西郷の建白書を、島津斉彬は読んでいたと考えられます。
そんな西郷の才能を見抜いた島津斉彬は、西郷隆盛を江戸藩邸の「お庭方役」に命じました。
「お庭方役」というのは、今で言う「庭掃除係」
どういうことなのか?
西郷の身分では、島津斉彬と同席することは到底できません。
しかし、お庭方・・・・つまり「お庭掃除役」なら、ふらりと島津斉彬が現れ、お話をすることができるわけです。
西郷はその後、島津斉彬と事あるごとに会話し、世の中のこと・世界のことを教えてもらいます。
つまり、簡単に言ってしまうと「島津斉彬は西郷隆盛の家庭教師をしてあげた」ということ。
実質的な西郷の師匠とも言えるかもしれません。
おそらく「島津斉彬」は、西郷に『見込みあり』とみなして、自ら教育することにしたのでしょう。
当時「日本一賢い殿様」と呼ばれた「松平春嶽」が
「自分などよりも賢い、最も優れた殿様は、島津斉彬ただ一人」
と賞賛した名君「島津斉彬」が、西郷の家庭教師・・・・そうやって、西郷は知識をつけていったのでしょう。
同時代、長州藩では「吉田松陰」が、「松下村塾」において弟子たちに対して教育を施し、優れた人材を多数排出していったわけですが、「島津斉彬と西郷隆盛」の関係も「吉田松陰と弟子たち」に近いものがあったかもしれません。
島津斉彬は、西郷隆盛についてこんな評価をしています。
「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」
「私には、家来は多数あるが、誰も間に合うものなし。
西郷一人は、薩摩国貴重の大宝である。
しかしながら彼は独立の気象あるが故に、彼を使う者、我ならではあるまじく候」
「私は此頃大変よい物を手に入れた。
それは中小姓を勤めて居た西郷吉之助と云う軽い身分の者が居るが、中々の人物と認む」
名君・島津斉彬は、西郷隆盛をたいへん買っていたということですね。
それは西郷隆盛自身の努力と心構えが、成さしめたことなのでしょう。
大久保利通も、同じ方法で出世した!
西郷隆盛の盟友といえば、幼馴染で弟のように一緒に育った「大久保利通」
実はその大久保利通も、西郷と似たような方法で出世したのです。
つまり「主君に気に入られることで、引き上げてもらった」ということ。
ただし、大久保利通を引き上げたのは「島津斉彬」ではなく、その弟「島津久光」。
実は「島津久光」と「西郷隆盛」は非常に仲が悪かったのです。
それについて詳しくは、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
そんな仲が悪かった西郷隆盛と島津久光
西郷は島津久光に嫌われて、流罪にされてしまいます。
西郷がいないときに、薩摩藩で急浮上したのが「大久保利通」
大久保は、島津久光が「囲碁」を趣味としている事実を知り、島津久光の囲碁の師匠と仲良しになります。
そして囲碁をする内に、島津久光へと近づいたのでした。
そうして久光に引き立ててもらった大久保利通は、西郷がいない間、薩摩の屋台骨を支え続け、最終的には西郷隆盛の復帰を島津久光に認めさせることに成功するのです。
西郷の人望と、大久保利通の緻密さ・・・2人をうまくまとめる「小松帯刀」などの尽力もあり、薩摩藩は明治維新へと突き進むことができたのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・西郷は幼少時、仲間の喧嘩を仲裁して右手を負傷し、刀を握れなくなった
・西郷は、多数の「建白書」を島津斉彬に対して書き続け、島津斉彬もそれをことごとく読み続けていたため、取り立てられた
・大久保利通は、島津斉彬の弟・島津久光に「囲碁」で取り入り、頭角を現した
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「西郷隆盛」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
これらの記事でも「西郷隆盛」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。
「西郷隆盛」の記事一覧
「西郷隆盛」の関係者 記事一覧
コメント