薩摩藩出身の内閣総理大臣「山本権兵衛(やまもとごんべえ)」について、その「生涯」と「最期」、「家系図と子孫」について、わかりやすく解説いたします。
「幼くして薩英戦争・戊辰戦争に参戦した歴戦の猛者であり、日露戦争も勝利に導いた人物だった」
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
山本権兵衛の生涯と最期
海軍大臣・内閣総理大臣を歴任した「山本権兵衛(やまもとごんべえ)」
かなりイケメンな人物ということで有名だったようです。確かにイケメンですね。
「山本権兵衛」は何をした人なのか?
まずは「山本権兵衛」がやったこと、残した功績について、短く解説いたします。
・日本帝国海軍の改革に力をつくし、秋山真之や広瀬武夫など、優れた人材を育て上げた
・西郷従道を後ろ盾とし、海軍大臣を長くつとめ、日露戦争勝利の準備をすすめた
・日英同盟を強く主張し、同盟締結後も、イギリスのメンツをたてるように「兵器はイギリスから買う」などの配慮を続けた
・日露戦争開戦の直前に、のちに「ロシア・バルチック艦隊」を撃破することとなる名将「東郷平八郎」を「連合艦隊司令長官」に大抜擢した
・内閣総理大臣に就任し、「軍部大臣現役武官制」という、軍部の独裁に繋がりかねない法律を、一部改正することに成功した。
・第二次山本権兵衛内閣で、関東大震災の復興に力を尽くした
山本権兵衛は、薩摩藩出身の人物。明治維新のとき、山本はまだ若い10代後半の武士でした。
彼は「西郷隆盛」を尊敬しており、西郷から「勝海舟」を紹介されて弟子入り。勉強に努め、軍人への道を進むこととなるのです。
「生涯と最期」
「山本権兵衛」の生涯を、わかりやすく解説いたします。
1852年11月26日、当時の薩摩藩鍛冶屋町で「山本五百助盛珉」の六男として誕生。
1862年、10歳で「薩英戦争」に参加。
1868年、16歳で「戊辰戦争」に参加。
同年、「江戸城無血開城」・・・明治維新
1869年、西郷隆盛の紹介により、「勝海舟」に弟子入り。海軍軍人としての訓練を積む
1873年、「征韓論争」により、「西郷隆盛」「村田新八」らが政府から下野(辞職)。(明治六年の政変)
1874年、山本権兵衛もまた、西郷を追って政府をやめる。しかし、西郷に説得されて政府・海軍の兵学寮へ戻った。
1877年、「西南戦争」勃発。「西郷隆盛」戦死。このころ山本は「ドイツ」へ留学していた。
1878年、「登喜子」と結婚。その後、軍人としてキャリアを積む
1887年、海軍大臣伝令使になる。海軍次官「樺山資紀」のお供をして1年以上「欧米視察旅行」をした。
1889年、大佐に昇進。各戦艦の艦長を歴任。
1891年、海軍大臣「西郷従道」の指名により、「海軍省大臣官房主事」に任命される。
1894年、「海軍大臣副官」に任命される
同年、「日清戦争」勃発
1895年、「日清戦争」終結。ロシア・ドイツ・フランスの「三国干渉」により、日本は「遼東半島」を手放す。
「三国干渉」により、ロシアへの憎しみをつのらせた日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、対ロシアのために軍備を増強。山本権兵衛も、海軍の改革に力を尽くす。
1898年、第二次山縣有朋内閣で、海軍大臣に就任。
1902年、「日英同盟」締結
同年、山本権兵衛・小村寿太郎が「男爵」の爵位を叙任される。
1903年10月、山本権兵衛により「東郷平八郎」が連合艦隊司令長官に大抜擢される。
1904年、「日露戦争」勃発
1905年5月27~28日、「日本海海戦」でロシア「バルチック艦隊」を撃破
同年、「日露戦争」終結
1906年、海軍大臣を辞任。
1907年、伯爵の爵位を叙任される
1913年、組閣を命じられ、内閣総理大臣に就任(第一次山本権兵衛内閣)
同年、「軍部大臣現役武官制」の改正に成功する
1914年、「シーメンス事件」により、山本内閣総辞職
1923年9月1日、関東大震災
1923年9月2日、山本権兵衛に組閣が命じられる(第二次山本権兵衛内閣)
同年12月27日、「虎ノ門事件」。皇太子(後の昭和天皇)が共産主義者に狙撃される
1924年1月7日、「虎ノ門事件」の責任をとって「第二次山本内閣」は総辞職
1933年3月30日、妻「登喜子」死去
同年12月8日、「山本権兵衛」死去。享年82歳
家系図と子孫!子孫はフィギュアスケート選手の八木沼純子さん
日露戦争勝利の立役者である「東郷平八郎」を「連合艦隊司令長官」に大抜擢した「山本権兵衛」・・・。
そんな山本権兵衛の子孫は、どうなっているのでしょうか?
調査してみました。
フィギュアスケート選手の「八木沼純子(やぎぬまじゅんこ)」さんが、「山本権兵衛」の子孫。
それだけではありません。元内閣総理大臣「松方正義(まつかたまさよし)」の子孫でもあります。
「公式チャンネル『下野新聞チャンネル』より」
とても美しい方ですが、そんな「八木沼純子」さんは、「山本権兵衛」「松方正義」の「玄孫(孫の孫)」にあたられる方なのです。
山本内閣の功績!『軍部大臣現役武官制』の廃止について
山本権兵衛が残した功績としては「軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)」の改正があります。
「軍部大臣現役武官制」とは、「陸軍大臣・海軍大臣は、現役の中将・大将でなくてはならない」という制度のこと。
この法律のおかげで、政府は「軍に支配される」という状態におちいっていたのです。
通常「軍」は、政府が支配し、戦争すべきときには「政府」の命令により軍が動くもの。
しかしこの「軍部大臣現役武官制」という制度は、それを逆にし「軍」が「政府」をコントロールすることを可能とする制度なのです。
「大臣が現役の武官(中将・大将)」でなくてはならないのなら、陸軍・海軍は、自分たちにとって都合の悪い「内閣総理大臣」が誕生した場合、「大臣を出さない」ことができるのです。
「陸軍大臣・海軍大臣」が出せないのなら、「内閣」を「組閣」できません。組閣できないなら辞職するしかないのです。つまり「内閣総理大臣」に就任しても、陸軍大臣・海軍大臣が任命できなくては、即「内閣総理大臣」を辞めなくてはならないということ。
これにより、内閣総理大臣は「陸軍」「海軍」の顔色をうかがいながら、仕事をしなくてはならなくなりました。
下手したら、日本は「軍事政権」となりかねません。それを防ぐために「山本権兵衛」は「軍部大臣現役武官制」を改正。引退した「元軍人」でも大臣になれるようにしたのです。
しかしこの「軍部大臣現役武官制」は、広田弘毅内閣で復活し、日本は「大東亜戦争」へ突入。
この「軍部大臣現役武官制」という法律を復活させたおかげで、「広田弘毅」は「東京裁判」により「戦犯」として処刑されています。
内閣総辞職の原因!「シーメンス事件」とは
第一次山本権兵衛内閣は「シーメンス事件」という汚職事件で、総辞職しています。
「シーメンス」とは、今もドイツに存在する多国籍巨大企業のこと。製造業をおこなっているこの「シーメンス」から、多額の金が海軍に流れていたのです。
当時「海軍」は、日英同盟で関係が良好だった「イギリス」などから海軍の「通信・電気」などの「装備品」を購入していました。しかし、それはあくまでも「入札」という方法によるもの。
シーメンスは、この入札を有利に進めるため、入札情報を海軍から入手し、その見返りにお金を海軍に払っていたのです。
この問題が明るみになり、海軍からは逮捕者も出たほど。
「第一次山本権兵衛内閣」は総辞職。
当時は「第一次世界大戦」の真っ只中。そのため海軍の軍人3名が有罪判決をくだされたのみで、事件は終結しました。
ちなみにこの汚職事件に「山本権兵衛」が関わっていたかどうかについて・・・・山本権兵衛は関わっていなかったという説が有力なようです。
『山本権兵衛』について、レビュー(評論)!
山本権兵衛の功績としては、「軍部大臣現役武官制」の改正が大きいと思いますが、何より大きいのは「東郷平八郎」を「連合艦隊司令長官」に大抜擢したことでしょう。
これがなかったら、日本は「日露戦争」で大敗北していたはずです。
東郷平八郎を長官にすることは、かなりの大抜擢でした。そのため、メチャクチャ批判されたものの、山本は東郷平八郎の人事を強行。
「東郷は運の良い男でありますので」
明治天皇から、なぜ東郷を推すのか尋ねられ、山本はそう応えています。
しかし本当のところ、山本は東郷平八郎の高い能力を見抜き、「ロシアに勝利するには、この男しかいない」と確信していたのでしょう。
東郷平八郎は、見事に期待に応えます。
バルチック艦隊に圧勝。日露戦争の勝利を確定させます。
「西郷隆盛」に目をかけられ、その弟「西郷従道」に推薦された山本権兵衛。同じく西郷隆盛の弟「西郷吉二郎」に指導を受けた「東郷平八郎」。
薩摩の英雄「西郷隆盛」の残した遺産は、日露戦争で開花したのでした。
「西郷隆盛」「西南戦争」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 山本権兵衛は、薩摩藩出身の軍人・政治家。西郷隆盛・勝海舟・西郷従道たちと深く関わり、日露戦争の勝利に大きく貢献した
- 山本権兵衛・松方正義の子孫にフィギュアスケート選手「八木沼純子」さんがいる
- 山本は「軍部大臣現役武官制」の改正に成功するなど、功績を残したが、「シーメンス事件」という汚職事件で総辞職した
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント