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大久保利通・名言集と簡単年表一覧!維新の元勲から学ぶべき教訓とは

維新三傑の1人「大久保利通」の「名言集」と「生涯年表」を、わかりやすく解説いたします。

これを読めば、大久保利通の残した名言と生涯が、簡単に理解できる!

薩摩藩士として、国父「島津久光」に見出され、そのブレーンとなった大久保利通。

明治政府では「内務卿」として、実質的な「総理大臣」を務めて、明治政府を導いた偉人。


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この記事を短く言うと

・大久保利通は、数々の名言を残しているが、それらの言葉は、大久保の自立心が強く行動力があることを示している

・大久保利通は、薩摩藩で誕生し、「紀尾井坂の変」にて48歳で亡くなっている

・囲碁で藩主の父『島津久光』に気に入られて出世。明治政府では内務卿を務め、借金をしてまで公共事業を行っていた


「大久保利通」の名言と意味を解説

大久保利通

『引用元ウィキペディアより』

 

「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず。」

大久保利通は明治政府の中で廃藩置県に関して、西郷隆盛木戸孝允などと打合せを重ねてきました。

意見は三人三様。細かな部分では3人の意見が合わなかったが、これ以上、議論を続けていたのでは機会を逃してしまう。

そうしたら、一番大切な廃藩置県の計画自体が駄目になってしまう。

そこで、細かい意見の相違は気にしないで、廃藩置県を思い切ってやってみるべきだというのが、この言葉の意味だと考えられています。

 

「彼は彼、我は我でいこうよ」

目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。
そういうものを振り切って、前に進む。

自分の信じる道を行くという強い意志を感じさせる言葉です。



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「大久保利通」生涯年表

1830年

天保元年 1歳

大久保利通・誕生

 

1850年

嘉永3年 21歳

父親「大久保利世」が流罪になる

 

1853年

嘉永6年 24歳

島津斉彬に仕える

 

1857年

安政4年 28歳

西郷のお供で初めて藩外へ出る

 

1858年

安政5年 29歳

藩主・島津斉彬が病気により急逝し島津久光が実験を握る

 

1859年

安政6年 30歳

西郷隆盛が島流しになる

 

1861年

文久元年 32歳

藩の重役、御小納戸役(おこなんどやく)に抜擢される

 

1862年

文久2年 33歳

御側役という島津久光の側近に抜擢される



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1868年

慶応4年 39歳

明治維新

明治政府の参議に就任「版籍奉還」「廃藩置県」を実施 「大阪遷都意見書」を書く

 

1871年

明治4年 42歳

大蔵卿に就任 「岩倉具視使節団」の副使として一年半外遊する

 

1873年

明治6年 44歳

内務省の長官に就任「学制」「地租改正」「徴兵制」などの政策を行う

 

1876年

明治9年 47歳

国際博覧会の開催を提案する

 

1877年

明治10年 48歳

西南戦争勃発 京都にて政府軍の指揮を担当する 西郷隆盛没 内国勧業博覧会が開催される

 

1878年

明治11年 49歳

東京・紀尾井町で石川県士族の島田一郎ら6名により暗殺される「紀尾井坂の変

享年49歳(満年齢47歳)



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器用に、しかし愚直に生きた「大久保利通」から学ぶべきこと

・囲碁で島津久光に取り入った

大久保は、生涯、碁を趣味とし、息子である牧野伸顕も下記のように言っています。

「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使いすぎたりしたときは、碁を囲んで慰めていたようです。

日記を見ると、よほど碁が好きであったようで、そのほかには別に娯楽はなかったでしょう。

今の方円社長の岩崎建造などは始終父に追従していました。

碁ではいろいろの奇談もあるようです。」

(「大久保利通」32頁)

中国では、囲碁は下位の者が、上位の者に意を達するための正道で、大久保もそれに倣ったといえるエピソードがあります。

大久保は御徒目付。近い将来、島津久光が藩政を握るとなると、直接会って話すことはできません。

久光は囲碁が好きで、吉祥院の住職に習っていました。

吉祥院の住職は、税所篤の兄。吉祥院は大久保の同志であるとともに、税所篤は大久保の終生の友人です。大久保は税所篤に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を記載します。

それが久光の目に留まり、久光は大久保を碁に事を寄せて呼び寄せ、側に上がって碁の相手をするようになったといいます。

それからも度々、久光と碁の相手をし、大久保と打つのが一番面白いと言っています。

「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」だとか。



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・借金をしてまで、政治を前に進めようとした

大久保が暗殺された後、遺族が遺産を整理した所、驚くべき事実が明らかになりました。大久保は政府の中で専制的な支配力を築き上げた絶大な権力者でした。

誰もが莫大な遺産を遺しているのだろうと思っていたのですが、実際には、僅か140円の現金に対し、借金が8,000円(現在の金額で約2.4億円)もあったのです。

しかもその借金は全て、不足した公金を賄うために大久保が自分名義で借りた借金で、国家づくりのために、大久保が個人的に親しくしていた人達から借りたものだったのです。

当時、政府は多くの公的事業を推し進めていましたが財源不足に陥っていました。

そのため大久保利通は華美な生活はせず、友人や知人から個人的に借り集めたお金を予算がつかない公共事業に注ぎ込んでいたのです。

債権者たちは彼の金の遣い道を知っていたため、遺族に借金の返済を求めることはしませんでした。

大久保は、政権中枢にいて巨万の富を得る事も不可能ではなかった時代に、最期まで清廉を貫いた人でした。

政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、更に8,000円の募金を集め、この1万6,000円を以て大久保の遺族を養う事にしました。

手段を選ぶべきでない場合もあるが、自らの信念を曲げてはならないという生き方を感じますね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大久保利通の名言は、独立心の強さを感じさせる

・大久保利通は、その「紀尾井坂の変」で暗殺され、生涯を終えた。

・大久保利通は、島津久光に囲碁で取り入って出世し、借金を重ねてまで公共事業を成し遂げた

いかがでしたか。これで大久保利通の人柄について詳しくなりましたね。
以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 大久保利通の署名花押ではないかと思われるものが
    あります。調べていただけませんか?
    抹茶茶碗の箱の蓋の裏面に朱色の墨で書かれています。

  • 大久保利通の署名花押ではないかと思われる
    物を持つています、茶碗の箱の蓋裏面に朱色の
    墨で書かれています。利通が歳通になっています。
    (書家に見てもらいました)
    写真送ります。送り先をお教えください。

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