海江田信義(有村俊斎)の生涯と最期!生麦事件・薩英戦争の首謀者?

海江田信義こと有村俊斎

西郷隆盛の友人にして、大村益次郎暗殺の疑いをかけられた男

実は「生麦事件」と「薩英戦争」の首謀者だった?


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この記事を短く言うと

・海江田信義(有村俊斎)とは薩摩藩士で、明治維新後に「奈良県知事」「貴族院議員」を務めた、西郷隆盛大久保利通の盟友

・薩摩藩で産まれ、島津斉興の茶坊主を務め、明治維新に尽力。大久保・西郷の最期を見届け、75歳で亡くなった

生麦事件で、英国人にとどめを刺し、薩英戦争では敵艦に乗りこもうとした

・長州藩士「大村益次郎」と仲が悪く、大村暗殺の黒幕ではないか・・・と疑われた


有村俊斎(海江田信義)とは何をした人?その功績とは?

有村俊斎こと「海江田信義」

西郷隆盛大久保利通とともに薩摩藩で生まれ育ち、生麦事件にも関与した人物。

海江田信義(有村俊斎)
『引用元ウィキペディアより』

そんな海江田信義の生涯について、解説したいと思います。

「海江田信義」の功績

海江田信義の功績を、短く解説すると、以下の通り

・薩摩藩士として、西郷や大久保と共に「精忠組」に所属して活動

戊辰戦争に参戦し、各地を転戦

・奈良県知事を務めた

・元老院議官、貴族院議員、枢密院顧問などを歴任し、明治政府に貢献

海江田信義・・・槍の達人だったと言われています。後の鹿児島県知事「大山綱良」との決闘して敗北。3年後に再び決闘してまた敗北した話は有名です。


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海江田信義の生涯と、静かな最期

海江田信義(有村俊斎)の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1832年、薩摩藩士「有村仁左衛門兼善」の次男として誕生

その後、薩摩藩10代目藩主「島津斉興」のもとで「茶坊主」となります。

俊斎と父・仁左衛門は、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」に巻き込まれて、一時的に藩を追放されますが、後に帰還。

1851年、西郷隆盛や大久保利通を中心として結成された「精忠組」に所属して、幕政改革や維新に向けて活動するようになります。

「安政の大獄」と「桜田門外の変」

江戸へ出た有村俊斎は、尊皇攘夷派で有名な「水戸藩」の藩士たちと交流。

特に、西郷隆盛も絶賛した当時一流の学者「藤田東湖」とも交流を深めました。

井伊直弼による「安政の大獄」が始まると、有村俊斎は西郷隆盛とともに、尊皇攘夷派の僧侶「月照」を連れて薩摩へ逃亡。

しかし薩摩藩は「月照」を匿うことを拒否。月照は西郷隆盛とともに入水。生き残った西郷は、名前を変えて「奄美大島」へ潜伏

その後、有村俊斎の弟「有村次左衛門」が、水戸脱藩浪士たち17名と結託して「桜田門外の変」で大老「井伊直弼」を暗殺。

弟「有村次左衛門」は直後に自刃。


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寺田屋事件

1862年、薩摩藩主の父「島津久光」が、軍を率いて京都にのぼり、幕府に圧力をかけることで「幕政改革」を迫るという計画・・・「率兵上京(そっぺいじょうきょう)」を強行。

海江田信義も、久光に従い京都へ。

島津久光は、あくまでも幕政改革をし、「公武合体」・・・つまり「挙国一致して外国に対処する」という方針でした。

しかし、薩摩藩の過激派は、久光の上京を「攘夷」・・・諸外国を打ち払うものだと、勘違いをしてしまいます。

久光の狙いが「公武合体」にあると知った過激派は、要人を暗殺して、「久光」を「攘夷するしかない」ところまで追い込もうとします。

これに激怒した久光は、「大山綱良」に銘じて、「寺田屋」に集結していた「薩摩藩の過激派」を粛清。この「寺田屋事件」によって「有馬新七」たちが亡くなります。

生麦事件と薩英戦争

島津久光が、江戸から薩摩へ帰還する途中、現在の神奈川県の生麦村で、イギリス人が薩摩の大名行列を横切る事件が発生。

このイギリス人に、海江田信義はとどめを刺しています。

翌年の「薩英戦争」で、海江田信義は率先して戦闘に参加しています。

戊辰戦争

旧幕府軍との戦い「戊辰戦争」において、海江田信義は、東海道先鋒部隊の総督参謀となります。

新政府軍の実質的な指導者である「西郷隆盛」を補佐して、江戸城無血開城を実現しています。

その後、上野戦争に「大村益次郎」とともに参加。

大村益次郎とは仲が悪く、殺意を覚えるほどだったと言われています。


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明治維新後

明治維新がなった後、しばらく明治新政府で活動

その後「大村益次郎」が暗殺され、その黒幕と誤解されたため、職を辞することとなります。

1870年、大久保利通のおかげで復帰し、奈良県知事に就任。

1871年、廃藩置県で奈良県知事を解任。

その後は、鹿児島に戻って島津久光に仕えました。

1877年、「西南戦争」で西郷隆盛が亡くなります。

1878年、「紀尾井坂の変」で大久保利通が暗殺。

1881年、海江田信義は元老院の議官に就任。

1887年、ウィーンへ遊学

1890年、貴族院議員

1891年、枢密院顧問

最期

1906年10月27日、海江田信義、死去

享年75歳

墓所は東京・青山霊園

西郷隆盛や大久保利通、大山綱良など盟友たちの最期を見届けた後の、静かな最期でした。


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生麦事件の首謀者?全然反省すること無く薩英戦争で特攻!

海江田信義といえば、『生麦事件』

彼は「生麦事件」で斬られたイギリス人「チャールス・リチャードソン」にとどめを刺しているのです。

その理由は、あまりに傷が深かったため「もう助からない」ことがひと目でわかったため、情けとして・・・ということだったようです。

「生麦事件」の翌年、イギリスの軍艦が報復として薩摩へ。

「薩英戦争」勃発

この時「海江田信義」は、スイカ売に変装して、イギリス艦に乗船し斬り込もうとしたらしいですが、見破られてあえなく失敗。「どうみてもおかしいだろ!」というレベルの変装だったようです。

海江田信義・・・槍の達人だったので、腕には自信があったようです。

薩英戦争で、薩摩は火の海となり、賠償金をイギリスへ支払うことで合意。

その後、英国と薩摩は接近し、武器の供給と倒幕で思惑を一致することとなるのです。


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靖国神社の銅像『大村益次郎』を暗殺した?

海江田信義といえば、「大村益次郎」と犬猿の仲だったことで有名です。

大村益次郎
『引用元ウィキペディアより』

大村益次郎といえば、大坂「適塾」緒方洪庵の弟子にして、靖国神社の前に銅像になっておられるお方。

西郷隆盛から「軍事の天才」と呼ばれた長州藩の逸材。その軍事における能力の高さは、後に「佐賀の乱」を起こして刑死した「江藤新平」も絶賛しています。

海江田信義は、大村益次郎と「上野戦争」の際に、かなり激しくぶつかり合っています。

上野戦争とは、旧幕府の「彰義隊」と新政府軍による戦い。

大村益次郎は、この戦いの指揮を取っていたのですが、海江田信義は大村益次郎と仲違いをし、相当な憎しみを抱いたと言われています。

1869年、大村益次郎は京都で襲撃を受け、その傷が原因で亡くなっています。

海江田信義は、大村益次郎を憎んでいたため、暗殺の首謀者ではないか?と疑われます。

実際、大村を襲撃した「神代直人」と海江田は知り合いだったことを、海江田信義自身が認めています。

本人は関与を否定していますが・・・真相は今もわかっていません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・海江田信義(有村俊斎)は、明治維新に尽力した薩摩藩士

・生麦事件で亡くなったイギリス人に最期の一太刀を与え、薩英戦争では奇襲部隊に参加した

・大村益次郎暗殺の黒幕と疑われているが、真相ははっきりしない

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


西郷隆盛」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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「【西郷隆盛】3人の弟達の名前と最期!隆盛も尊敬するほど有能だった」の記事はコチラ
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