幕末・明治の英雄「西郷隆盛」。
その西郷隆盛の3人の弟たち
- 「西郷吉二郎」
- 「西郷従道」
- 「西郷小兵衛」
について、その「最期」を解説いたします。
- 「戊辰戦争で戦死した吉二郎」
- 「胃がんで亡くなった従道」
- 「西南戦争で兄・隆盛より先に亡くなった小兵衛」
兄・隆盛をも尊敬させた優秀な弟たち。
その真実を、わかりやすく解説いたします
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この記事を短く言うと
・西郷隆盛には「吉二郎」「従道」「小兵衛」という3人の弟がいた
・次男・吉二郎を、西郷隆盛はとても尊敬していた
・三男・西郷従道、兄・隆盛が反乱を起こしたため、最期まで「総理大臣」を固辞し続けた
・四男・小兵衛、隆盛からもっとも可愛がられ、兄・隆盛を信頼しきっていた弟。西南戦争で亡くなった
≪1.西郷隆盛・3人の弟たちの名前≫
西郷隆盛には3人の弟がいました。
次男 西郷吉二郎
三男 西郷信吾→従道(じゅうどう/つぐみち)
四男 西郷小兵衛
西郷隆盛の弟たちについて、解説させていただきます。
≪2.隆盛が最も尊敬した次男『吉二郎』≫
西郷隆盛は1862年に2回目の配流となり、沖永良部島に送られます。
その際、西郷家も一緒に処分。
また話が前後してしまいますが、隆盛が藩政に復帰し、江戸等に滞在することが多くなります。
そういった中、兄・隆盛に代わって、西郷家を取り仕切ったのが吉二郎なのです。
薩摩では、隆盛の代理という役割も果たしていました。
隆盛は常に
「自分が国家の為、聊かご奉公が出来たのは、吉二郎が自分に代わって兄たる責務を果たしてくれたからの事で、自分は年齢の上からの兄で、実際の兄は吉二郎だ。」
と述懐していたといいます。
大河ドラマ「翔ぶが如く」のワンシーンで西田敏行演じる西郷隆盛が弟・吉二郎に対し
「今後、私はあなたを弟とは思わん。
今後は兄と思おう」
というシーンがありました。
2018年の大河ドラマ「西郷どん」でも、西郷隆盛が江戸へ向けて薩摩を出発する際に、全く同じセリフを口にするシーンが有りました。
1869年、戊辰戦争に出兵。
戊辰戦争最大の激戦であった「北越戦争」
特に「ガトリング砲」や「アームストロング砲」「エンフィールド銃」「シャープス銃」などの最新武器を「新潟港」から輸入していた、長岡藩とその家老「河井継之助」は、新政府軍を最期まで苦しめます。
越後国五十嵐川付近(新潟県三条市)での戦傷がもとで、吉二郎は戦死。
若くして亡くなった「西郷吉二郎」ですが、彼が残した「遺産」が、後の日本ですさまじい戦果を残します。彼が指導した「東郷平八郎」が、「日露戦争」において大国ロシア「バルチック艦隊」を撃破。
日本は「大国」へと大きく踏み出すこととなるのです。
「西郷吉二郎」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ
≪3.総理大臣の職を断り続けた三男『西郷従道』≫
西郷従道。陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。
栄典は従一位大勲位功二級侯爵。
- 文部卿(第3代)
- 陸軍卿(第3代)
- 農商務卿(第2代)
- 元老
- 海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)
- 内務大臣(第4・5・18代)
- 貴族院議員
などを歴任しました。
彼は「鳥羽・伏見の戦い」や「戊辰戦争」に従軍し、兄「隆盛」に付き従って各地を転戦。
「鳥羽・伏見の戦い」では、右耳の下を負傷し、命を落としかけたと言われています。
征韓論に敗れた隆盛が下野した際、従道は政府に留まり、新しい国家をつくる役割を果たします。
様々な職歴の中で、私が最も好きなエピソードは、海軍時代の話です。
海軍大臣となると、山本権兵衛を海軍省主事として抜擢します。
そして、後に山本権兵衛を第2次山縣内閣の海相に推薦します。
そして、権兵衛は海軍で力をふるい、「日露戦争に勝つため」にはどうするかを考え、ほぼ独力で艦隊構想、人事を行い、見事に日露戦争を勝利に導きます。
日本海海戦の勝利は西郷従道・山本権兵衛そして東郷平八郎の三名によるものだといえます。
権兵衛の鬼神の様な働きもそうですが、従道の人としての大きさも見事と言えるでしょう。
従道は細かい事務は部下に任せて、ほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており、度量がとても大きい人でした。
軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だと言われています。
ある日、従道が井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際
「実はわしもわからん。
部下の山本(権兵衛)ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」
と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがあります。
兄・隆盛ゆずりの度量の大きな人だったのでしょうね。
西郷従道は、何度も総理大臣に推されましたが、兄・隆盛が西南戦争で逆臣とされていたため、固辞し続けました。
1902年、従道は「胃がん」で亡くなります。享年59才。
亡くなった「目黒の自宅」は、今も重要文化財として保存されています。
従道は
「なるほどなるほど」
が口癖だったため
「成程(なるほど)大臣」
というあだ名がついたそうです。
ちなみに
2018年の大河ドラマ「西郷どん」で・・・西郷信吾が、内田有紀さんが演じる「おゆう」という舞妓を口説いていたシーンが有りましたが・・・大久保利通との間に4人の子を生んだ愛妾(愛人)・・・それが「おゆう」さんなのです。
大久保利通
島津久光の側近として、「日本の近代化」へ久光を上手に操縦していく、いわゆる黒幕・・・。「おゆう」との関係が妻「大久保満寿子」さんに知られることとなるのでしょうが・・・どういう展開をみせるのか気になるところです。
「西郷従道」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
≪4.隆盛に最も愛された四男『小兵衛』≫
小兵衛はその面影、性格は隆盛に最も似ているとされています。
生涯一私人として、官職に付くことはありませんでした。
隆盛は年の離れた小兵衛を大層可愛がっていたといいます。
明治10年(1877年)、西南戦争が始まると、薩軍第一大隊第一小隊長として従軍します。
西南戦争の高瀬の会戦で小兵衛は戦死します。
胸部に銃弾を受けた際
「自分は、兄に先立つようだ。そのことが心苦しい。」
と言ったそうです。
小兵衛は兄・隆盛を尊敬し、常に隆盛をたすけることが自分の生涯の主題だと思っていました。
最期の言葉がその事をよくあらわしています。
小兵衛が戦死したことを聞いた隆盛は、号泣したといいます
三人の弟たちに支えられた西郷隆盛・・・その偉業は、決して一人で成し遂げたものではなかったのでしょうね。
≪まとめ≫
本日の記事をまとめますと
・西郷隆盛の3人の弟は上から順に、吉二郎、従道、小兵衛
・吉二郎は隆盛不在の西郷家をよく守り、隆盛から実際の兄と呼ばれました。戊辰戦争で戦死します。
・従道は明治政府で海軍大臣他顕職を歴任します。日露戦争の日本海海戦を勝利に導きます。
・小兵衛は隆盛が最も可愛がった末弟です。面影、性格は隆盛に最も似ているとされています。西南戦争で戦死します。
西郷家は隆盛・従道の兄弟が有名ですが、吉二郎・小兵衛もそれぞれ活躍をしており、戦死が悔やまれます。
以上。
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