皆さんは「清少納言の夫や子供」がどんな人なのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 清少納言は二度結婚しており、橘則光と藤原棟世という夫がいた
- 二人の夫との間に、それぞれ橘則長と、小馬命婦という子供がいた
- 清少納言の兄は、源頼光の配下である四天王に討ち取られたという
この記事では「清少納言の夫や子供」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「清少納言の家族」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「清少納言の家族」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
清少納言の二人の夫:橘則光と藤原棟世
清少納言は、その生涯で二人の夫と結婚しています。
一人は橘則光、もう一人は藤原棟世です。
これら二人の夫との関係、そして彼らとの間に生まれた子供たちが、彼女の人生と作品にどのような影響を与えたのかを探ります。
最初の夫・橘則光
清少納言は、981年頃に、最初の夫である橘則光と結婚しています。
橘則光は、宮中につかえるだけではなく、同時に藤原道長を支えた藤原斉信の家司つまり部下だったようです。
則光は、盗賊に襲われた際に、それを返り討ちにしてしまうほど、武勇に優れた人物でした。
その上に、歌人としても優秀でした。
しかし清少納言は、そんな則光のことを全く評価していなかったようです。
「枕草子」の七十八段や八十段には、気が弱く、清少納言が仕掛けた謎かけに全く気が付かない夫について、歌を詠まない人だということが記されているのです。
これは超一流の文化人だった清少納言からすれば、ただ物足りないだけで、則光が歌が苦手だったわけではないと感がられます。
982年、二人のあいだに息子・橘則長が誕生。
その後、なんとなく仲が悪くなり、998年の頃には、すでに離婚していたといわれています。
つまり、清少納言は夫を捨てたということかもしれません。
このとき息子の橘則長は、夫・則光が引き取ったと考えられます。
二人目の夫・藤原棟世
清少納言の二人目の夫であり、妻よりも20歳以上も年上だったといわれています。
最初の夫・橘則光との離婚がいつ頃かはっきりしていませんが、986年の頃には、藤原棟世と結婚していたという説があります。
二人の間には、小馬命婦という娘が誕生しています。
998年から999年の頃には、その娘が、10歳で一条天皇の中宮・藤原彰子につかえたといわれています。
1000年頃、清少納言の主人であった藤原定子が死去。
その後、清少納言は藤原棟世がつとめていた摂津国に身を寄せたとのことです。
このことから、二人の仲が、それほど悪くなかったことがわかります。
はっきりした時期は不明ですが、1001年の頃に、藤原棟世は亡くなったと考えられます。
二人の夫との間に生まれた子供たち
清少納言には、二人の父が異なる子供たちがいました。
- 橘則長
- 小馬命婦
清少納言は、子供たちのことをどう思っていたのか、まったくと言って良いほど記録がありません。
くわしくは後述しますが、娘の小馬命婦については、紫式部の日記「紫式部日記」に登場しているといわれています。
清少納言の作品「枕草子」に見る夫たちへの想いとは
清少納言の作品「枕草子」を読むと、彼女が夫たちをどのように思っていたのかがわかります。
結論から言えば、清少納言は夫たちを、まったく重視していなかったと考えられます。
「枕草子」には、最初の夫・橘則光が、たびたび登場します。
そこで清少納言は、則光を気が弱く、歌を詠まない人と記しています。
それほど夫への愛情が感じられない内容となっているのです。
二人目の夫・藤原棟世にいたっては、全く登場していません。
このことから清少納言は、夫との関係よりも、自らの女房としての仕事を大切にする人だったのだと考えられます。
清少納言の2人の子供たち:息子・橘則長と娘・小馬命婦
清少納言の子供たち、橘則長と小馬命婦は、母の遺伝子を受け継ぎながらもそれぞれ異なる人生の道を歩みました。
橘則長
清少納言の息子・橘則長は、越中守正五位下という官位までのぼり、任地の越中(富山県)で亡くなっています。
享年53歳。
則季と則孝という二人の子がいたといわれています。
この孫の橘則季が、枕草子を世に広めた人物のひとりだといわれています。
小馬命婦
小馬命婦は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮・藤原彰子につかえています。
彼女はわずか10歳で、彰子につかえたとされています。
彰子には、紫式部も女房としてつかえており、「紫式部日記」にも「髪の美しい女房・こまのおもと」として登場しているという説があります。
清少納言の子供たちが受け継いだ文学と才能
清少納言の子供たちが、彼女の文学の才能を引き継いだ可能性は、低いと考えられます。
橘則長については、歌についての才能を発揮したというエピソードがないのです。
ただ、娘の小馬命婦については、歌の才能を発揮したというエピソードがあります。
小馬命婦の娘が、紫式部の孫である高階為家という男性に言い寄られたことがあるようです。
一度は良い関係だったものの、二人はその後関係が解消されたのだとか。
それにもかかわらず、高階為家は、何事もなかったかのように、小馬命婦の娘に歌をおくって言い寄ったのだとか。
小馬命婦が娘の代わりにこの高階為家に、交際を断る歌を送ったというエピソードがあります。
為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき
後拾遺集 908番
高階為家が、通っていた女性のもとへ通わなくになったある日、為家から女に
「葵祭りの前夜の日暮れには、この葵(逢う日)のように、あなたに会いにいきましょう」と言って、葵を持たせて送ってきたので、娘に代わって、こんな歌を詠んだ。 小馬命婦
この葵には、美しかった時の草には見えません あなたが離れていったように、枯れてしまったの。
それなのにどういうわけで 今日は葵という花と逢う日という言葉を懸けて、あなたに会わなくてはいけないのでしょうか。(今更あう気はありません)
これが本当なら、紫式部の孫が、清少納言の孫に言い寄っていたことになります。
清少納言の父と兄!壮絶な最期を遂げた兄のエピソード
父・清原元輔
清少納言の父。
万葉集などの編纂を担当した役人で、歌人でした。
周防守や肥後守に任命され、周防(山口県東部)や肥後(熊本県)などにおもむいたといわれています。
特に周防には、清少納言を連れていったともいわれているようです。
歌人としてはとても優秀な人物だったといわれています。
ハゲ頭で、その頭を笑われた際に、過去の事例を次々挙げて、人々を笑わせたというエピソードが残っています。
とても面白い人物だったようです。
兄・清原致信
清少納言の兄。
1017年、権力闘争に巻き込まれ、邸宅を突然、源頼親の兵士たちに襲撃され、討ち取られています。
実はそのとき、この清原致信の邸宅には、清少納言もいたのでした。
つまり清少納言は、目の前で兄を惨殺されたということです。
この件について、清少納言にどのような影響を与えたのかは、記録がありません。
https://saigotoshiin.com/seisyonagonsaigotoshiin/
一説によると、清原致信を討ったのは、源頼親の兄・頼光の配下である頼光四天王による犯行だったともいわれています。
余談ですが、頼光四天王のひとり坂田金時は、童話「金太郎」のモデルだともいわれています。
つまり清少納言の兄は、金太郎に討ち取られたということです。
清少納言とは、そもそも何した人なの?
清少納言は「枕草子」の作者で、有名な女流作家
清少納言は平安時代中期の女性作家であり、『枕草子』の著者として広く知られています。
彼女は、一条天皇の時代に藤原定子(一条天皇の中宮)に仕えたことで知られ、その経験は『枕草子』に色濃く反映されています。
『枕草子』は、日本の随筆文学における傑作の一つであり、清少納言の観察眼、ウィットに富んだ表現、そして貴族社会の日常生活についての洞察が評価されています。
彼女は、当時の女性としては珍しいほどの教養と文才を持ち、自身の感受性や美意識を独自の文体で表現しました。
『枕草子』には
- 宮廷生活の風俗や四季の移ろい
- 人々の間の微妙な感情
などが綴られており、平安時代の宮廷文化や女性の生活を垣間見ることができます。
清少納言の作品は、時を超えて現代にも引き継がれ、彼女の文学的才能と宮廷生活への洞察力が高く評価されています。
彼女が仕えた定子のライバルにあたる彰子には、「源氏物語」の著者である紫式部がいます。
一条天皇と、清少納言の主人・定子、そして紫式部の主人・彰子は、複雑な権力闘争と三角関係という、難しい関係にあったのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 清少納言は二度結婚しており、橘則光と藤原棟世という夫がいた
- 二人の夫との間に、それぞれ橘則長と、小馬命婦という子供がいた
- 清少納言の兄は、源頼光の配下である四天王に討ち取られたという
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント