明治維新の英雄「西郷隆盛(さいごうたかもり)」。3人の妻との「馴れ初め」とその後の「生涯」を、わかりやすく解説いたします。
「伊集院須賀(いじゅういんすが)」「愛加那(あいかな)」「西郷糸子(さいごういとこ)」
一人は行方不明。二人は西郷の死後も生き抜いた
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この記事を短く言うと
・最初の妻「伊集院須賀」は、短期間で離婚・・・。離婚原因は困窮と体調不良
≪一人目の妻【伊集院須賀】との馴れ初めと生涯≫
「須賀」との馴れ初め
伊集院須賀
父の名前は「伊集院兼善」の娘。伊集院家は、戦国時代にも島津家の家来として有名な名家
須賀の家はその「伊集院家」の分家
須賀の弟に後の元老院議員・貴族院議員「伊集院兼寛lがいます。
西郷隆盛と伊集院須賀は、1852年に結婚
西郷が近所に住んでいた「須賀」に一目惚れして、結婚を申し込んだという説があります。または、両親同士が決めた結婚だったとも言われています。
2人は1854年に離婚
離婚原因は「貧困」と考えられています。
西郷は結婚生活の後半、江戸へ島津斉彬のお供として出張していました。
その間、伊集院須賀は幼い西郷の弟たちの世話をし、貧しい西郷家で四苦八苦
そのまま体調を崩したと言われており、父が見かねて引き取ったとか。
2人の離婚は仕方のないもので、伊集院家と西郷家の関係は、その後も良好だったと言われています。
ただ、西郷はこの離婚を生涯にわたって悔い、二人目の妻「愛加那」との結婚にもためらうこととなる一因になったのでした。
離婚後
離婚後、伊集院須賀はどうしていたのか?
実は記録が全く残っていないので、わかりません。
もしかしたら、若くして亡くなったのかも・・・。
とはいえ、さすがに亡くなっていたなら、西郷隆盛サイドの記録に、そのことが残っているはず。
それがないということは、おそらく彼女はその後、平穏に再婚したのでしょう。
記録がないのは、後に歴史に名を残した「西郷隆盛」と離婚したことを恥じた伊集院家の事情により、記録を残さなかったのではないでしょうか。
幸せな一生を送ったことを祈るばかりです。
≪二人目の妻【愛加那】との馴れ初めと生涯≫
二人目の妻「愛加那」
西郷の長男「菊次郎」と、長女「菊草」

愛加那
『引用元ウィキペディアより』
ちなみに、
「愛加那」との出会い
大老「井伊直弼」による「安政の大獄」によって、追われる身となった「西郷隆盛」と、その盟友「月照」
薩摩藩から庇護を拒まれた月照・・・・西郷はそんな月照とともに錦江湾へ入水
月照は亡くなり、西郷だけが生き残りましたが、あくまでも西郷は「幕府」に追われる身。
「菊地源吾」と改名して、奄美大島で潜伏生活をするようになりました。
そのときに出会ったのが、奄美大島の名家「龍家」の一族「とま」
当初、西郷は島一番の美女「愛千代」に恋をしていましたが、人妻だったので失恋。
そして島の人達からすすめられたのが「とま」
2人は結婚して、そのとき「とま」は「愛加那」と改名
2人の間には「菊次郎」と「菊草(菊子)」が誕生しますが、西郷は奄美大島で3年すごした後に鹿児島へ帰還。
愛加那は、当時の「島妻は本島につれていけない」という法律が原因で、奄美大島に残ります。
西郷と別れた後
愛加那は西郷と別れた後、しばらく菊次郎や菊草とともに生活します。
その後、西郷隆盛は「糸子」と再婚
成長した菊次郎や菊草は、西郷と糸子に引き取られます。
菊次郎はアメリカへ留学し、西南戦争で足を負傷・・・・その後、京都市長に就任。
菊草は西郷の従兄弟「大山誠之助」と結婚
愛加那は、度々息子菊次郎の里帰りを迎えますが、1902年に脳溢血で亡くなります。
甥「丑熊」を養子にはしましたが、生涯再婚しなかったとのこと
ちなみに娘の「菊草」は、夫「大山誠之助」の借金と暴力に苦しみ、最期は兄・菊次郎とともに生活したみたいです。
≪三人目の妻【西郷糸子】との馴れ初めと生涯≫
西郷隆盛の最期の妻「岩山糸子」

西郷糸子
『引用元ウィキペディアより』
西郷隆盛との間に「寅太郎」、「牛次郎」、「酉三」という三人の子供をもうけます。
「糸子」との馴れ初め
1865年、西郷隆盛は糸子と結婚。
当初、西郷は愛加那を想い、再婚には消極的でした。
しかし、坂本龍馬から妻を持つことをすすめられたとか。
小松帯刀が、「岩山糸子」を見つけて結婚をすすめたようです。
糸子と西郷は、共に「雨漏り」する鹿児島の借家で生活。
この「糸子」という人は、「子供達を笑わせることが大好きな、陽気な人」だったようです。
愛加那の子供「菊次郎」「菊草」を引き取って育て、西郷の弟「吉二郎」や「小兵衛」の妻やその子達と共に生活し、子供達をまとめて面倒見ていたようですね。
西郷隆盛の死後
西南戦争で西郷が亡くなっても、糸子は子供達との生活を続けます。
やはり政府軍によって西郷を殺害されたという意識があったのでしょう。
「役人からの香典は受けられない」として、多額の香典を家人「熊吉」に変換させたと言われています。
また、糸子は非常に出来た人で、「愛加那」に対しても仕送りをしたと言われています。
上野に「西郷像」が出来た時
「夫はこんな人じゃなかった」
と叫んで、弟「西郷従道」に注意されたという話は有名です。
ただ、この発言の意味は「顔が違う」という意味ではなく、
「西郷は、こんな粗末な服装で人前に出るような人ではなく、どんな人にも丁寧に対応する誠意ある人だった」
という意味だったみたいです。
その証拠に、西郷の顔を知っている人達は、上野の西郷像の顔について、特に異論を述べていません。
1922年、糸子は79歳で亡くなります。
西郷隆盛の孫で、法務大臣「西郷吉之助」の話によると、糸子はとても明るい人で、愚痴の1つも口にしない人・・・いつも明るい思い出を語ってくれた人だったようです。
実業家で、糸子が身を寄せた次男「牛次郎」の妻「ひで」が言うには、彼女は晩年「芋粥」を好み、
「幸せ」
と笑顔でそれを食べていたみたいです。彼女の人柄が偲ばれる逸話ですね。
とはいえ苦労がなかったわけではなく、西郷隆盛や、長男「寅太郎」、三男「酉三」に先立たれています。
波乱の生涯を終えた糸子・・・・現在は東京の青山墓地で眠っています。
≪まとめ≫
本日の記事をまとめますと
・最初の妻「伊集院須賀」とは、貧困が理由で離婚
・「愛加那」とは、当時の法律が原因で、3年ほどで離婚
・糸子は、西郷の死後、西郷家の子供達を育て上げた
以上となります。
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