MENU

西郷隆盛の誕生日や出身地を解説!西郷の家紋は天皇から拝領したの?

「西郷隆盛」について「誕生日」「出身地」、そして「家紋」を画像付きで解説いたします。

明治維新の英雄「西郷隆盛」、1827年12月7日生まれ。

出身地は「薩摩藩・鹿児島・下鍛冶屋町」

家紋である「抱き菊の葉に菊」は、明治天皇から下賜されたもの。

明治天皇は西郷を、とても信頼しておられた。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

・西郷隆盛の生年月日は「1827年1月23日(旧暦・文政11年12月7日)

没年日は「1877年(明治10年)9月24日

享年51(満49才)

 

・出身地は、鹿児島下鍛冶屋町(したかじやまち)

 

・西郷隆盛と大久保利通は、ご近所で生まれ育った幼馴染

 

・西郷の家紋「抱き菊の葉に菊」は、明治天皇から下賜されたもの


西郷隆盛の誕生日は?命日は?

西郷隆盛の生年月日は1827年1月23日(文政11年12月7日)

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

父 「西郷吉兵衛」

母 椎原権衛門の「娘・マサ」の長男として、後の西郷隆盛は薩摩国鹿児島城下下加治屋町山之口馬場(鹿児島県)に生まれました。

幼名は小吉、最初は西郷吉之介として知られています。

弟3人、妹3人がおり、祖母を加えた11人家族でした。

没年月日は1877年(明治10年)9月24日 享年51(満49才)

潜伏していた洞窟を出て出て島津応吉久能邸門前で、腹と股に銃弾を浴び、同行していた別府晋介が介錯し、西郷は切腹しました。



スポンサーリンク


西郷隆盛や大久保利通の出身地

西郷隆盛は、薩摩藩の下加治屋町(したかじやまち)で生まれました。

下加治屋町は城下町ではありますが、城(鶴丸城)からは遠く、下級藩士の家が立ち並んでいたところとされます。生誕地は西郷隆盛の父である吉兵衛の家です。

大久保利通と西郷隆盛は、同じ方限、同じ郷中で生まれ育った「竹馬の友」だと言われています。

ふたりが少年の頃の鹿児島(薩摩)は、城下が17~18の「方限(ほうぎり)」と称される区画に区切られていて、西郷と大久保のいた町内は「下鍛冶屋町方限(したかじやまちほうぎり)」と呼ばれていました。

2人の家は、150メートルほどしか離れていなかったと言われています。

二人は若いころ、精忠組というグループに一緒に参加しており、精忠組のリーダーをしていた西郷隆盛を敬い、押し立てていたのが幕末期の大久保利通の姿ともいえます。

この下鍛冶屋町からは、明治大正昭和にかけての逸材が多数輩出されています。

この町に住んでいた有名な明治維新関連・薩摩藩士は、西郷隆盛・大久保利通・大山巌・吉井友実・村田新八などと、そうそうたる顔ぶれです。

隣の高麗町(これまち)を含めると大臣大将級30余名、爵位を受けた者30余名、贈位されたもの40余名に上るすさまじさ。

この「下鍛冶屋町」は、山口県萩市の「松下村塾」と並んで、「明治維新の聖地」と化しているわけです。

小さな下加治屋方限の中で、これだけ歴史上の人物が排出されるのは驚きですね。



スポンサーリンク


下鍛冶屋町方限の中には、さらに青少年の集まる「郷中(ごじゅう)」がありました。

ご近所さん同士で子供たちの複式学級があるようなもので、年上の者が年下の者に教え、面倒をみるというものです。

こういった薩摩藩の郷中教育が、たくさんの優秀な人材を輩出した一因ではないかと言われています。

西郷隆盛と大久保利通の関係

西郷と大久保は狭い下鍛冶屋町の町内で頻繁に行き来をしており、大久保の妹たちの証言では、ほぼ毎日ふたりは一緒だったと言っています。

大久保は西郷に対して常に一目置いて接していました。これは西郷の方が2つ年上であったために、大久保が西郷を、まるで兄のように慕っていたから。

国の大事に関しても大久保は、西郷に折に触れては相談をして意見を聞くと言うスタンスでした。

そして、圧倒的な人望と行動力を持つ西郷が、大久保の後ろ盾となり、大久保は自分の決断に勇気を持つことができたわけです。

間違いなく、ふたりは兄弟のようにして育った幼馴染でした。

ですが明治になってから、二人の間に食い違いが生じます。(明治六年の政変)

最終的には、西郷隆盛が大久保利通に敗れ、ふるさとである鹿児島へと戻ってしまいます。

その後、西郷と大久保は、ともに壮絶な「最期」を遂げることになります。

1877年2月、西郷が鹿児島に戻ってから4年後、「西南戦争」勃発。

同年9月、西郷隆盛は戦死。

1878年5月、大久保利通、「紀尾井坂の変」で暗殺。

西郷隆盛の最期」「大久保利通の最期」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



スポンサーリンク


西郷の家紋とは?

西郷隆盛の家紋と言えば、丸に十文字の紋が思い浮かぶ方も多いでしょう。

丸に十字

『引用元ウィキペディアより』

これは島津氏のもので、勝海舟との対面時に付けていたとされます。

西郷隆盛の家は「肥後菊池氏」の流れをくむ家という言い伝えがあり、「菊池氏の菊」が家紋になっていると言われています。西郷氏は菊池氏の一族として「違い鷹の羽」を用いることが多かったようです。

違い鷹の羽

『引用元ウィキペディアより』

一方、西郷隆盛の家紋は「抱き菊の葉に菊」を用いており、隆盛が用いたことから別名を「南州菊」とも呼ばれています。

 

以下に「抱き菊の葉に菊」画像をご用意いたしましたが、この画像は「広告」となっております。

適切な画像をご用意できず、申し訳ありません。

 

抱き菊の葉に菊

家伝ではこの家紋は明治天皇より下賜されたもので、本来は菊花紋のない「菊の葉」を用いてきたと伝えられています。

「抱き菊の葉に菊」は、明治天皇自らが考案されたもので、天皇を左右から補佐せよという意味であったと言われています。隆盛は恐懼して退下し、家人を集めて、その由来を話し「この紋は一代のもの」と戒めたといいます。

そのためか、子孫の家にこの家紋は伝わっていないようです。

明治天皇が、どれほど西郷隆盛を信頼しておられたのかが、よくわかります。

菊の紋、「十六弁八重菊」は現在も使用されている皇室の専用紋です。

十六弁八重菊

『引用元ウィキペディアより』

菊花紋章は、菊の花と葉をデザイン化した紋のことで、鎌倉時代に「後鳥羽上皇」がその紋章をしるしとして使用したことが始まりです。

西郷隆盛が使用していた「抱き菊の葉に菊」は、上に貼りましたリンク画像のように、菊の葉が花を抱いているように見えるデザインの家紋です。



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

西郷隆盛の生年月日は「1827年1月23日(旧暦・文政11年12月7日)」。没年日は「1877年(明治10年)9月24日 享年51(満49才)

・西郷隆盛と大久保利通は同郷で、幼馴染みである。

・西郷隆盛の家紋は「抱き菊の葉に菊」明治天皇より下賜されたもの。

いかがでしたか。西郷隆盛について、さらに興味がわいたのでなないでしょうか。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

「西郷隆盛」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

これらの記事でも「西郷隆盛」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。

「西郷隆盛」の記事一覧

 

「西郷隆盛」の関係者 記事一覧

 


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次