【山田顕義とは】生涯と死因を解説!日本大学の学祖とナポレオンの運命

天才「吉田松陰」最後の弟子にして、「西郷隆盛」が「軍事の天才」と評価した「山田顕義(やまだあきよし)」について「生涯と最期・死因」を、わかりやすく解説いたします。

「日本大学」「國學院大學」の基礎をつくった山田顕義は、ナポレオン法典と出合い運命が変わった


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この記事を短く言うと

・「山田顕義」とは、「吉田松陰」最後の弟子にして、軍事・法律の専門家。明治政府の偉い人

・長州藩で産まれた「山田顕義」は、戊辰戦争などで活躍している

・「ナポレオン法典」という「法律辞典」と出会った山田顕義は、「法律」というものの重要性を知り「日本大学」「國學院大學」の基礎をつくった

・1892年に亡くなった。死因は脳溢血


《山田顕義とは?何をした人?》

≪山田顕義≫
「引用元ウィキペディアより」

「山田顕義」

明治新政府で、何度も「司法大臣」を歴任し、法整備に勤めた人物。

吉田松陰、最後の弟子。「松下村塾」最年少の人物。

また、西郷隆盛から「軍事の天才」と恐れられた人物でもあります。


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『山田顕義』の功績

「山田顕義」の功績を短く解説いたします。

・四境戦争(第二次長州征伐)にて、幕府軍を各地で撃破

戊辰戦争に参戦し、各地を転戦する

・岩倉使節団に同行し、法律の重要性を学び、後に司法大臣となって「明治法典」をまとめる

・皇典講究所の所長として、日本大学の前身「日本法律学校」設立を支援した

・皇典講究所内に、国文・国史や国法を研究するため、「國學院(後の國學院大學)」を創設

長州藩の「吉田松陰」・・・・山田顕義は、その吉田松陰に最年少14歳で弟子入りした最後の弟子。

子供のころは「鼻たれだるま」などと呼ばれ、何の才能もない人物と呼ばれていました。

伯父である兵学者「山田亦介」や「中村九郎」たちから兵学を叩き込まれ、吉田松陰からも指導されることとなり才能が開花。

戊辰戦争の際に「西郷隆盛」から、「用兵の天才」と呼ばれた「山田顕義」・・・しかしその後半生は、「軍事」ではなく「法律」を重視していました。


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《生涯と最期》

1844年、「山田顕義」誕生。子供のころはわんぱくで、木に登って放尿していたら母親の顔に当たったり、武士の魂である刀を置き忘れたりと、ちょっと抜けたところがあったようです。

長州藩の藩政改革を断行した「村田清風」を大伯父にもつ名家出身であったため、英才教育を施されたようです。藩校明倫館で柳生新陰流を学び、兵学なども叩き込まれたのだとか。

松下村塾・・・・・長州藩屈指の英才「吉田松陰」が開いた私塾で、「久坂玄瑞」「高杉晋作」「吉田稔麿」「伊藤博文」「山県有朋」など、後の世を形作る逸材を次々と育てた名門。

1857年、山田顕義は14歳で「松下村塾」に入門。吉田松陰は山田顕義をかわいがり「人生は100年もない。人と異なることを恐れず、だらしのない日々を送ることのないようにしなさい」と諭しました。

1863年、「八月十八日の政変」で長州藩が京都から追放されると、「七卿」と呼ばれる長州支持の公家たちとともに長州へ。

1864年、「禁門の変」に参戦するも、大敗。長州へ逃亡。

1865年、長州藩の天才兵学者「大村益次郎」の普門寺塾で「西洋兵学」を学んでいます。

同年、「御盾隊」を結成して「下関戦争」で戦うも、「イギリス」「フランス」「アメリカ」「オランダ」を相手に大敗。

その後、長州藩は幕府による「第一次長州征伐」に降伏。

同年、高杉晋作が起こしたクーデター「功山寺挙兵」に参加し勝利。幕府へ降伏を進める藩政を「倒幕」へと方針転換させることに成功。

1866年、「四境戦争(第二次長州征伐)」で、部隊を率いて各地で勝利。同年7月「徳川家茂」が大坂城で病死し「四境戦争」は実質長州の勝利となります。

1868年、戊辰戦争の前哨戦「鳥羽伏見の戦い」へ1000名の軍を率いて参戦。

同年、戊辰戦争で各地を転戦。

1869年(明治2年)、大村益次郎が亡くなり、その意志を継ぐように「国軍」の創設と「兵部省」創設に尽力。

1871年、陸軍少将に任命

同年、岩倉使節団に同行。アメリカをはじめとして、欧州各地を視察。この視察で「法は軍事に勝る」と悟り、法律に強く関心を示すようになる。

1873年、帰国。「明治六年の政変」で「西郷隆盛」「江藤新平」らが一斉に下野。

1874年、江藤新平による「佐賀の乱」が勃発。鎮圧のために九州へ。

同年、司法次官に就任。

1875年、刑法編纂委員長に就任し、刑法の整備に尽力。

1877年、西南戦争が勃発。鎮圧のため、山田顕義も参戦。西郷隆盛死去。

1878年「陸軍中将」に任命される。

1881年、参議・内務卿に就任

同年8月、「皇典講究所」を設立

1883年、内務卿を辞任し、司法卿に就任

1885年、第一次「伊藤博文」内閣で「司法大臣」を務める

1888年、黒田清隆内閣でも、「司法大臣」に

1889年、皇典講究所の所長に就任。

同年、日本大学の前身「日本法律大学」を設立。

同年12月、第一次「山県有朋」と内閣でも「司法大臣」を務める

1891年、第一次「松方正義」と内閣でも「司法大臣」に留任。

同年、ロシア皇太子「ニコライ」が、大津で斬りつけられるという「大津事件」が勃発。ロシアとの関係悪化を恐れた山田顕義は、犯人「津田三蔵」に対して死刑を適用すべしと主張するも、死刑は適用されず。

直後に「司法大臣」を辞任。

1892年、枢密顧問官に就任。

山田顕義の最期・・・死因は?

同年11月。生野銀山を視察している最中に倒れて、そのまま亡くなる・・・享年49歳。死因は脳溢血

墓所は東京都文京区大塚の護国寺・・現在「日本大学豊山高校」の敷地となっています。


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《軍事の天才「山田顕義」・・・ナポレオンと出会う》

元々「山田顕義」は、兵学者の一家に生まれたため、兵学を叩き込まれて育ちました。

凡人とあだ名されていた山田顕義でしたが、「高杉晋作」や「大村益次郎」から評価され、「西郷隆盛」からは「神算鬼謀の将」と呼ばれて大変恐れられていました。

ナポレオン法典・・・・フランス皇帝「ナポレオン」が残した法典です。この「ナポレオン法典」は、近代的法典の基礎となっている代物。岩倉使節団に同行して、ナポレオン法典に出会った「山田顕義」はこう言います。

「法律は軍事に優先する」

これからは兵学の時代ではなく、法律の時代と考えた山田は、法律の研究に没頭。

刑法・民法・商法・民事訴訟法・憲法草案まで・・・山田顕義は、近代日本を法治国家とするため、ありとあらゆる努力をしています。

軍事の天才ナポレオン・・・彼は法律や政治においても革命的で、近代の基礎をつくった人物です。ナポレオンが残した法の基礎は、山田顕義の手で日本にも影響を与えているのです。


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《「日本大学」「國學院大學」との関係》

山田顕義ですが、「日本大学」と「國學院大學」につながりを持っています。双方ともに、正月の風物詩「箱根駅伝」常連校ですが、どういうつながりがあるというのか。

1881年、山田は「皇典講究所」を設立。

日本の法整備を急いでいた山田顕義は、「宮崎道三郎」や「金子堅太郎」が、自分と同じく「法律学校」設立を志していることを知り、自らが所長を務めている「皇典講究所」の校舎を貸し、「法律学校」設立を後押し。

1889年、日本大学の前身「日本法律学校」が設立されることとなります。

日本大学の創設者は「宮崎道三郎」、初代校長は「金子堅太郎」ですが、日大は「山田顕義」を「学祖」としています。

1890年、「皇典講究所」が教育機関としての任務も帯びるようになり、「國學院」が開校。

現在「國學院大學」は、神道の大学として有名ですし、日本大学は日本最大の大学として人材を育成しています。

軍事、法律のみならず、教育の分野でも、山田顕義は功績を残しています。


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《『山田顕義』について、レビュー(評論)!》

山田顕義・・・幼い頃はかなりぼんやりしたお子様だったらしく、評価が低いです。しかしそれでも「高杉晋作」からは「奇兵隊」の後継者として認められ、西郷隆盛もまた「軍事の天才」を称したお方。

49歳という若さで亡くなってしまったのは、悲しいですね。葬儀は母親が行ったということですから、かなり早い死だったのです。

上野戦争で「彰義隊」をあっという間に壊滅させた靖国神社の銅像「大村益次郎」さん・・・その大村さんから「西洋兵学」を学んだ山田顕義ですが、その本領を発揮することは出来ていたのでしょうか?

おそらく、その能力をいかんなく発揮することは、出来ていなかったでしょう。

もう少し長生きして、「日清・日露戦争」で、能力を発揮してほしかったと思います。そうなったら「大山巌」や「東郷平八郎」のように、名将として歴史に名を残していたかもしれません。

一つだけ残念なのは、法律を定めてきた「山田顕義」が、「大津事件」の犯人「津田三蔵」を死刑にしようとしていたこと。法律を定めた側なのだから、その法を順守してほしかった・・・。津田三蔵は「無期懲役刑」となっています。

ちなみに、ロシアを恐れていた「西郷従道」もまた、「死刑」にすべきと主張していました。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・山田顕義は、幕末の長州藩士。吉田松陰最後の弟子。

・四境戦争や戊辰戦争で功績を残し、西郷隆盛から「軍事の天才」と呼ばれた

・後に「ナポレオン法典」と出会い、法律の重要性を知り、法整備に尽力する

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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