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西郷隆盛と明治天皇の関係!反乱を起こした西郷はなぜ英雄になれた?

明治天皇と西郷隆盛が、とても深く信頼しあった間柄だったことをご存知でしょうか?

明治10年に「西南戦争」を起こし、「逆賊(天皇の敵)」となったはずの西郷さんですが、今の日本で西郷さんを「逆賊」と罵る人は一人もいません。

西郷さんは亡くなってから、わずか12年で、「逆賊の汚名」を返上しています。それは名君「明治天皇」のおかげなのです。

この記事では「明治天皇」と「西郷隆盛」について、わかりやすく詳しく解説いたします。


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この記事を短く言うと

西郷隆盛西南戦争という反乱を起こしても、明治天皇は西郷を信頼しきっていた

・明治天皇は、西郷に厳しく育てられ、西郷を信頼し、その死を深く悲しまれた

・反乱を起こしたといっても、国民の誰もが西郷の「清廉潔白」な人がらを知っていた


「西南戦争」という反乱を起こした「西郷隆盛」が、なぜ「英雄」になれたのか?

「西南戦争」の直前、薩摩の不平士族の新政府への不満は、もはや西郷隆盛といえども抑えることができないレベルに達してしまいました。

西郷は薩摩士族に自らの身を預け、西南戦争に出陣します。

西郷が西南戦争を起こした理由としては、

・不平士族を自ら率いることで、内戦の被害を最小限に抑えようとした。

・政府の腐敗を正すため、力により政府を問いただそうとした。

・負けた場合には、西南戦争を最後の士族反乱にしようとした。

等が考えられます。



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理由がなんであれ、西南戦争は薩摩士族の明治新政府に対する反乱です。

しかし、西郷は当時の人々から逆賊としては扱われず、明治維新の英雄としてその死を惜しまれました。

それは、西郷が維新の大功労者であり、「大久保利通」をはじめとする明治新政府の人々は大なり小なり西郷の恩恵を受けており、西郷の死を逆賊としてではなく、鄭重に尊厳をもって扱ったからです。

「明治天皇」もまた、西郷を愛し、その死を悲しみました。

《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』

明治天皇に愛され、絶大な信頼があった事も、西郷が英雄視された理由のひとつです。

《明治天皇》
「引用元ウィキペディアより」

西郷は明治天皇のよき教育者であり、明治天皇もよく西郷の言う事をよく聞きました。

西南戦争が始まった際には、西南戦争に至った西郷に同情していたとか。

戦争の結果として、西郷を殺すことになるとは、思ってもいなかったようです。



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「明治天皇」が西郷隆盛を心から信頼した理由とは?エピソードをご紹介

「明治天皇」と「西郷隆盛」のエピソード

●ある時、明治天皇が馬場で練習していたとき、落馬してしまいます。

思わず「痛い」とうめいた明治天皇に、西郷は馬上から天皇を見下ろして

「痛いなどという言葉は、どんな場合でも男はいってはいけません」

とたしなめたそうです。

その後、天皇は病床でも、いっさい苦痛を訴えなかったそうです。

2回ほど総理大臣をつとめた「西園寺公望」は、天皇から

「西郷からそう教えられた」

と言われたとか。

西郷が天皇の中に深く刻み込まれていたのでしょう。

 

●明治天皇が少年の頃、言うことを聞かない天皇に対して西郷は

「そんなことでは、また昔の身分にかえしますぞ」

と叱りつけると、たちまちおとなしくなったという話があります

 

●西郷は相撲にかこつけて明治天皇をなぐり、女官あさりをやめるように忠告したというエピソードもあります。

 

●西南戦争での西郷の死の知らせを聞いた明治天皇は、翌年・西郷の追悼歌会を開き、皇后以下女官たちへ「西郷隆盛」というお題で和歌を詠むように命じました。

その際、西郷隆盛の罪を入れることは禁じられたそうです。

天皇に対して反乱を起こした逆賊であるはずの西郷を、歌の題にする・・・西郷を信頼していた明治天皇の大御心がうかがえます。

 

●日露戦争のあと

「朕(わたし)を本当におもってくれたのは、西郷ただ一人であった」

と明治天皇が言って、涙を流したそうです。

「明治天皇」と「島津斉彬」

どのエピソードも西郷と明治天皇の緊密な人間関係が分かります。

西郷は心から明治天皇をおしたいし、熱心にご教育申し上げました。

おそらくですが西郷は明治天皇に、かつての主君であり名君の誉れ高い薩摩藩主「島津斉彬」公のような「名君」にお成りいただきたかったのでしょう。

島津斉彬
『引用元ウィキペディアより』

そして明治天皇も、親身になって自分を指導してくれた西郷隆盛を心から愛し、信頼していたのです。

明治天皇は、後進国であった「日本」を率いられ、明治維新からわずか40年足らずで、超大国「ロシア」を「日露戦争」で撃破するほどの強国へと導かれました。

西郷の教育のおかげなのか、「明治天皇」は「島津斉彬」をはるかに超え、世界史上でも屈指の「名君」へお成りになられたのでした。



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西郷さんがどれほど「清廉潔白」か、国民全員が知っていた

1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって、西郷の「逆徒」の汚名が解かれました。

それをきっかけに、東京都の上野公園に薩摩藩出身者が中心となって、西郷像の建設計画が始まったのです。

これは「上野戦争」で「彰義隊」を打倒した、戦勝記念のための像でした。

宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人もの有志の寄付金で建立されました。
(除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日。)

西南戦争からわずか12年で名誉回復が行われ、全国民からこれだけの寄付が集まりました。

それは、西郷の清廉潔白さを、日本国民の誰もが知っていたからこそだといえます。



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「西郷隆盛」について「ひとこと」いいたい

歴史家の「磯田道史(いそだみちふみ)」さんが、あるテレビ番組で、こうおっしゃっておられました。

「西郷は、明治天皇に『島津斉彬』のような主君になってほしかった」

島津斉彬・・・西郷隆盛が信頼し、惚れこみ、その死とともに自分もあとを追って自殺しようとしたほどの、薩摩藩の名君。

幕末四賢侯の一人である「松平春嶽」から、「真の賢侯は、斉彬公ただ一人」と言われたほどの名君でした。

明治天皇はその後、西郷が望む以上の名君となられました。

明治の時代に、日本はすさまじいまでの発展を遂げ、ついには「日露戦争」で大国「ロシア」を倒すほどになったのです。

その「日露戦争」を勝利に導いたのは、西郷隆盛の従兄弟「大山巌」と、西郷の弟「西郷吉二郎」から教育を施された「東郷平八郎」、そして西郷従道に推挙された「山本権兵衛」らだったのです。

明治天皇は、目に見えぬ形で、西郷隆盛によって支えられていたのではないでしょうか。

その明治天皇が残された「教育勅語(きょういくちょくご)」・・・今の日本でも価値のある、とてもすばらしい教えです。これを「軍国主義の象徴」などと批判する人もいるのですが、決してそんなことはなく、明治天皇が日本をどのような国にしたかったのかが、よくよく理解できる素晴らしい教えなのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・西南戦争を起こしたにも関わらず、西郷は英雄となりました。それは明治新政府の人々が西郷の恩恵を受けていた事と共に、明治天皇が西郷を愛していたという事も理由のひとつと言えます。

・西郷は心から明治天皇をお慕いし、熱心に教育申し上げました。そして天皇はそんな西郷を心から愛していました。二人の間には強い信頼関係があったのです。

・東京都上野公園に西郷像を建てる計画には、全国2万5千人もの寄付が集まりました。西郷の清廉潔白さを全国の人々の間に浸透されていたからこそです。

西郷隆盛は度量の大きな清廉潔白な人物で、周囲の人々には愛情をもって接したと言われています。
そんな西郷を明治天皇も愛しました。その徳望ある人柄で現在でも日本中の人びとから愛されているのです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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