剣豪「中村半次郎」こと「桐野利秋」について、その「生涯」と「最期」「子孫」について、わかりやすく解説いたします。
「人斬り半次郎」の最期は、壮絶なものだった。
西南戦争で西郷隆盛が亡くなった直後、額を銃撃されて戦死していた!
子孫は現在「芸人さん」として活躍中。
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この記事を短く言うと
・桐野利秋は、戊辰戦争で活躍し、明治新政府では陸軍を率い、西南戦争で西郷とともに戦った
・桐野利秋(中村半次郎)は、鹿児島で産まれ、西南戦争で壮絶な最期を遂げた
・お笑いコンビ「ソラシド」の「本坊元児」氏が、桐野利秋の子孫らしい
中村半次郎(桐野利秋)の功績を解説!
中村半次郎(なかむらはんじろう)、別名「桐野利秋(きりのとしあき)」
「人斬り半次郎」の異名をとった、薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)剣術の達人。
あの「新選組」局長「近藤勇」が
「薩摩藩の中村半次郎だけは相手にしてはいけない」
と言ったほどの剣豪。
西郷隆盛の盟友で、村田新八とともに西郷隆盛に従い、西南戦争を戦った人物

桐野利秋(中村半次郎)
『引用元ウィキペディアより』
桐野利秋の生涯と、その子孫の行方を調査してみたいと思います。
「桐野利秋」の功績
桐野利秋(中村半次郎)が残した功績を、短く解説すると、以下の通りとなります。
・戊辰戦争に参戦し、各地を転戦
・明治新政府で「陸軍少将」として活躍した
・西郷隆盛に従い、共に西南戦争を戦った
西南戦争で、桐野利秋は西郷隆盛の最期を見届けた後、村田新八とともに亡くなっています。
人斬り半次郎!その生涯と最期
桐野利秋(中村半次郎)の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
1838年、鹿児島にて、「中村与右衛門」の次男(第三子)として誕生。
西南戦争で西郷隆盛の介錯をした「別府晋介」は、桐野利秋の従弟です。
10歳のときに、父が「徳之島」へ流罪となり、家禄5石が没収。兄も18歳の若さで病没します。
相当に貧しかったと言われる「西郷隆盛」の家ですら「40石」。それに比べて「桐野利秋」は「家禄5石」。しかも没収されたのですから、かなり貧しかったはずです。
5石といえば、お米「12.5俵(750kg)」・・・それが年収の全てなのですから。
幕末の騒乱
1862年に、薩摩藩主の父「島津久光」の命令に従って京都へ。
薩摩藩士の過激派が粛清された「寺田屋事件」が起こりますが、桐野利秋は関わっていなかったとして、処罰を免れます。
後に、薩摩藩の家老「小松帯刀」に見出されて、西郷隆盛とともに薩摩藩の藩政を支える立場になります。

小松帯刀
『引用元ウィキペディアより』
桐野はこの頃、各地を旅して回っています。
1864年、桐野は「神戸海軍操練所」へ入所することを希望していたらしく、小松帯刀・大久保利通が、その希望を叶えようとしていた説があります。「神戸海軍操練所は1865年に閉鎖」されているので、桐野が希望通りに入所できたかどうかは不明。
1864年「禁門の変」で、薩摩と長州藩の関係が悪化した前後、桐野利秋は「長州との対立」に反対しています。
桐野は、長州へ向かっていますが、薩摩藩士は「禁門の変」が原因で憎まれていたため、長州へ入国できず。
そのかわり、水戸藩で起こった「天狗党の乱」を視察し、水戸藩の「武田耕雲斎」や、西郷隆盛も尊敬した思想家「藤田東湖」の息子「藤田小四郎」と面会。
桐野は「寺田屋事件」で指を負傷した坂本龍馬を、何度もお見舞いしています。筆者の想像ですが「神戸海軍操練所」への入所を希望していた桐野は、実際に操練所にいた坂本龍馬に、興味を抱いていたのではないでしょうか。この後、桐野利秋は坂本龍馬の盟友で海援隊士「近藤長次郎(まんじゅう屋長次郎)」が切腹した一件を仲間に説明しています。龍馬や海援隊と、とても親しかったことがうかがえます。
1867年、長州の「木戸孝允」「山県有朋」や、土佐藩の「中岡慎太郎」とも交流。
同年、薩摩藩で教練をしていた「公武合体派」の軍学者「赤松小三郎」を、幕府の隠密とみなして白昼堂々とこれを斬っています。
これが、後に「人斬り半次郎」と呼ばれる所以となります。ちなみに赤松小三郎とは、横井小楠の「国是七条」や坂本龍馬の「船中八策」の基礎をつくった人物ではないか?と噂されている傑物です。
同年、「近江屋事件」で暗殺された坂本龍馬・・・その暗殺犯捜索に協力しています。坂本龍馬とは相当親しかったみたいですね。
その後、新選組の内紛「油小路の変」で、元「新選組」の参謀「伊東甲子太郎(いとうかしたろう)」が亡くなると、桐野は伊東の仲間だった「御陵衛士(ごりょうえじ)」の隊士たちを薩摩藩邸にかくまっています。
これら幕末の経歴を見ると、桐野利秋が「面倒見がよく」「情に厚く」「好奇心が強く」「密偵(スパイ)として各地を走り回っていた」ことがうかがえます。
戊辰戦争
1868年、戊辰戦争が勃発
「江戸城無血開城」を実現した「西郷・勝海舟」の会談にも同席。
その後、上野寛永寺に陣取った「彰義隊」との戦い「上野戦争」にも参戦。
この頃、お風呂屋さんからの帰り道に襲撃を受け、「左手の中指・薬指」を失っています。
「会津戦争」にも参戦。
会津藩士たちに強く同情していた桐野利秋は、会津若松城の明け渡しに際して、号泣したと言われています。
その後も会津藩士に親切に接し、会津藩主「松平容保」から宝刀を賜っています。ちなみにこの宝刀なのですが、一時期は鹿児島の「集成館」に保存されていましたが、現在は消息不明です。
明治新政府
桐野利秋は、明治新政府にて、主に軍人として活動していました。
その他にも鹿児島と中央を繋ぐ「連絡係」を務めていたようです。階級は「陸軍少将」。
1871年、『廃藩置県』が強行されると、反乱を防ぐため1万人の「御親兵」に参加。
その後は、兵部省・陸軍少将・熊本鎮台司令長官を務めます。
「明治六年の政変」で、西郷隆盛が「征韓論争」に敗れて下野すると、桐野利秋も辞表を提出して、西郷にしたがい帰郷しています。
西南戦争
西郷隆盛が鹿児島県知事「大山綱良」の協力を得て「私学校」を設立すると、桐野利秋はそこで教官として「銃隊」を指導します。
村田新八は「砲兵隊」を指導していました。
桐野は私学校で指導をしながらも、積極的に「開墾」にも力を尽くしたと言われています。
1877年、中原尚雄による「西郷刺殺計画」を知った桐野たちは、軍を率いて北上することを決定します。
西南戦争の始まりです。
桐野自身も、部隊を率いて前線で戦いましたが、戦局を変えるに至らず、敗戦を重ねます。
最期
1877年9月24日、西郷隆盛が桐野利秋の従弟「別府晋介」の介錯で自決。(一説によると、桐野利秋が西郷の首をはねたとも言われています。)
西郷の自決を見届けた桐野は、村田新八たちとともに最期の戦いに挑みます。
同日、桐野利秋は額に被弾し、亡くなります。
享年40歳
桐野は最期の「城山決戦」で、まるで子供のように興奮しながら銃を乱射。敵を倒すたびに声をあげ、味方を励ましながら戦っていたと言われています。
戦死した桐野の全身は、傷だらけでした。
左ふともも、腹部、こめかみと額に銃弾を受けた傷。右足には刀傷。凄まじいまでの激戦だったことを物語っています。
桐野とともに戦った「村田新八」もまた、同日に壮絶な最期を遂げています。
また、西南戦争で秘密裏に西郷を支援していた鹿児島県知事「大山綱良(格之助)」は、政府に捕らえられて長崎で処刑されています。
人斬りの真相
桐野利秋は、「幕末四大人斬り」の一人に数えられています。
・河上彦斎(熊本藩)・・・漫画『るろうに剣心』の主人公「緋村抜刀斎」のモデル
・岡田以蔵(土佐藩)・・・坂本龍馬の幼なじみ
・田中新兵衛(薩摩藩)・・土佐藩士「武市半平太」の義兄弟にして、岡田以蔵とともに人斬りを行った人物
・中村半次郎(薩摩)・・・桐野利秋
どうして桐野は、「人斬り半次郎」などと呼ばれるようになったのか?
理由は、軍学者「赤松小三郎」を堂々と斬っているためです。
しかし桐野利秋が人を斬ったのは、判明している限り、この一件のみ。
どうやら桐野利秋の人斬り伝説は「後世の創作」だったという説もあるようです。人斬りで修羅場をくぐっているわりには、「大久保利通」の一睨みで押し黙ったと言われていますし・・・。
とはいえ、桐野は相当な剣豪だったらしいです。
薬丸自顕流の猛者で、雨が軒から滴る間に、三度抜刀し、三度納刀できるほど。
初代鹿児島県知事「大山綱良」も剣豪だったみたいですが、桐野利秋も負けてはいなかったのです。
子孫は現在、芸人さんとして活躍中
桐野利秋の子孫・・・現在どこにいるのでしょうか?
実は、桐野に実子はいません。
弟の息子・・・つまり甥の「山ノ内栄熊」が桐野の養子となっています。
どうやら、子孫は現在「お笑い芸人」をやっているようですね。
お笑いコンビ「ソラシド」の「本坊元児」さんが、桐野利秋の子孫を名乗っています。
どうやら桐野利秋の妹が、本坊さんの家にお嫁さんに来ているのだとか・・・。
他にも、「桐野利秋」の子孫を名乗るお方が、一般のブログに顔出し写真で登場しておられました。
どうやらそのおかた、桐野利秋の「孫の孫の孫」なのだそうです。
人斬り半次郎・・・西郷隆盛とともに散った剣豪の子孫・・・先祖を誇らしく思っておられるのでしょうね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・桐野利秋は、西郷隆盛とともに戦った偉人
・桐野は、西郷隆盛とともに西南戦争で散った。
・子孫はお笑い芸人をしている
以上となります。
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「西郷隆盛」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
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