大久保利通暗殺の犯人と襲撃場所を徹底検証!現場の状況がすさまじい

明治初期、事実上の「首相」を務めた「大久保利通(おおくぼとしみち)」の「暗殺事件」について、「犯人」や「暗殺現場」などを、わかりやすく解説いたします。
「暗殺犯は石川県の不平士族。しかし暗殺の動機は、的外れなものだった」
暗殺現場は、現在の「上智大学」近く「紀尾井坂」
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この記事を短く言うと
・「大久保利通」暗殺の理由は、一言でいえば「悪政」を正す「世直し」のため。しかし犯行動機はどれもこれも「まとはずれ」だった
・暗殺現場は東京都千代田区「紀尾井坂(きおいざか)」。今は並木通りになっている。犯行現場の名前をとって、「大久保利通」暗殺事件は「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と呼ばれている
・犯人たちはその後、自ら警察へ自首。裁判にかけられて処刑された
目次
大久保利通暗殺の理由!事件への経緯とは?
大久保利通
西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ「維新三傑」の一人にして、内務卿・実質的な首相(トップ)として「明治政府」の舵取りをした人物

大久保利通
『引用元ウィキペディアより』
1878年、盟友「西郷隆盛」が西南戦争で亡くなった翌年、大久保利通もまた、凶刃で命を落とすこととなります。
紀尾井坂の変
1878年(明治11年)5月14日、午前8時30分頃
明治天皇に謁見するために、自邸を出た大久保利通は、6名の暗殺犯に「紀尾井町清水谷」付近で襲撃されます。
暗殺犯6名は以下の通り
島田一郎(しまだ いちろう)
長連豪(ちょう つらひで)
杉本乙菊(すぎもと おとぎく)
脇田巧一(わきた こういち)
杉村文一(すぎむら ぶんいち)
浅井寿篤(あさい としあつ)
16カ所もの傷を受けた大久保利通は亡くなります。
犯人たち6名は、その後、「斬奸状」という、犯行動機を書いた書状を手に警察へ自首しています。
その斬奸状には、大久保利通襲撃の理由が「5つ」書かれていました。
・大久保利通は国会を開設せず、憲法も制定せず、民の権利をないがしろにしている
・法令が激しく入れ替わり、役人採用が「コネ」で行われている
・必要のない土木工事に巨額の国費が浪費されている
・志士を排斥し、内乱を引き起こした
・諸外国との条約改正に乗り出していない
ちなみに大久保利通は清廉潔白な人で、自費を投じて公共事業を行っており、「8000円(現在の価値で約3億2000万円)」の借金が残った程でした。
大日本帝国憲法は11年後の「1889年」に交付され、翌年施行されています。大久保が暗殺された「1878年」の日本で「憲法制定」はまだ難しかったのです。
「佐賀の乱」「西南戦争」などの内乱は、確かに起こりましたが、前年「西南戦争」を最期に、現在まで日本で内乱は起こっていません。
つまり、とても「いい加減な理由」で暗殺されてしまったことが、よくわかります。
暗殺現場の状況!今、暗殺場所はどうなっている?
暗殺現場の状況
襲撃された場所は「紀尾井町清水谷」
現場はかなり悲惨な状況で、大久保が乗っていた馬車を引いていた馬が襲撃され、更には大久保の御者「中村太郎」も亡くなっています。従者の「芳松」という人は、逃げ延びて「北白川邸」に助けを求めています。
大久保の傷はとても深く、「前島密」は事件後の大久保を見て、生々しい状況にショックを受けています。
なお微動(びどう)するを見た・・・・。
大久保は頭蓋骨を損傷しており、未だに頭の中が微動していた様子をみてしまった・・・・とのことです・・・。
暗殺現場に駆けつけた警察トップ「川路利良」は、事前に暗殺計画があることを報告されていました。しかし、川路はそれを無視。「石川県人に何ができる!」とあざ笑ったとのこと。
暗殺現場に飛んできた川路は、自らの手帳に書かれている「6名」の不平士族の名前を口にし、「犯人はこの6名に違いない」と泣きながら叫んだと言われています。その「6名」は、実行犯6人とぴったり合致していました。
事件現場が「紀尾井坂」の眼の前だったためこの事件は「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と、後世に呼ばれるようになります。
「紀尾井」の地名は、かつてこの地に「紀州徳川家」「尾張徳川家」「井伊家」の屋敷が存在していた為、それぞれの頭文字を取って「紀尾井町」と呼ばれるようになったのです。
現在、現場はどうなっている?
現在この地は「東京都千代田区紀尾井町清水谷」という住所になっており、尾張徳川家屋敷跡には「上智大学」があります。
近くの「清水谷公園」には、「紀尾井坂の変」の碑が建てられ、各「藩邸」の跡地には、「尾張」「紀州」「井伊」各藩の屋敷があったことを示す碑も残されています。
犯人たちのその後!
襲撃犯は「6名」
彼らは全員「石川県」の士族(浅井寿篤だけは島根県士族)・・・つまり「元武士」でした。不平士族と呼ばれています。
彼らは事件後どうなったのか?
大審院による「臨時裁判所」が設置され、1878年7月27日に判決が言い渡され、即日斬罪となっています。
事件から2ヶ月余りでのスピード裁判でした。
あきれたことに、裁判官の証言によると、主犯の「島田一郎」以外の5名は、そもそも「どうして大久保利通を暗殺しなくてはいけないのか」を、はっきりと理解していなかったみたいなのです。主犯の「島田一郎」に洗脳され、「とにかく大久保利通を暗殺することこそが、御国のためだ」と信じ込まされたのだとか。
現代日本でも、「政府首脳や政治家を批判することが正義である」と勘違いして批判ばかりしている人たちがたくさんいますが、「島田」達はその典型例だったのでしょう。
犯人たちは現在、東京「谷中霊園」に葬られています。
ちなみに斬奸状を起草した「陸義猶(くが よしなお)」という人物は「終身刑」となりましたが、「大日本帝国憲法発布」による特赦で釈放。実行犯6名にも「特赦」が施されています。
「憲法を制定していない」ということを「大久保利通暗殺」の理由として「斬奸状」に記した「陸義猶」が、帝国憲法の特赦で釈放されるとは、皮肉なものです。
この「陸義猶」という人物は、明治維新の際に「西郷隆盛」や「桐野利秋」と交流していました。また実行犯の「長連豪」も、半年ほど西郷隆盛の「私学校」で学んでいます。
二人とも、おそらく英雄「西郷」を死なせた「大久保利通」が許せなかったのでしょう。
5月17日に行われた「大久保利通」の葬儀には「1200名」もの参列者が押し寄せました。実質的な「国葬」が行われています。葬儀費用は「4500円(現在の価値で約1億8000万円)」。
しかし、「会津戦争」で薩摩藩に敗北し、悲惨な目にあった「会津藩士」たちは、大久保の死を西郷の死とともに、喜んだともいわれています。
ちなみに暗殺犯たちが許された「大日本帝国憲法」の特赦で、「西郷隆盛」の朝敵という汚名も払拭。
西郷は「明治維新の功臣」として、上野公園に像を建てられるに至りました。これは西郷を強く愛した「明治天皇」のご意思であったとのことです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・大久保利通暗殺の理由は「斬奸状」に記された5つだが、的はずれな動機もある
・現場は、現在上智大学が近くに建てられている
・犯人たちは、2ヶ月後に処刑されている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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