西郷吉二郎の生涯と悲劇的な最期!兄・西郷隆盛もひれ伏した優しい弟

西郷隆盛の弟「西郷吉二郎(さいごうきちじろう)」の「生涯」と「最期」は、どんなものだったのでしょうか?

わかりやすく解説いたします。

英雄「西郷隆盛」も尊敬していた、心優しい弟「吉二郎」

実は吉二郎が習字を教えていた幼子が、のちに「日露戦争」で日本を勝利に導いた


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この記事を短く言うと

西郷隆盛の次弟「西郷吉二郎」。兄・隆盛を支え続けた

・兄・隆盛が薩摩藩士として京や江戸で活躍していた時、常に薩摩の家を守り続け、戊辰戦争で散った

・兄・隆盛は「実際の兄は吉二郎」と言うほど、吉二郎を尊敬していた


西郷吉二郎とは何をした人?どんな功績を残したの?

西郷隆盛の弟「西郷吉二郎」

明治維新を成し遂げた英雄「西郷隆盛」の実弟

その生涯と、功績を分かりやすく解説いたします。

まずは西郷隆盛の兄妹たちを、分かりやすく家系図でご紹介

西郷家の男の兄弟は、隆盛を含めて4名

 

長男・隆盛(1828~1877)

次男・吉二郎(1833~1868)

三男・従道(1843~1902)

四男・小兵衛(1847~1877)

 

西郷隆盛も尊敬していた次男「吉二郎」

惜しくも「1868年(慶応四年・明治元年)」の戊辰戦争において、若くして亡くなっています。


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「西郷吉二郎」の功績

西郷吉二郎の功績を分かりやすく解説いたします。

とはいえ吉二郎には、歴史に名を残すような功績はありません。

あくまでも英雄「西郷隆盛」を支えたというもの。だとしても、吉二郎がいなかったら、西郷隆盛は偉業を成しえなかったでしょう。

・兄・隆盛を支え、両親亡き後、弟「従道」や「小兵衛」を育てた

・姉の西郷琴とともに、貧しい西郷家を守り続けた

・薩摩藩独特の教育システム「郷中教育」に従い、日露戦争の英雄「東郷平八郎」を指導した

実は「吉二郎」、ご近所に住んでいた「東郷平八郎」の先生だったのです。


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西郷吉二郎の生涯と、悲しい最期

西郷吉二郎の生涯・・・・陰ながら西郷隆盛を支えた吉二郎・・・・その生涯と悲しい最期を解説いたします。

生い立ち

1833年、「西郷吉兵衛」とその妻「満佐」の次男として「吉二郎」は誕生。兄は「西郷隆盛」

1852年、父の「吉兵衛」が突如無くなってしまいます。直後に母「満佐」も死去してしまいます。

1853年、兄「隆盛」が、西郷家の家督を相続。

1854年、吉二郎は「郷中教育」で、子供達の指導を開始。末の弟「小兵衛」や、日露戦争で活躍する「東郷平八郎」に対して習字を指導

西郷隆盛に代わり一家を支える

1854年、西郷隆盛は主君「島津斉彬」に従って「江戸」へ

1855年、吉二郎は困窮し、下鍛冶屋町の「西郷宅・259坪」を売却し、上之園町にある借家へ引っ越す

1857年、この頃から吉二郎は「勘定所の書役助」というお役目についています。

1862年、西郷隆盛が、「安政の大獄」から逃れるために潜伏していた「奄美大島」から帰還。

同年、島津久光が軍を率いて京都へ向かう「率兵上京」を強行。西郷隆盛は村田新八とともに「下関へ先発、待機」を命じられたが、薩摩藩士過激派が不穏な動きを見せていた為、命令違反をして大坂へ急行。

この罪を問われ、西郷隆盛は「徳之島」「沖永良部島」へ流罪。村田新八も「喜界島」へ流罪

同年、「寺田屋事件」が起こる。「有馬新七」ら薩摩藩の過激派が「大山綱良」たちによって粛清される。この時、「西郷隆盛・吉二郎」の弟「従道」も、過激派に加担していたが、説得を聞き入れ粛清を免れます。

しかし、「従道」はこの罪を問われ「謹慎」を命じられます。

そして吉二郎も、末弟の「小兵衛」も、役職を「遠慮」するという処分を与えられ、西郷家は「知行地」も「家財」も、全てを失います。

知行を失いその上兄弟全員が失職・・・。この頃の西郷家は、かなり貧しかったと言われています。

 

吉二郎は、自らの生活について、こんなことを言っています。

「一日中農作業に忙殺され、馬の世話をし、幼い弟たちの養育もしなくてはならない・・」

かなり追い詰められた状況だったようです・・・。

兄・隆盛が流罪となっているので、そのかわりに西郷家を支えていたのです。

1863年の「薩英戦争」が起こったことで、「西郷隆盛」という人材の必要性を自覚した薩摩藩が、流罪を解く1864年まで、吉二郎の苦労は続きます。

ちなみに、弟の「西郷従道」もまた、薩英戦争による薩摩藩の苦境が原因で「謹慎」を解かれています。

1863年、吉二郎の長女「美津」が誕生

1864年、「禁門の変」で西郷隆盛が、事実上「薩摩軍」の総大将となり、長州藩を京都から追い出しています。

同年、吉二郎の長男「勇袈裟(ゆうげさ・後の隆準)」が誕生

1865年、吉二郎の妻「マス」が水害による体調不良で他界

1867年、後の海軍大臣「仁礼景範」の妹「仁礼園」と結婚


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戊辰戦争

1868年、戊辰戦争

吉二郎も従軍

西郷家の兄弟たちは

「一番の功名は戦死。二番が負傷。三番が生還」

と誓いあったと言われています。

初戦の「鳥羽伏見の戦い」で、吉二郎は「病気」のため参戦できず。北越戦争に「府下小銃八番隊監軍」として参戦します。

しかし、越後は「日米修好通商条約」で開港された「新潟港」という国際貿易港を持っていた上に、「イタリア」や「プロイセン」から「ガトリング砲」や「スナイドル銃」などの最新式の武器を次々輸入して強化されていました。

その上、長岡藩の名将「河井継之助」がいたため、新政府軍は苦戦。

ここで吉二郎は、悲劇的な最期を遂げることとなるのです。


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最期

吉二郎は、北越戦争「曲渕村・五十嵐川の戦い」で、自軍の指揮を取っている最中に、腰に被弾

柏崎にある病院へ担ぎ込まれましたが、そこで亡くなります。

享年36歳

法名は「義勇軒猛道忠逸居子」

兄・隆盛は弟の死を悲しみ、断髪したと言われています。

吉二郎には、早くに亡くなった妻「マス」との間に「美津」と「隆準(たかのり)」という2人の子供がいました。

また、この2人の子供を育てていたのが、後妻「園(その)」という女性。

そんな吉二郎の遺族には、扶持米70俵が、30年間贈られることとなりました。

西郷家は「40石」・・・つまり年収が米100俵ということ・・・吉二郎一人で70俵を30年・・・それは戊辰戦争の功労者として評価されていたことを表しています。

この「北越戦争」で、隆盛の妹にして吉二郎の姉「西郷琴(市来琴)」の長男「市来嘉納次」も戦死したと言われています。

ちなみに、吉二郎の息子「隆準」は、その後「西郷隆盛」の息子「寅太郎」とともに、ドイツへ留学しています。


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西郷隆盛も尊敬した弟!実は吉二郎が兄だった?

吉二郎は江戸に滞在することの多い兄に代わり、西郷家の家政を取り仕切っていました。

隆盛は常に弟・吉二郎に感謝していたようです。

「私が国家のために、ご奉公ができたのは、吉二郎が私の代わりに、家長の責務を果たしてくれたからです。

私は年齢が上であるだけで、実際の兄は吉二郎でした」

確かに、吉二郎は表舞台で活躍する兄・隆盛をしっかりと支え、隆盛が江戸や京都で活動するための資金を必死に工面しています。

西郷家代々の屋敷を手放したのも、吉二郎の努力が限界を迎えたためであり、それを誰よりもよくわかっていた兄・隆盛は、精一杯チカラを尽くした弟・吉二郎に頭が上がらなかったことでしょう。

広く全国を飛び回る兄「西郷隆盛

自由奔放で後に中央政界で活躍する弟「西郷従道

そして幼い弟妹を養い、姉「市来琴」とともに西郷家を支えた「西郷吉二郎

隆盛や従道のように、それほど大きく歴史に名を残すような功績はありませんが、隆盛・従道の功績は、吉二郎なくしてありえませんでした。

兄と弟たちを大切にする、心優しい人物だったことが、よく伝わってくるお方です。

ちなみに、吉二郎は幼いころの「東郷平八郎」に習字を教えています。

東郷平八郎は、「日露戦争」で大国「ロシア」の「バルチック艦隊」を相手に完勝するという奇跡を起こし、現在でも「史上最高の提督」と呼ばれ、世界から尊敬を集めています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・吉二郎は、西郷隆盛の弟にして、西郷従道の兄。兄・隆盛に代わり、西郷家を支えた

・戊辰戦争・越後での戦いにおいて、戦死。享年36歳

・兄・隆盛は、弟「吉二郎」に感謝し、弟でありながら兄として扱っていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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