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渋沢栄一を年表で簡単紹介!何した人なのか小学生向けにわかりやすく解説

皆さんは「渋沢栄一」を、ご存知でしょうか?

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公ですが、そんな「渋沢栄一」について、くわしく知っている方はあまり多くないみたいです。

この記事では「渋沢栄一の生涯」を、年表という形で、わかりやすく、カンタンに理解できるよう解説いたしました。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「渋沢栄一」にくわしくなれます。

渋沢栄一の生涯を、ザッとまとめると、以下の通りとなります。

  1. 1840年
    (天保11年)、渋沢栄一誕生
  2. 1861年
    (文久元年)、一橋慶喜の家臣となる
  3. 1867年
    (慶応3年)、幕臣となってヨーロッパへ渡る
  4. 1869年
    (明治2年)、静岡藩に仕え、明治政府へ仕える
  5. 1873年
    (明治6年)、実業家として活躍する
  6. 1909年
    (明治42年)、実業界を引退し、慈善活動を続ける
  7. 1931年
    (昭和6年)、逝去。享年91歳

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,渋沢栄一は、どのような生涯を送ったのか?

渋沢栄一は、江戸時代の【1840年】から、昭和の【1931年】までの91年間を、経済界発展と他人の幸福のために捧げて生き抜いた「資本主義の父」。

 

2,渋沢栄一が残した功績とは、どのようなものがあるのか?

渋沢栄一は、みずからが頭取(とうどり・社長)をつとめた第一銀行(現在のみずほ銀行)を通じて、数々の企業に対して支援や協力をし、実に500もの会社の経営・運営にかかわった。

この500の企業は

  • みずほ銀行
  • 七十七銀行
  • サッポロビール
  • 清水建設
  • 日本郵船
  • IHI

などなど、形を変えて6割ほどが現在も残っている。

 

3,渋沢栄一が500もの会社経営に関われた理由とは?

渋沢栄一は、ソフトバンクの孫正義氏や、アップルのスティーブ・ジョブズ氏のような、一代で巨大企業をつくりあげた創業者・経営者ではなく、あくまでも企業の支援をした人だった。

第一銀行の経営を通じて、銀行家として、企業の経営や創業を金銭面で支援したり、知識や経験で経営を指導したり、という形をとった。

そのため自分で会社を経営をしたわけではないため、生涯に500もの会社に関わることが出来た。


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目次

渋沢栄一とは何した人か、小学生向けにわかりやすく簡単に解説

渋沢栄一は「みずほ銀行」の社長だった人

渋沢栄一とは何者なのか?

《渋沢栄一》
「引用元ウィキペディアより」

その正体を、超カンタンにひとことで言ってしまうと

「みずほ銀行の社長(頭取)だった人」

ということになると思います。

令和の現在でも営業を続けている都市銀行「みずほ銀行」ですが、この銀行は昔、第一国立銀行と呼ばれていました。

渋沢栄一は、この「第一国立銀行」の頭取(とうどり)つまり社長だったお方なのです。

この「第一国立銀行」が、どのようにして現在の「みずほ銀行」と名前を変えたのかというと、数々の銀行との合併を繰り返した結果、「みずほ銀行」となったのです。

その成り立ちをザッ解説すると、以下のとおりです。

《みずほ銀行について》

まず、第一国立銀行1896年第一銀行と名前をかえます。

次に第一銀行二十銀行三井銀行と合併して帝国銀行となり、その帝国銀行から第一銀行が分離します。

その分離した第一銀行が、1971年日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行へ。

そして2002年第一勧業銀行富士銀行日本興業銀行と合併して、みずほ銀行が誕生したのです。

単純に「渋沢栄一は、みずほ銀行の社長さんだった」というと誤解を生むかもしれませんが、めちゃくちゃシンプルにいってしまうと、「みずほ銀行の元社長」ということで、間違いないと思います。


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渋沢栄一は「500以上の会社」を「つくった人」ではなかった

渋沢栄一は500以上の会社をつくった人」

とよく紹介されていますので勘違いされますが、渋沢栄一は巨大企業を一から創業した大経営者ではありません。

たとえば、現代の大企業であるソフトバンクの孫正義さんや、アップルをつくったスティーブ・ジョブズのような、そんな天才経営者とは違って、渋沢栄一は時代を代表するような会社をつくって、それを大企業に成長させた人物、というわけではないのです。

 

では何をした人なのか?というと

「銀行の社長(頭取)として、いくつもの会社の創業や経営を助けたり応援したり指導したりした人」

ということになります

銀行とは、人々からお金を預かり、その預かったお金を個人や会社に貸し出して、その利子をもらうのがお仕事です。

銀行は、ときには会社の経営再建計画をつくって、経営がうまくいっていない会社を助けたりもします。

渋沢栄一は、そういった銀行の役割を、日本で最初に担当した人物といってよいでしょう。

明治時代の日本では、そもそも会社というものがまったく存在していなかったため、どのようにして会社を設立し、どのようにして経営すればよいのか、誰にもわからない時代でした。

そんななかで渋沢栄一は、会社をつくって日本を、世の中を良くしたいと思っている人たちに対して、自らが社長を務めていた銀行からお金を貸して支援したり、経営のやり方を指導して協力したり、ときには経営に自らが参加して一緒に働いたりと、とにかくあの手この手をつかって、働く人達を応援し続けたのでした。

そのようにして、渋沢栄一が経営を応援したり、創業を手伝ったりした会社が、合計で約500も存在していたのです。

令和の現代でも、渋沢栄一が経営を応援したり協力したりしたその500の会社のうち、約6割が名前や形を変えて残っているといわれています。


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渋沢栄一の【生涯年表】

ここでは「資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の、【1840年】から【1931年】までの生涯を、年表で解説いたします。

以下の年表において、渋沢栄一と直接関係のない歴史的出来事にはのマークがつけられております。

1840年(天保11年)、渋沢栄一誕生

【1840年(天保11年)】(渋沢栄一・満年齢0歳)
3月16日(天保11年2月13日)、渋沢栄一誕生。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)出身。父は渋沢市郎右衛門元助。母はエイ。幼名は栄二郎。この年、清(現在の中国)でアヘン戦争勃発。

 

【1842年】(2歳)

清国とイギリスとのあいだで南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結

 

【1845年】(5歳)
父・渋沢市郎右衛門から、漢籍などを教え込まれる

 

【1847年】(7歳)
学者だったいとこ・尾高惇忠(おだか あつただ)の塾に通い、論語・四書五経・日本外史などの本を学ぶ

《尾高惇忠》
「引用元ウィキペディアより」

【1851年】(11歳)
清国で太平天国の乱が起こる。(太平天国の乱は、2000万人以上の犠牲者を出した清国での戦争・内戦のこと。世界史上最大の犠牲者を出した戦争ともいわれている)

 

【1852年】(12歳)

フランスで、ナポレオンの甥であるナポレオン三世が皇帝に即位する

 

【1853年】(13歳)
アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航(黒船来航

12代将軍・徳川家慶が死去。一橋慶喜が次期将軍となる可能性もあったが、家慶の息子・徳川家定が13代将軍に就任。

 

【1854年】(14歳)
父とともに家業である養蚕や藍玉つくりに専念する

ペリーが再び浦賀に来航。日米和親条約が結ばれる。

 

【1855年】(15歳)

第一回パリ万国博覧会が開催される

 

【1856年】(16歳)
父・市郎右衛門の代わりに領主代官のところを訪れた渋沢栄一は、代官から多額の御用金を納めるようにと申し付けられたが、その時の武士の態度があまりにも偉そうだったために、反発したという逸話が残っている

薩摩藩主・島津斉彬の養女・天璋院篤姫が、13代将軍・徳川家定に嫁ぐ

 

【1858年】(18歳)
渋沢栄一が、いとこ・尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚

大老・井伊直弼の独断により、日米修好通商条約が締結される。(これ以降、日本は1911年まで、不平等条約に悩まされることとなる)

勝手に日米修好通商条約を結んだ井伊直弼に反発した徳川斉昭松平春嶽らが処分され、吉田松陰橋本左内らが処刑される(安政の大獄

13代将軍・徳川家定が病死。紀伊徳川家の徳川家茂が14代将軍に就任する。

 

【1860年】(20歳)

桜田門外の変により井伊直弼が暗殺される。暗殺したのは薩摩藩士・海江田信義の弟・有村次左衛門


「渋沢栄一の学歴」や「一橋慶喜」については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。


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1861年(文久元年)、一橋慶喜の家臣となる

【1861年(文久元年)】(21歳)
栄一は江戸へ出て、当時最高の儒学者だった海保漁村(かいほ ぎょそん)の塾に通う。また、坂本龍馬の師であった千葉定吉の甥・千葉栄次郎が経営する・お玉が池の千葉道場に入門し、北辰一刀流剣術を学ぶ

この頃から尊皇攘夷思想に目覚め、志士たちと交流を深めるようになる。(のちに渋沢栄一の運命を大きく変える人物・平岡円四郎とも、この頃に交流を深めた)

 

【1862年】(22歳)

高杉晋作五代友厚が、幕府の御用船・千歳丸をつかって上海を訪れる。

一橋慶喜が将軍後見職に就任する。

 

【1863年】(23歳)
渋沢栄一尾高惇忠渋沢喜作尾高長七郎とともに倒幕運動を決意。同志達と決起し、高崎城の乗っ取りを計画。いとこ・尾高惇忠を大将とし、同じくいとこ・渋沢喜作尾高長七郎を副将として、数十名が参加。

しかしこの計画は、尾高惇忠の弟・尾高長七郎の必死の説得により中止となる。

渋沢栄一渋沢喜作とともに京都へ逃亡。

京都で八月十八日の政変が勃発。攘夷派の急先鋒だった長州藩が京都から追放されており、攘夷派は下火だった。

 

【1864年】(24歳)

一橋家の家臣だった平岡円四郎のすすめにより、渋沢栄一渋沢喜作は、一橋慶喜徳川慶喜に仕えることとなる。

栄一は、京都の治安維持を任されていた一橋慶喜によって、歩兵取立御用掛という役目を与えられ、農兵を募集することとなる。

一橋家の家老だった平岡円四郎が、水戸藩士に暗殺される。

新選組による池田屋事件が勃発し、松下村塾四天王の一人・吉田稔麿が亡くなる

禁門の変蛤御門の変)が勃発し、松下村塾四天王の二人・久坂玄瑞入江九一が亡くなる。

第一次長州征伐がはじまる。

清国で、太平天国の乱が終結する。

徳川慶喜(一橋慶喜)
『引用元ウィキペディアより』

【1865年】(25歳)

天狗党の乱が鎮圧される。首謀者だった武田耕雲斎藤田小四郎藤田東湖の息子)が処刑される

リンカーン大統領が暗殺される

 

【1866年(慶応2年)】(26歳)

第二次長州征伐がはじまるが、14代将軍・徳川家茂が病死し、幕府軍の敗北に終わる。

坂本龍馬の仲介により、対立していた薩摩藩長州藩のあいだで薩長同盟が結ばれる。


「薩摩藩と長州藩が対立していた理由」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

尾高惇忠の弟で渋沢栄一の命の恩人でもある尾高長七郎について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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1867年(慶応3年)、幕臣となってヨーロッパへ渡る

【1867年(慶応3年)】(27歳)

1867年1月10日(慶応2年12月5日)に、徳川慶喜征夷大将軍に就任。そのため渋沢栄一も、一橋家の家臣という身分から、幕府の家臣である幕臣となる。

この年に渋沢栄一は、パリでおこなわれる万国博覧会に出席する徳川慶喜の実弟・徳川昭武に随員してフランスへ渡る。

栄一は、フランス・パリを視察し、その後はヨーロッパの各国を訪問。各地で世界最先端の産業や制度を学ぶ。

徳川慶喜大政奉還を実行し、江戸幕府は名目上崩壊する。

近江屋事件が発生し、坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺される。

松下村塾四天王の最後の一人・高杉晋作が病死。

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

【1868年(慶応4年・明治元年)】(28歳)

この年、フランスにいた渋沢栄一は、大政奉還王政復古の大号令がおこなわれて幕府が事実上消滅したことにより、新政府から帰国命令を受ける。

命令に従って、渋沢栄一徳川昭武とともに、フランス・マルセイユから横浜港へ帰国する。

栄一が帰国するまでのあいだに、日本では鳥羽・伏見の戦いをはじめとする戊辰戦争が勃発。さらに江戸城無血開城が実現して、江戸幕府が完全に消滅する。(明治維新

栄一は帰国後、徳川慶喜が謹慎生活を送っていた静岡藩に仕えることとなる。

渋沢栄一のいとこで、妻・ちよの兄にあたる剣豪・尾高長七郎が病死。

1868年1月3日大久保利通岩倉具視によって、王政復古の大号令が発せられ、幕府などの制度が廃止。

鳥羽・伏見の戦いが勃発(戊辰戦争がはじまる)


龍馬暗殺の真相」や「大政奉還」「王政復古の大号令」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。


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1869年(明治2年)、静岡藩に仕え、明治政府へ仕える

【1869年(明治2年)】(29歳)
静岡藩に仕えていた渋沢栄一は、徳川慶喜から「これからはお前の道を行きなさい」という言葉をもらう。

しかし栄一は静岡藩が新政府から借りていた金を返済するために、商法会所を設置する。(商法会所とは、現在でいうところの金融商社のこと)

11月、栄一大隈重信の説得を受けて、明治新政府の民部省および大蔵省の租税正および改正掛(かいせいがかり)という部署につかえる。租税正と改正掛とは、税金および制度改革のための部署。

ここで栄一は、重さや長さなどの基準である度量衡(どりょうこう)の決定や、国立銀行条例の制定にたずさわる。

箱館戦争(五稜郭の戦い)が終結し、戊辰戦争がおわる。新選組の元副長・土方歳三が戦死。渋沢喜作も参戦していた。

《土方歳三》
「引用元ウィキペディアより」

【1870年】(30歳)
渋沢栄一が富岡製糸場の設置主任となる(1872年尾高惇忠が、富岡製糸場の初代所長に就任している)

版籍奉還が行われる。

 

【1871年】(31歳)
栄一は、紙幣や切手をつくる紙幣寮の初代トップに就任。明治初期の紙幣・明治通宝をあつかうが、失敗。

この年、栄一の父・渋沢市郎右衛門が死去。

廃藩置県が行われる。

岩倉使節団が派遣される。

 

【1872年】(32歳)
渋沢栄一が、抄紙会社(しょうしがいしゃ・現在の王子HD日本製紙)の設立を出願する。

学制が発布される。


「徳川慶喜が大政奉還のあと、どうなったのか」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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1873年(明治6年)、実業家として活躍する

【1873年(明治6年)】(33歳)
5月7日、盟友・井上馨とともに財政改革の意見を政府へ述べる。この意見は「政府には財政感覚がなさすぎる」ということを指摘したものだった。

5月14日、尾去沢鉱山汚職事件などを追求された井上馨が政府を辞職。栄一も一緒に辞職。

政府を辞職した栄一は、自らが設立に協力した第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役というポストに就任。日本最初の銀行である第一国立銀行の創業に協力することとなる。

また栄一は、抄紙会社(しょうしがいしゃ・現在の王子HD日本製紙)が設立されるときに、それを中心となってすすめている。

さらに瓦斯掛(がすがかり・現在の東京ガス)の委員として、ガス事業計画にも参加。

明治六年の政変征韓論争が起こり、西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らが政府を辞職。

国立銀行条例地租改正・徴兵令が行われる

(余談だが、よく怒っていた井上馨は「カミナリオヤジ」とあだ名され、ゆいいつ怒られなかった渋沢栄一は「避雷針」とあだ名されていた)

 

【1874年】(34歳)
第一国立銀行は、株主の小野組が破綻したことが原因で経営危機におちいっていた。さらに、小野組が破綻したことで、第一国立銀行がもう一つの株主がである三井組に独占されかねない状態となっていた。しかし栄一の活躍で第一国立銀行は危機をのりこえ、さらに三井組による独占支配も免れた。栄一第一国立銀行の頭取に就任し、三井組のような巨大商人の利益を優先する銀行ではなく、広く一般の商人を助ける銀行としての経営方針をつらぬくこととなる。

栄一第一国立銀行をつうじて、全国の国立銀行および企業の指導と支援をつづけることとなる。

養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の運営にかかわり、(1876年)には事務長、(1885年)には院長をつとめ、生涯にわたって救済事業や教育に力をつくす。

栄一の母・エイが死去

板垣退助後藤象二郎らによって民撰議院設立建白書が提出される。
民撰議院設立建白書の内容を簡単に言うと「政治家は、日本を良くするための方法を自分で考え、国民の許可を得て、自分で実行しろ」というもの)

佐賀の乱が勃発したが即座に鎮圧され、江藤新平処刑。

台湾出兵

《江藤新平》
『引用元ウィキペディアより』

【1875年】(35歳)
栄一は、いとこの渋沢喜作を支援して、廻米・生糸貿易をあつかう澁澤喜作商店の開業を助ける。

政治家・森有礼とともに商法講習所(現在の一橋大学)を設立する。

 

【1876年】(36歳)
石川島平野造船所(現在のIHIいすゞ自動車立飛ホールディングス)にたいして、栄一個人での出資と第一国立銀行からの融資を行い、その創業を支援する。

秀英舎(現在の大日本印刷)の創業を支援。これにより、印刷業の創業を支援することとなる。

中外物価新報(現在の日本経済新聞)の創刊を支援する。

廃刀令が発布される。

萩の乱が勃発。吉田松陰の弟子・前原一誠が処刑され、松陰の叔父・玉木文之進が切腹。

 

【1877年】(37歳)
栄一第二十国立銀行の設立を相談役として協力する。第二十国立銀行はその後、第一銀行(元・第一国立銀行)と合併。第一銀行の深川支店が、栄一の自宅跡地に移されることとなる。

択善会(現在の東京銀行協会)という組織をつくり、明治政府へ数々の提言をする。

栄一、王子・西ヶ原に別荘を建設。

西南戦争が勃発。直後に維新三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)が病死。

西南戦争で薩摩軍が明治政府軍に敗北。これにより薩摩軍をひきいていた維新三傑の一人・西郷隆盛が亡くなる。

佐野常民(さの つねたみ)によって西南戦争で傷ついた人々を救うための博愛社(後の日本赤十字社)が創立される。創立から3年後(1880年)に渋沢栄一博愛社の社員となる。のちに常議員となって博愛社の運営にかかわり続ける。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』


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【1878年】(38歳)
東京商法会議所(後の東京商工会議所)を設立し、会頭に就任。

東京株式取引所を設立し、自らが頭取をつとめていた第一国立銀行を上場させる

紀尾井坂の変が起こり、維新三傑の最後の一人・大久保利通が暗殺

大久保利通
『引用元ウィキペディアより』

【1879年】(39歳)
東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)の創立発起人となり、相談役として保険業の創業を支援する。

ユリシーズ・グラント前アメリカ大統領の訪日にあわせて、接待委員会を組織し、接待委員総代をつとめる。

琉球処分により沖縄県設置。琉球王国が滅亡。

 

【1880年】(40歳)

この年、ダクラス・マッカーサー米内光政松岡洋右が誕生

 

【1881年】(41歳)
日本鉄道会社(現在のJR)の理事委員として設立に協力

開拓使官有物払下げ事件により、五代友厚が批判をあびる。

 

【1882年】(42歳)
倉庫会社および均融会社の設立出願総代と監査役をつとめる

岩崎弥太郎がひきいた三菱汽船による海運業の独占を阻止するため、政府も支援した共同運輸会社の創立発起人として栄一も参加することとなる。日本の海運業の八割を占める三菱汽船と、それを相手にした共同運輸の競争は、とてつもなく激しいもので、両者は共倒れ寸前まで争ったという。

東京電灯会社(現在の東京電力HD)の発起人をつとめる。

大阪紡績会社(現在の東洋紡)の発起人および相談役をつとめる。

栄一の妻・千代が病死。

政治家・大隈重信東京専門学校(現在の早稲田大学)を設立する。

 

【1883年】(43歳)
栄一は、のちの浅野財閥創業者である浅野総一郎に対して、官業であった工部省深川工作分局の民間払い下げを支援。これがのちの太平洋セメントにあたる浅野セメント工場の創業。

渋沢栄一伊藤かねと再婚。

 

【1884年】(44歳)
お金のない方々のために無料で治療をする同愛社が設立されると、栄一は幹事をつとめる。

 

【1885年】(45歳)
ガンによって死の床についていた岩崎弥太郎は、共倒れ寸前だった三菱共同運輸の争いを終わらせるため、両社の合同(合併)を口にするようになったという。(ただしこの合併の話は岩崎による工作であり、榮一は合併に反対だった)

岩崎弥太郎の死から半年後にあたる9月29日、西郷従道などの仲介もあって両社は合併し、現在の日本郵船となり、渋沢栄一はのちに取締役をつとめる。

ジャパンブリュワリー(現在のキリンHD)の設立理事員をつとめる。

東京瓦斯会社(とうきょう がす がいしゃ)を創立し、創立委員長をつとめる。のちに取締役会長に就任。

五代友厚が亡くなる。

≪五代友厚≫
『引用元ウィキペディアより』

【1886年】(46歳)
東京電灯会社(現在の東京電力HD)が設立される。栄一はのちに委員をつとめる。

 

【1887年】(47歳)
清水組(現在の清水建設)の相談役に就任し、実質的な経営を担当する。清水組の後継者が幼かったためのピンチヒッターだった。

東京人造肥料会社(現在の日本化学)の創立委員として支援する。

東京製鋼会社(現在の東京製綱)の創立委員をつとめる

日本煉瓦製造会社(にほんれんがせいぞうかいしゃ)の理事長をつとめ、のちに取締役会長をつとめる

東京ホテル(現在の帝国ホテル)の発起人総代および理事長をつとめ、のちに取締役会長をつとめる

日本土木会社(現在の大成建設)の発起人総代および委員長をつとめる。

女子の高等教育のために、女子教育奨励会を設立する。勝海舟伊藤博文も設立に協力している。この女子教育奨励会がを足がかりとして、のちの東京女学館が設立されることとなる。

 

【1888年】(48歳)
札幌麦酒会社(現在のサッポロHDおよびアサヒグループHD)の創立委員長をつとめ、のちに取締役会長をつとめることとなる。

古河財閥の創業者である古河市兵衛による足尾鉱山組合(現在の古河機械金属古河電気工業富士通富士電機横浜ゴム)の設立を支援する。

新島八重の夫で教育者である新島襄が、同志社(現在の同志社大学)を設立するに当たり、栄一も募金活動および管理に力をつくす。

東京女学館が開校し、栄一は会計監督をつとめ、のちに館長をつとめることとなる。

 

【1889年】(49歳)
有限責任・東京石川島造船所(現在のIHI)が創立され、栄一は委員をつとめ、のちに取締役会長をつとめる。

 

【1890年】(50歳)

渋沢栄一が貴族院議員に任命される。

大日本帝国憲法が発布される。

第一回衆議院議員総選挙がおこなわれる。


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【1891年】(51歳)

大津事件により、ロシア皇太子ニコライが負傷する。

足尾銅山鉱毒事件田中正造らによって問題となる。

 

【1892年】(52歳)
東京帽子(現在のオーベクス)の取締役会長をつとめる。

東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)を設立して、取締役会長に就任。

第二回衆議院議員総選挙がおこなわれる。吉田松陰の弟子だった内相・品川弥二郎による選挙干渉が行われ、死傷者が出る。

 

【1893年】(53歳)
貴賓館(海外からの賓客を招き、もてなすための組織)を設立し、幹事長をつとめる。

 

【1894年】(54歳)
熊谷銀行(現在の埼玉りそな銀行)の設立発起人となる。

東学党の乱勃発

日清戦争が勃発。

 

【1895年】(55歳)
東洋経済新報(現在の東洋経済新報社)の創刊を支援する

日本精糖(現在の大日本明治製糖)の発起人をつとめる

北越鉄道会社が創立され、監査役をつとめ、のちに相談役をつとめる

日清講和条約下関条約)が調印され、日本は台湾や澎湖諸島・遼東半島を獲得する。

ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉により、日本は遼東半島を失う。

 

【1896年】(56歳)
日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)の設立委員として、その設立と開業を指導する。

汽車製造(現在の川崎重工)の創立委員および監査役をつとめる。

浦賀船渠(うらがせんきょ・現在の住友重機機械工業)の相談役をつとめる。

東京建物(現在の東京建物株式会社)の設立発起人をつとめる。

日本精糖(現在の大日本明治製糖)が創立。栄一は取締役をつとめる

栄一が頭取をつとめていた第一国立銀行が、営業満期によって第一銀行となる。栄一は続けて頭取をつとめる。

渋沢栄一のあとを継ぐこととなる孫・渋沢敬三が誕生する。

 

【1897年】(57歳)
澁澤倉庫部(現在の澁澤倉庫)を創業。自宅の倉庫を使用して家業としてはじめた。

 

【1898年】(58歳)
韓国を視察し、皇帝・高宗に謁見。京釜鉄道京仁鉄道の設置など、韓国のインフラ整備にも力を尽くす。

鉄血宰相と呼ばれたドイツのオットー・フォン・ビスマルク死去

《ビスマルク》
「引用元ウィキペディアより」

【1899年】(59歳)
黒須銀行(現在の埼玉りそな銀行)の顧問役に就任。

武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)が設立されるときに、栄一は自分の娘婿である尾高次郎を初代頭取としておくりだし、銀行の支援をする。

武州銀行はその後、熊谷銀行黒須銀行と合併し、現在の埼玉りそな銀行へとつながることになる。

 

【1900年】(60歳)
日本興業銀行(現在のみずほ銀行)の設立委員となる。

北海道拓殖銀行の設立委員となる。

実業家・大倉喜八郎がつくった大倉商業学校(現在の東京経済大学)に創立委員・設立委員として協力する。

渋沢栄一、男爵の爵位をあたえられる。(爵位は上から、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵、の5つがある。)

義和団事件勃発。


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【1901年】(61歳)
井上馨が内閣を組閣するにあたり、渋沢栄一を大蔵大臣にしようとするが、渋沢はこれを拒絶。その影響で井上馨は組閣を断念し、内閣総理大臣にはなれなかった。

日本女子大学校が開校し、栄一は会計監督をつとめ、のちに校長をつとめることとなる。

栄一、東京・飛鳥山の邸宅をみずからの本宅とする。

渋沢栄一のいとこ・尾高惇忠が亡くなる。

 

【1902年】(62歳)
欧米を視察し、セオドア・ルーズベルト米大統領と会談。

東京専門学校早稲田大学と改称する。

日本とイギリスのあいだで日英同盟が結ばれる。

 

【1903年】(63歳)
大隈重信とともに日印協会(日本とインドの親善・文化交流を目的とする団体)の設立にたずさわる。

《大隈重信》
『引用元ウィキペディアより』

【1904年】(64歳)
日露戦争が勃発

日露戦争において、渋沢栄一児玉源太郎から財界支援を要請されている。開戦もしかたないと考えた渋沢栄一は、20億円という莫大な支援を受け入れたという。

 

【1905年】(65歳)

日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎ひきいる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊に圧勝。

小村寿太郎によりボーツマス条約が結ばれ、日露戦争終結。

ポーツマス条約で賠償金が取れなかったことに激怒した民衆により、日比谷焼き討ち事件が起こる。

 

【1906年】(66歳)

東京電力会社創立により、取締役をつとめる。

京阪電気鉄道(現在の京阪HD)の創立委員長をつとめる。

 

 

【1907年】(67歳)

帝国劇場会社(現在の東宝および東京会館)の創立委員長をつとめる。

東京慈恵医院(現在の東京慈恵会)の相談役および委員長をつとめる。

 

【1908年】(68歳)
癌研究会(現在のがん研究会)の設立に力をつくし、副総裁をつとめる。

早稲田大学の事業拡大のために、募金管理委員長として計画に協力する。


「渋沢栄一の子孫と家系図」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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1909年(明治42年)、実業界を引退し、慈善活動を続ける

【1909年(明治42年)】(69歳)
日本皮革(にほんひかく・現在のニッピ)の発起人および相談役をつとめる。

6月6日、渋沢栄一は実業界引退を表明。同時に第一銀行(元・第一国立銀行、現在のみずほ銀行)と東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)の2つ以外の、実に61にもおよんだ数々の会社役員を辞任する。

これ以降、栄一は民間外交・教育・福祉・医療に専念することとなる。

渡米実業団を組織して、その団長として訪米し。タフト米大統領と会見。貿易摩擦などの諸問題を解決するために力をつくす。

初代首相・伊藤博文が暗殺される。

《伊藤博文》
「引用元ウィキペディアより」

【1910年】(70歳)

生産調査会を創立し、副会長に就任。(生産調査会とは、政府の諮問機関のこと)

日韓が併合される。

 

【1911年】(71歳)

渋沢栄一、勲一等に叙し、瑞宝章が授与。

清国で辛亥革命が勃発

関税自主権が回復する。これにより、幕末に井伊直弼によって締結された諸外国との不平等条約が完全に撤廃される。

 

【1912年(明治45年・大正元年)】(72歳)

ニューヨーク日本協会協賛会が創立され、栄一は名誉委員長となる。

渋沢栄一の生涯の相棒であったいとこ・渋沢喜作渋沢成一郎)が亡くなる。

辛亥革命の影響で清国が滅亡し、中華民国が誕生

乃木希典将軍が、明治天皇に殉じで亡くなる。

ストックホルムオリンピック開幕。日本からは金栗四三三島弥彦が参加。金栗はマラソンに参加し、途中で行方不明となる。(このとき日射病により民家で介抱された金栗は、1967年の記念式典で55年越しのマラソンゴールを果たす)


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【1913年(大正2年)】(73歳)

日本結核予防協会が創立され、栄一は副会頭をつとめ、のちに会頭をつとめる。

日本実業協会が創立され、栄一は会長をつとめる。

中華民国の国民党党首だった孫文が来日、渋沢栄一がこれを出迎えた。

渋沢栄一の嫡子・渋沢篤二が、病弱であることなどを理由に廃嫡される。栄一の後継者には、篤二の息子・渋沢敬三が指名される。(廃嫡の理由は諸説あり、篤二が新橋の芸妓に惚れ込んで、正妻を追い出して家に入れようとしたことに、栄一が激怒したためともいわれている。渋沢敬三は、戦後の幣原喜重郎内閣で大蔵大臣を務めている)

渋沢栄一の主君であった最後の征夷大将軍・徳川慶喜が死去。享年76歳(数え年77歳)

 

【1914年】(74歳)
渋沢栄一、日中両国の経済界提携のために、中華民国を訪問する。

第一次世界大戦が勃発。日本は日英同盟を理由に連合国へ参加し、ドイツ帝国に対して宣戦布告。

 

【1915年】(75歳)
パナマ太平洋博覧会・パナマ運河開通博覧会のためアメリカを訪れ、ウィルソン米大統領と会見。

長年の盟友であった井上馨が死去。享年79歳

日本が中華民国の袁世凱に対して、対華二十一カ条を要求。

≪井上馨≫
「引用元ウィキペディアより」

【1916年】(76歳)
渋沢栄一第一銀行の頭取を辞任。

日米関係委員会が発足されると、常務委員に就任する。

夏目漱石が亡くなる。

 

【1917年】(77歳)
日米協会が創立されると、名誉副会長に就任する。

ロシア革命が起こる。1891年大津事件で負傷したニコライ皇太子は、このときロシア皇帝ニコライ二世となっていたが、レーニンによって処刑される

 

【1918年】(78歳)

渋沢栄一、主君であった徳川慶喜に関する著書「徳川慶喜公伝」(竜門社)を刊行する

第一次世界大戦が終結。

スペインかぜによる感染爆発が始まる。


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【1919年】(79歳)

協調会(きょうちょうかい)が創立されると、名誉副会長をつとめる。協調会とは、労働運動の激化がおこったことにより、労資協調のための研究調査・社会事業を行う目的でつくられた財団法人のこと。初代会長は徳川慶喜の後継者である徳川家達(いえさと)

パリ講和会議ヴェルサイユ会議)が開かれる。ヴェルサイユ条約が調印される。(第一次世界大戦の講和条約のこと)

 

【1920年】(80歳)
国際連盟協会が創立されると、栄一は会長に就任する。

子爵の爵位を授けられる。

戦後恐慌が起こる。

 

【1921年】(81歳)
排日問題について対策を練るために渡米。ワシントン軍縮会議に出席。ハーディング米大統領と会見。

首相の原敬が暗殺される。

スペインかぜ終焉

 

【1922年】(82歳)

渋沢栄一の孫・渋沢敬三と、岩崎弥太郎の孫・木内登紀子が結婚。

山県有朋・死去。

森鴎外・死去。

ソビエト連邦が成立する。

 

【1923年】(83歳)

関東大震災が起こる。渋沢栄一は地震の直後から街中を走り回って、被災者のために力を尽くしたという。

 

【1924年】(84歳)
日仏交流のために日仏会館を発足させて、理事長をつとめる。

東京女学館の館長をつとめる。

アメリカで排日移民法が成立する。

甲子園球場が完成する。

 

【1925年】(85歳)

普通選挙法が制定される。

日本とソビエトのあいだで、日ソ基本条約が結ばれる。

 

【1926年(大正15年・昭和元年)】(86歳)
日本太平洋問題調査会が創立されると、評議員会の会長をつとめる。

日本放送協会が創立されると、顧問をつとめる。

ノーベル平和賞の候補となるが、受賞はならなかった。(このときの受賞者はロカルノ条約に尽力した、フランスのブリアン氏と、ドイツのシュトレーゼマン氏)

 

【1927年】(87歳)
日本国際児童親善会を設立し、力を尽くす。このとき日米それぞれの人形を交換するという交流が行われている。(日米親善人形歓迎会)

再びノーベル平和賞の候補となるが、受賞はならなかった。(このときの受賞者は独仏融和に貢献した、フランスのビュイソン氏と、ドイツのクヴィデ氏)

金融恐慌が起こる

 

【1928年】(88歳)

航空会社・日本航空輸送会社が創立され、創立委員長をつとめる。

日本女子高等商業学校の発起人をつとめる。

張作霖爆殺事件が起こる

 

【1929年】(89歳)

中央盲人福祉協会が創立され、会長をつとめる。

世界大恐慌が起こる。

 

【1930年】(90歳)

海外植民学校の顧問をつとめる。

昭和恐慌が起こる


「乃木希典」「山県有朋」「金栗四三」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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1931年(昭和6年)、逝去。享年91歳。

【1931年(昭和6年)】(91歳)
中華民国で水害が発生。このとき栄一は、中華民国水災同情会という組織の会長をつとめて、義援金をあつめるために力を尽くす。

満州事変勃発。

11月11日、渋沢栄一死去。享年91歳。

死因は「大腸狭窄症」。

お墓は東京・谷中霊園の渋沢家墓地。この谷中霊園には、渋沢栄一の旧主・徳川慶喜のお墓もある。

1932年(昭和7年)から、1945年の終戦までに起きた出来事

1932年
渋沢栄一の長男・渋沢篤二が死去。享年61歳。

満州国が建国され、清国最後の皇帝・溥儀が元首となる。

五・一五事件が起こり、首相・犬養毅が暗殺される

 

1933年
松岡洋右国際連盟からの脱退を表明。

 

1934年

帝人事件という疑獄事件がおこり、斎藤実内閣が総辞職する。

アメリカ大リーグの選抜チームが来日。この中にベーブ・ルースもいた。

 

1935年
アドルフ・ヒトラーが、1919年に締結された第一次世界大戦の講和条約・ヴェルサイユ条約を破棄し、ドイツの再軍備を宣言する。

 

1936年
二・二六事件がおこり、高橋是清らが暗殺される

日本とドイツのあいだで、日独防共協定が結ばれる

1940年オリンピック東京大会の組織委員会が成立し、公爵・徳川家達が委員長に就任。

 

1937年
日中戦争支那事変)が勃発する。

 

1938年
日中戦争などが原因で1940年の東京オリンピック中止が決定する。

 

1939年
ドイツのポーランド侵攻により、第二次世界大戦が始まる。

 

1940年
日独伊三国同盟が結ばれる

 

1941年
真珠湾攻撃がおこなわれ、太平洋戦争大東亜戦争がはじまる。

《太平洋戦争・大東亜戦争》
「引用元ウィキペディアより」

1942年
日本軍がミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗。

 

1943年
日本軍がガダルカナル島から撤退

 

1944年
インパール作戦が始まる。作戦は失敗し「史上最悪の作戦」と呼ばれるほど、日本軍は甚大な被害を出す(イギリス領だったインド北東部の都市・インパールの占領を目指した作戦のこと)

 

1945年昭和20年)】

3月9~10日、東京大空襲

4月30日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺

5月9日、ドイツ降伏

8月6日、広島への原爆投下

8月9日、長崎への原爆投下

8月14日、ポツダム宣言受諾

8月15日、玉音放送・終戦


「太平洋戦争(大東亜戦争)」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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渋沢栄一が関わった【企業・会社一覧】

ここでは「渋沢栄一」が創立・経営に関わった企業・会社・組織を一覧でご紹介いたします。

渋沢栄一がかかわった会社は膨大な数であるため、以下でご紹介する会社は、その中でも代表的なもののみであることをご理解くださいませ。


1,銀行
第一国立銀行・第一銀行
第二十三国立銀行
第五十九国立銀行
第二十国立銀行(二十銀行)
第十九国立銀行
第三十二国立銀行
第十六国立銀行
第七十七国立銀行(七十七銀行)
第六十九国立銀行(六十九銀行)
第六十八国立銀行
日本銀行
横浜正金銀行
第三十三国立銀行
東京貯蓄銀行
第八十九国立銀行
高岡共立銀行
九州商業銀行
日本勧業銀行
秋田銀行
台湾銀行
北海道拓殖銀行
日本興業銀行
黒須銀行
三十九銀行
日英銀行
宮城屋貯蓄銀行
帝国商業銀行
韓国銀行
東京栄銀行
日仏銀行
日米通商銀行
日露銀行
加州銀行
第十銀行
八十四銀行
中井銀行
神田銀行

 

2,銀行団体
択善会
東京銀行集会所・東京銀行倶楽部
大阪銀行集会所
関東銀行会
鰻会
水曜会
京都銀行集会所
名古屋銀行集会所
鮟鱇会
関西銀行大会懇親会
奥羽同盟銀行会
銀行員同攻会

 

3,手形交換所
大阪交換所
東京手形交換所
全国手形交換所聯合会

 

4,興信所
東京興信所

 

5,保険
東京海上保険株式会社(東京海上火災保険株式会社)
明治火災保険株式会社
横浜火災保険株式会社
明教保険株式会社
日清火災保険株式会社
日清生命保険株式会社
万歳生命保険株式会社
東明火災海上保険株式会社
東洋生命保険株式会社
日本傷害保険株式会社
日本徴兵保険株式会社
帝国火災保険株式会社
東邦火災保険株式会社
扶桑海上保険株式会社
第一火災海上保険株式会社

 

6,その他の金融機関および金融問題
日英金融商会
八基村信用組合
復興建築助成株式会社

 

7,海運
東京風帆船会社
共同運輸会社
日本郵船株式会社
浅野回漕部
東京湾汽船株式会社
東洋汽船株式会社
日本汽船株式会社
日清汽船株式会社

 

8,陸運
東京鉄道組合
東京馬車鉄道会社
濃勢鉄道会社
日本鉄道株式会社
両毛鉄道株式会社
水戸鉄道会社
総武鉄道株式会社
東京市ノ市街鉄道
日光鉄道会社
常磐炭礦鉄道会社
北海道炭礦鉄道株式会社
参宮鉄道株式会社
筑豊興業鉄道会社(筑豊鉄道株式会社)
北越鉄道株式会社
鉄道民有調査会
両山鉄道株式会社・大社鉄道株式会社
磐城鉄道株式会社
京北鉄道株式会社
岩越鉄道株式会社
京都鉄道株式会社
掛川鉄道株式会社
陸羽電気鉄道株式会社
群馬電気鉄道会社
函樽鉄道株式会社(北海道鉄道株式会社)
西成鉄道株式会社
台湾鉄道株式会社
南豊鉄道株式会社
金城鉄道株式会社
駿甲鉄道株式会社
船越鉄道株式会社
京板鉄道株式会社
九州鉄道株式会社
函館馬車鉄道株式会社
毛武鉄道株式会社
京阪鉄道株式会社
東京鉄道株式会社
神戸電気鉄道株式会社
京阪電気鉄道株式会社
京越電気鉄道株式会社
小倉鉄道株式会社
越後鉄道株式会社
上武鉄道株式会社(秩父鉄道株式会社)
大日本運送株式会社
富士身延鉄道株式会社
筑波鉄道株式会社
東京地下鉄道株式会社
目黒蒲田電気鉄道株式会社
土地会社
帝国鉄道協会

 

9,航空
財団法人帝国飛行協会
日本航空輸送株式会社

 

10,通信
電話会社
日本無線電信株式会社

 

11,綿業
大阪紡績株式会社
三重紡績株式会社
鐘淵紡績株式会社
大日本紡績同業聯合会
紡績職工誘拐事件仲裁
岩橋リボン製織所
三栄綿布組合
暹羅国棉花栽培調査会
日出紡織株式会社
台湾棉花栽培組合
東洋紡績株式会社

 

12,蚕糸・絹織業
京都織物株式会社
郡山絹糸紡績株式会社
財団法人大日本蚕糸会
両毛織物鑑賞会
帝国蚕糸株式会社(大正四年設立)
帝国蚕糸株式会社(大正九年設立)
横浜蚕糸貿易商同業組合

 

13,製麻・毛織・製帽
北海道製麻株式会社
下野麻紡織会社(下野製麻株式会社)
日本製帽会社
東京帽子株式会社
東京モスリン紡織株式会社
東京毛織物株式会社
帝国紡織株式会社
帝国製麻株式会社

 

14,製紙
抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
製紙所聯合会(日本製紙聯合会)
四日市製紙株式会社
中央製紙株式会社
木曾興業株式会社
樺太工業株式会社

 

15,製革
依田西村組(桜組)
日本熟皮会社
熟皮株式会社
日本皮革株式会社

 

16,製糖
日本精糖株式会社 [精糖事業調査会]
八重山糖業株式会社
帝国製糖株式会社
台湾製糖株式会社
明治製糖株式会社
大日本製糖株式会社
南日本製糖株式会社

 

17,麦酒醸造
ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド
札幌麦酒株式会社
大日本麦酒株式会社

 

18、窯業
品川白煉瓦株式会社
浅野セメント株式会社
京都陶器会社
磐城硝子会社
日本煉瓦製造株式会社
品川硝子会社
門司セメント株式会社
旭焼組合
田中工場(東洋硝子株式会社)
三河セメント工場
日本板硝子株式会社
東洋硝子製造株式会社
友玉園製陶所
東武煉瓦株式会社
日本陶料株式会社
秩父セメント株式会社
浅野超高級セメント株式会社

 

19,鋼鉄・精錬
東京製綱株式会社
東洋亜鉛煉工所
日本中央製錬株式会社
日本鋼管株式会社
東洋製鉄株式会社
九州製鋼株式会社
株式会社大島製鋼所
富士製鋼株式会社

 

20,船渠・造船
浦賀船渠会社設立計画(船渠・せんきょ)せんきょとは造船ドックのこと。ドックとは造船や修理のための施設のこと
株式会社東京石川島造船所
株式会社東京石川島造船所 付.株式会社石川島飛行機製作所
横浜船渠株式会社
函館船渠株式会社
浦賀船渠株式会社
株式会社浅野造船所
船鉄交換問題

 

21,汽車製造・自動車製造
平岡工場
汽車製造株式会社
日本自働車株式会社
山本工場

 

22,化学工業
東京人造肥料株式会社
東京薬品会社
日本舎密製造株式会社
日本醋酸製造株式会社
日本化学工業株式会社
堺セルロイド株式会社
肥料取締法問題
日本肥料協会
大日本人造肥料株式会社
三共株式会社
電気化学工業株式会社
日本染料製造株式会社
全国化学工業大会
匿名組合志賀工業所(日本耐火防腐株式会社)
理化学興業株式会社

 

23,瓦斯(ガス)
東京会議所瓦斯掛
東京府瓦斯局
東京瓦斯株式会社
大阪瓦斯株式会社
名古屋瓦斯株式会社
門司瓦斯株式会社
北海道瓦斯株式会社
帝国瓦斯協会
東洋瓦斯試験所

 

24,電気
東京電灯株式会社
広島水力電気株式会社
東京水力電気株式会社
東京電力株式会社
名古屋電力株式会社
常磐水力電気株式会社
日英水力電気株式会社
猪苗代水力電気株式会社

 

25,土木・築港・土地会社・その他
横浜高島町埋立
野蒜築港会社
日本土木会社
印旛沼開鑿計画
門司築港会社
若松築港株式会社
東洋浚渫株式会社
函館土地合資会社
大船渡築港鉄道株式会社
関門架橋株式会社
鶴見埋築株式会社
田園都市株式会社
東京運河土地株式会社
東京湾埋立株式会社
仙石原地所株式会社・箱根温泉供給株式会社

 

26,取引所
東京株式取引所
東京米商会所
横浜洋銀取引所
大阪株式取引所
大阪堂島米商会所
東京商品取引所
東京銀塊取引所
横浜ニ於ケル商品取引所合併問題
東京米穀商品取引所

 

27,倉庫
倉庫業創設運動
北越商会
倉庫会社・均融会社
敦賀・伏見・四日市ニ於ケル倉庫業
土崎港ニ於ケル倉庫会社
渋沢倉庫部(渋沢倉庫株式会社)
東海倉庫株式会社
王子倉庫株式会社

 

28,ホテル業
帝国ホテル
日光ホテル
京都ホテル
日本ホテル協会

 

29,貿易
小野組糸方
生糸改会社
先収会社
蚕種紙買入所
蚕種製造組合条例並ニ蚕種製造組合会議局
聯合生糸荷預所
蚕業諮問会
日本輸出米商社
社団法人日本貿易協会 付.商品陳列館
横港生糸売込問屋組合 [横浜生糸売込問屋組合]
匿名組合堀越商会
青木商会
改正条約実施準備会
日露貿易株式会社
渋沢貿易合名会社
日羅商事委員会
仏国通商株式会社

 

30,諸商工業
内外用達会社
秀英舎
朝陽館
東京廻米問屋組合
東京水道会社
四日市製油会社
製藍会社
青山製氷会社
東京建物株式会社
東京印刷株式会社
亜麻仁油製造株式会社
日本鉛管製造株式会社
東洋護謨株式会社
株式会社中井商店
合資会社生秀館
東洋電機株式会社(東洋電機製造株式会社)
合資会社沖商会(沖電気株式会社)
帝国ヘット株式会社
東京会館設立計画
日本石膏株式会社
共同精米株式会社
株式会社三越呉服店
非常報知機株式会社
日米缶詰会社
株式会社東京会館

 

31、鉱業
足尾銅山組合
磐城炭礦株式会社
田川採炭株式会社
北越石油株式会社
長門無煙炭礦株式会社
藤原炭礦会社
茨城採炭株式会社
宝田石油株式会社
石狩石炭株式会社
北カラフト鉱業株式会社

 

32、農牧林・水産業
柳林農社
聯成社(岡部山林)
房総漁産会社
耕牧舎
十勝開墾株式会社
日本水産会社
三本木渋沢農場
渋沢家洲崎養魚場
大日本水産会
力田協会
青木漁猟組
洲崎養魚株式会社(魚介養殖株式会社)
小樽木材株式会社
大日本水産株式会社
東京園芸株式会社
日本食塩コークス株式会社
大日本遠洋漁業株式会社
日本畜産株式会社
社団法人中央畜産会
東北拓殖株式会社
帝国開墾株式会社
中央開墾株式会社
財団法人帝国森林会
八基村農政談話会
御木本真珠
扶揺舎

 

33,対外事業
韓国ニ於ケル第一銀行
日韓通商協会
東華紡績株式会社
上海紡績株式会社
京釜鉄道株式会社
京仁鉄道合資会社
鉱業組合稷山金鉱(稷山金鉱株式会社)
東洋万国株式会社
朝鮮協会
清韓協会
湖南汽船株式会社
韓国興業株式会社(朝鮮興業株式会社)
棉花栽培協会
韓国水力電気株式会社
平安電気鉄道会社
南満洲鉄道株式会社
東亜製粉株式会社
営口水道電気株式会社
韓国拓殖株式会社
韓国倉庫株式会社
日韓瓦斯株式会社(日韓瓦斯電気株式会社)
満洲興業株式会社
東洋拓殖株式会社
日清起業調査会
東亜興業株式会社
朝鮮製糖株式会社
株式会社馬来護謨公司
伯剌西爾拓植株式会社
中国興業株式会社
日新護謨株式会社
日本移民協会
中日実業株式会社
智利漁業株式会社
南洋協会
日華実業協会
朝鮮軽便鉄道株式会社
朝鮮森林鉄道株式会社
メキシコ共和国コロラド河流域開拓事業
朝鮮鉄道株式会社
株式会社金福鉄路公司
中央朝鮮協会
朝鮮鉄道促進期成会
コナ開拓株式会社
海外移住組合聯合会
南米拓植株式会社

 

34、経済団体および民間諸会
東京商法会議所
東京商工会
経新倶楽部
東京商業会議所
東京実業家相談会
商業会議所聯合会
関東・東北商業会議所聯合協議会
日本経済会
パリ博覧会出品組合
地租増徴期成同盟会
横浜経済会
有楽会
偕楽会
商工経済会
財界振興会
東京商工懇話会
東北振興会
日本実業協会
財団法人国産奨励会(財団法人日本産業協会)
社団法人日本工業倶楽部
東京商工奨励館設立期成会
大日本米穀会
万国工業会議
日本経済聯盟会

 

35、政府諸会
鉄道会議
鉱業諮問会
法典調査会
貨幣制度調査会
商業会議所条例改正案諮問会
農商工高等会議
生産調査会
米価調節調査会
経済調査会
臨時国民経済調査会
臨時財政経済調査会
製鉄鋼調査会

 

36、博覧会
第三回内国勧業博覧会
コロンブス世界博覧会臨時博覧会事務局
第四回内国勧業博覧会
パリ万国博覧会臨時博覧会事務局
第五回内国勧業博覧会
東京勧業博覧会
日本大博覧会
パナマ太平洋万国博覧会臨時博覧会事務局
江戸記念博覧会
電気博覧会
平和記念東京博覧会協賛会
中外商業新報社創立五十週年紀念産業文化博覧会
大礼記念国産振興東京博覧会協賛会
東北産業博覧会

引用元「渋沢栄一が携わった事業一覧(公益財団法人・渋沢栄一記念財団より)」より


渋沢栄一が関わった大学・教育機関」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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『渋沢栄一』は、どうやって500もの会社経営・設立に関われたの?

生涯に500以上の会社にかかわり、600以上もの団体にかかわった渋沢栄一ですが、どのようにしてそれほどの数をこなすことが出来たのか?について解説いたします。

渋沢栄一が500もの会社に関われた理由

渋沢栄一は、なぜ500もの会社に関わることが出来たのでしょうか?

その理由は簡単で、「渋沢栄一みずからが企業を経営していたわけではない」からです。

先程も申しましたが、渋沢栄一は、孫正義さんやスティーブ・ジョブズさんとは違い、自分で会社を起業して経営したわけではありません。

会社を経営する人々に対して、資金や知識を与えて、さらには自分が取締役や委員となって経営をお手伝いしたりしたのです。

以前、お笑い芸人の「ビビる大木」さんという方が、渋沢栄一の凄さについて、こんなことをおっしゃっておられました。

「渋沢栄一は、人に任せてしまうことができる人だった」

渋沢栄一は、みずからが会社をつくって経営する点で優れていたわけではありません。

確かに「経営力」も優れてはいましたが、それよりも「会社を起こす人」または「会社を経営する人」を応援する、というやり方をつらぬいたため、500もの会社の誕生・経営に関わることが出来たのだと考えられます。


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渋沢栄一は、何がすごいのか?その逸話・エピソードをご紹介

さきほど、「渋沢栄一は、みずから500もの会社を経営したわけではない」と申しました。

では、渋沢栄一は一体何がすごかったのでしょうか?

たしかに渋沢栄一は、500以上の会社を自分でつくって巨大企業へと成長させたわけではありません。

しかし渋沢栄一が、明治時代から現代にまで続く代表企業の創立・経営を支援し、成功へと導いたことは、疑いようもない事実です。

そして何よりも、渋沢栄一は「他人の幸福」を何よりも大切にした人でした。

渋沢秀雄氏が残した著書「澁澤榮一」には、そんな渋沢栄一の人柄を物語るエピソードがいくつも記されています。

 

たとえば、90歳をこえて風邪によって寝ていた渋沢栄一が「二十万人もの人が、空腹と寒さで苦しんでいる」という相談を受けて、病床から出て大蔵大臣と内務大臣に協力を求めに出かけた、というエピソードが記録されています。

 

また、関東大震災が起こった際に、街で強盗が多発していたために、子どもたちが85歳の渋沢栄一に対して、ことが沈静化するまで東京を離れたほうが良いとすすめると

「こんなときに逃げ出せるか!

私のような老人は、こんなときに働いてこそ、生きている申し訳がたつというものだ」

と言って、栄一は激怒したといいます。3日も経つと、栄一はすでに街を走り回って、救済に奔走していたとのことです。

 

「他人の幸福」を何よりも大切にしたということで、面白いエピソードが書籍「澁澤榮一」に残されています。

1878年渋沢栄一は三菱のトップである岩崎弥太郎から誘われて、向島の料亭「柏屋」で会談します。

《岩崎弥太郎》
「引用元ウィキペディアより」

このとき岩崎弥太郎は、渋沢栄一が常々言っていた

「会社が利益を出したら、その利益を人々に分け与えなくてはいけない。独占はいけない」

という意見を批判。

「独占的に行わなくては、何事も前に進まない」

と主張して、渋沢栄一に信念を曲げて、自分の事業に協力してほしいと頼んだのです。

ところが渋沢栄一は、これを拒絶し大喧嘩に発展します。

その後渋沢栄一は、海運業を独占する三菱汽船と岩崎弥太郎に対して、別会社「共同運輸(風帆船会社)」を設立させてそれを応援する形で、競争を挑みます。

「他人の幸福」のために、渋沢栄一岩崎弥太郎に戦いを挑み、ついには共倒れ寸前まで争った挙げ句に、両社は合併・合同という形で、日本郵船という新しい会社を誕生させるに至ったのでした。

 

このように、渋沢栄一はあくまでも「他人の幸福」のために、生涯をささげた人だったのです。

「私が本気になったら、三井・三菱など相手にもならない」

そんなことを口にしていたと言いますが、渋沢栄一の経営手腕は確かに優れていました。

もしも本気で渋沢栄一が、岩崎弥太郎がつくった三菱のような巨大財閥をつくろうと思ったら、間違いなく大金持ちの大実業家になっていたはずです。

ところが渋沢栄一は、自己の欲望よりも、他人の幸福を優先し、あくまでも自分の金儲けを考えず、ただただ人のために尽くし続けたのでした。

渋沢栄一が経営を応援したり、創業を助けたりして関わった数々の企業は、明治の日本を支え、現代日本でも数々の利益をあげて、人々の生活を支えています。

ただただ他人の幸福のために尽くし続けた渋沢栄一は、巨大財閥をつくって大儲けした岩崎弥太郎などの起業家よりもひとつ上の爵位である「子爵」の位をあたえられています。

これこそが、他者のためにつくした渋沢栄一の功績が、公に認められている証拠なのではないでしょうか。

渋沢栄一の功績、渋沢栄一がやったこととは

500以上の会社をつくったこと

ではなく、すなわち

「他人の幸福を何よりも大切にし、最期の最期まで他人に尽くしたこと」

であると思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,渋沢栄一は、どのような生涯を送ったのか?

渋沢栄一は、江戸時代の【1840年】から、昭和の【1931年】までの91年間を、経済界発展と他人の幸福のために捧げて生き抜いた「資本主義の父」。

 

2,渋沢栄一が残した功績とは、どのようなものがあるのか?

渋沢栄一は、みずからが頭取(とうどり・社長)をつとめた第一銀行(現在のみずほ銀行)を通じて、数々の企業に対して支援や協力をし、実に500もの会社の経営・運営にかかわった。

この500の企業は

  • みずほ銀行
  • 七十七銀行
  • サッポロビール
  • 清水建設
  • 日本郵船
  • IHI

などなど、形を変えて6割ほどが現在も残っている。

 

3,渋沢栄一が500もの会社経営に関われた理由とは?

渋沢栄一は、ソフトバンクの孫正義氏や、アップルのスティーブ・ジョブズ氏のような、一代で巨大企業をつくりあげた創業者・経営者ではなく、あくまでも企業の支援をした人だった。

第一銀行の経営を通じて、銀行家として、企業の経営や創業を金銭面で支援したり、知識や経験で経営を指導したり、という形をとった。

そのため自分で会社を経営をしたわけではないため、生涯に500もの会社に関わることが出来た。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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