元内閣総理大臣「大隈重信」について、彼が成し遂げた「功績」と、「早稲田大学創設のエピソード」を、わかりやすく解説いたします。
「早稲田大学創設のきっかけは、慶應義塾大学創設者の福沢諭吉だった」
大隈重信と福沢諭吉。犬猿の仲だったはずの二人だが、いつの間にやら親友に!
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この記事を短く言うと
・大隈重信は佐賀藩出身の武士。同郷の「江藤新平」や「副島種臣」とともに、明治政府で活躍した
・2度、内閣総理大臣として活躍。その他、外務大臣や内務大臣を歴任した
・早稲田大学を創設したのは、実は「慶應義塾」創立者「福沢諭吉」がきっかけだった
《大隈重信とは何者か?簡単なプロフィールを解説》
大隈重信

《大隈重信》
『引用元ウィキペディアより』
明治の政治家
2度、内閣総理大臣を務めた人物で、元は佐賀藩の武士
参議や大蔵卿、外務大臣や内務大臣を歴任した政治家
そして、「早稲田大学」の創設者でもあります。
- 名前、大隈重信(幼名・八太郎)
- 生没年月日、1838~1922年(83歳没)
- 父、大隈信保
- 母、三井子
- 出身地、肥前国佐賀城下会所小路(現在の佐賀県佐賀市水ケ江)
- 死没地、東京府東京市牛込区早稲田
- 出身学校、弘道館の佐賀藩校
- 所属政党の移り変わり、立憲改進党→無所属→立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党
引用元ウィキペディアより
大隈重信は
彼ら6名と並び「佐賀の七賢人」と呼ばれています。
大隈重信は、西郷隆盛と非常に不仲だったことで有名ですが、西郷のことを人情に厚い人であることを認めています。
清廉潔白な西郷隆盛と、清濁併せ呑むタイプの大隈重信では、相性が悪かったのでしょう。
また、大隈重信が政治に関与することとなったのは薩摩藩家老「小松帯刀」の推挙によるものでしたので、薩摩藩とはかなり関わりがあります。
《大隈重信の功績を短く解説》
大隈重信が残した功績を、わかりやすく短く開設いたします。
・日本初の政党内閣を組閣した
・薩長藩閥以外から、初の総理大臣となった
・内閣総理大臣を2度、外務大臣を4度つとめ、政治家として活躍した
・早稲田大学を創設した
・日本の暦を「太陽暦」から、現在の「グレゴリオ暦」へと変えた
大隈重信が内閣総理大臣になるまで、明治政府は「薩長藩閥」によって実質的に支配されていたのです。
佐賀出身で、大隈重信と同郷の「江藤新平」は、薩長藩閥に逆らって政治の主導権を握ろうとしましたが、大久保利通との政争に敗北。
盟友であった「大隈重信」は、その雪辱を果たした・・・ということになるのかもしれません。
《早稲田大学創設!実は、ライバルの「あの人」のおかげだった》
大隈重信といえば、早稲田大学の創設者
そして「早稲田大学」といえば、「慶應義塾大学」のライバル
実は「早稲田大学」は、その「慶應義塾大学」の創設者「福沢諭吉」の一言で創設が実現したのです。
大隈重信と福沢諭吉・・・2人は非常に仲が悪かったのです。
大隈重信は生粋の政治家
対して福沢諭吉は、思想家であり著述家、そして教育者
今で言うなら、政治家と、それを批判する良くテレビに映っている専門家のような関係
特に福沢諭吉は政治家が嫌いで、大隈重信のことを「生意気な政治家」と雑誌でコメントしていました。
対して大隈重信もまた、福沢諭吉のことを「お高くとまっている学者」と言い、顔を合わせないように互いに注意していたらしいです。
とある雑誌編集部が、その両者を合わせようと画策。
偶然を装って両者は顔を合わせたわけですが、お酒が回ると両者は意気投合。
その席で大隈重信は
「福沢先生はうらやましい。未来ある若者に囲まれておられる」
対して福沢諭吉は
「あなたも学校をおやりになられたらどうですか?」
これが「早稲田大学」創設のきっかけでした。
つまり、早稲田大学のライバル「慶應義塾大学」の創設者・福沢諭吉が、早稲田大学誕生のきっかけをつくったということ。
大隈重信と福沢諭吉はこの後も、互いの自宅を訪れ合うほどに仲良しになりました。
東京専門学校(後の早稲田大学)開校式には、福沢諭吉も出席。
福沢諭吉が亡くなると、その葬儀に大隈重信は献花をおこない、献花を断っていた福沢家の遺族も、大隈重信からだけは受け取ったと言われています。
《大隈は、右足を「ホルマリン漬け」にして、客にみせていた!》
大隈重信は、ある事件で「右足」を失い、「義足」を使っていたことで有名です。
1889年「大隈重信遭難事件」と呼ばれる事件で、大隈は負傷。命は助かったものの、右足を失ってしまったのです。
その右足・・・大隈は何を思ったか、「ホルマリン漬け」にして自宅で保管。
自宅をおとずれたお客様に見せびらかしていたのだとか。
この右足、現存しており、現在は大隈重信の菩提寺に保管されています。そして、彼が愛用していた「義足」も保管されています。
「大隈重信の右足」について、「現在どこにあるのか?」「足を失った理由」「使っていた義足のゆくえ」など、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・大隈重信とは、佐賀藩出身の「佐賀の七賢人」の一人
・2度内閣総理大臣を務め、政党内閣を初めて組閣した人物で、薩長以外ではじめての内閣総理大臣
・早稲田大学を創設したのは、ライバル慶應義塾大学の福沢諭吉の一言がきっかけ
以上となります。
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「西郷隆盛」「木戸孝允」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
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コメント
コメント一覧 (3件)
名前、生没の3行目
父親は大熊でなく、大隈です。
ご指摘ありがとうございます。
とても助かります。
後ほど確認・修正させていただきます。
ありがとうございます。
[…] 佐賀出身の元内閣総理大臣・大隈重信も、菅原道真の末裔を自称していました。 […]