西郷隆盛の弟「西郷従道(さいごうじゅうどう)」の「生涯」と「最期」とは、どんなものだったのでしょうか?
わかりやすく解説いたします。
「兄・隆盛を支えながらも、政府から去った兄と異なり、政府に残る道を選んだ従道」
「総理大臣」にすすめられながらも、理由あって断り続けていた
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この記事を短く言うと
・西郷従道とは、西郷隆盛の弟で、明治政府で大臣を歴任した
・西郷隆盛の弟として産まれ、兄と共に明治維新に尽くした。西南戦争では兄・西郷隆盛とは違う選択をした
・実の兄・隆盛が一時的にでも「逆賊」となったので、総理大臣を固辞し続けた
西郷従道とは何をした人?その功績と西郷隆盛との関係
西郷 従道(さいごう じゅうどう)
元々は「西郷隆道(りゅうどう)」という名前でしたが、明治維新の後に改名。
名前を記録する役所の担当者に「りゅうどう」と自分の名前を話したところ、薩摩弁特有の「R」が「D」になってしまう発音が原因で「じゅうどう」と記録されてしまい、そのまま「従道」に改名したという・・・・小さいことにはこだわらないお方。

西郷従道
『引用元ウィキペディアより』
西郷隆盛の弟にして、海軍大臣や元老を務めた、薩摩藩閥の重鎮「西郷従道」について解説したいと思います。
「西郷従道」の功績
西郷従道は何を成し遂げた人なのか?その功績を短くご紹介いたします
・薩摩藩士として「精忠組」に参加し、尊皇攘夷と倒幕に尽力
・薩英戦争で、決死隊に参加。前線の砲台で活躍する
・戊辰戦争で、各地を転戦
・明治政府で「文部大臣」「陸軍大臣」「農商大臣」「海軍大臣」「内務大臣」などを歴任。その後貴族院議員に
明治10年に「西南戦争」で亡くなった兄「隆盛」と、袂を分かち従道は、明治政府に残ったのでした。
有能な部下に仕事を任せ、自分は口出しせずに、責任だけは自分が取る・・・というのが従道のやり方だったみたいです
西郷従道の生涯と最期
西郷従道の生涯と最期を簡単に解説いたします。
生い立ち
1843年、西郷従道は、西郷隆盛の弟として、鹿児島下鍛冶屋町で誕生。
幼名は龍助
15歳で茶坊主として出仕し、その後に出家して「龍庵」と名乗ります。
この頃に、剣術や兵学、その他の教養を身につけたのです
「寺田屋事件」「薩英戦争」「戊辰戦争」
「寺田屋事件」
1861年、お坊さんを辞めて「信吾」と改名
1862年、国父「島津久光」に従って大坂へ行った際に、「寺田屋」で、過激派薩摩藩士に協力。
しかし、「大山綱良」たちに説得されて、寺田屋を退去
過激派に加担した罪から、1年間の謹慎処分となります。
有馬新七たち「過激派」は処罰されました。これが「寺田屋事件」
「薩英戦争」
生麦事件の報復としてイギリス艦隊7隻が鹿児島に襲来。
西郷従道はこの時、謹慎を解かれて参戦。
「スイカ売り」に変装するという「決死隊」に参加したものの、作戦中止で命拾い。
砲撃で活躍して、功績を残しています。
「戊辰戦争」
1864年、小銃五番隊監軍として、戊辰戦争に参加
「鳥羽伏見の戦い」で、右耳下に銃撃の傷を負ったとのこと。
なんとか一命を取り留めた従道は、「江戸城無血開城」に立会、その後「上野戦争」にも参加。
さらに、新政府軍が越後で苦戦していると知ると、従道は支援に急行。
越後では、次兄「吉二郎」が苦戦していました。従道が着いたときには、戦いは終了し、兄「吉二郎」は残念ながら亡くなっていました。
明治維新後、兄「隆盛」が下野
1869年、西郷従道は山縣有朋とともに「フランス」などのヨーロッパへ留学。
1870年、帰国
兄・西郷隆盛が「明治六年の政変」・・・つまり「征韓論争」に敗れて下野。
いつでも兄「隆盛」に従っていた弟・従道ですが、この時は兄に従わず、政府に残留。
どうやら隆盛から、残るように説得されたとのことです。
または、従道自身、兄の「征韓論」に賛成できなかったとも言われています。
1874年、従道は陸軍中将に就任。
同年、台湾出兵において、軍を指揮しています。
西南戦争
1877年、西郷隆盛が「西南戦争」を起こします。
従道は兄・隆盛に協力はせず、一緒に留学していた「山縣有朋」が軍を率いて鎮圧へ。
この時、従道は、政府の留守を守っていました。
西南戦争が終わった際には、従道が「明治天皇」に、鎮圧を報告。
その時、明治天皇から直接お声をかけていただいたみたいです
「ご苦労。兄・隆盛は惜しいことをした」
「従道。これからも務めよ」
と・・・。
ちなみに明治天皇は、西郷隆盛の人柄を愛し
「西郷を殺せとは言わなかった!」
と、西郷の死を悲しみ、「反乱を起こした逆臣」であったはずの西郷隆盛の息子「寅太郎」に対して、官費でドイツ留学させています。
大久保利通暗殺と、その後
西南戦争後、西郷従道は「近衛都督」に就任。
1878年、大久保利通が「紀尾井坂の変」で暗殺されると、薩摩藩閥の重鎮としなります。
その後は、「参議」「陸軍卿」「開拓使長官」「海軍大臣」や「内務大臣」を歴任。
1891年に起こった「大津事件」では、ロシア皇太子『ニコライ』を襲撃した「津田三蔵」に対して、強く死刑を主張。
伊藤博文たちが、日本は法治国家であることを理由に、西郷従道が主張する「超法規的措置」を強く退けたため引き下がりました。西郷従道は、それだけロシアを警戒していたのです。
ちなみに、津田三蔵が「ニコライ皇太子」を襲撃した理由
「西郷隆盛が西南戦争で死なず、ロシアに逃げ込み、ニコライ皇太子と共に帰国する」
というデマを、津田三蔵が信じたため。
津田は、西南戦争で授与された勲章を剥奪されることを恐れて、ニコライ皇太子を襲撃したのだそうです。
従道はその後、ロシアを警戒し、かなりの無理をして戦艦「三笠」の建造を強行。日英同盟も推進
この「三笠」は、1904年の「日露戦争」で、従道の兄「吉二郎」が習字を教えた「東郷平八郎」が座乗した戦艦。
余談ですが・・・人気漫画「進撃の巨人」に登場するキャラクター「ミカサ・アッカーマン」の名前の由来がこの戦艦「三笠」なのです。
最期
1902年、目黒の自邸で死去
死因は「胃がん」
享年60歳
東京都目黒区上目黒に、従道の邸宅「西郷従道邸」が残されています。
兄・隆盛の反乱を理由に、総理大臣就任を固辞
西郷従道は、西南戦争後に政府の重職を次々と歴任しています。
しかし、「内閣総理大臣」だけには就任していません。
一緒にヨーロッパへ留学した「山縣有朋」は、何度も総理大臣に就任しています。
なぜ「総理」になっていないのか?というと、兄「西郷隆盛」が、逆賊の汚名を受けたから。
従兄弟の「大山巌」も、同じ理由で重職を固辞しています。
勿論西郷隆盛は、後に名誉回復されています。
しかし、清廉潔白で有名だった兄を思うと、従道は内閣総理大臣になる気にはなれなかったのでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・西郷従道は、西郷隆盛の弟にして、海軍大臣や明治政府の重職を歴任した人物
・寺田屋事件に関与し、戊辰戦争において各地で転戦
・西南戦争では、兄・隆盛と対立することとなる
・その後は、兄・隆盛のことを気にして、内閣総理大臣を固辞し続けた
以上となります。
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