幕末に薩摩・長州と「岩倉具視」が起こした「王政復古の大号令」
その直前に、「徳川慶喜」が起こした「大政奉還」
これらは、どういう違いがあるのでしょうか?
「王政復古の大号令」とは、「新政府の樹立宣言」のこと。
「大政奉還」とは、「幕府から朝廷へ政権をかえす宣言」です。
この記事では、「王政復古の大号令」と「大政奉還」の違いを、わかりやすく簡単に解説いたします。
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この記事を短く言うと
・王政復古の大号令とは、岩倉具視や薩長が起こした「新政府」の樹立宣言
・大政奉還とは、徳川慶喜が行った「政権を朝廷に返上」する宣言
・王政復古の大号令とは、「徳川慶喜」を新しい政府から排除するためのクーデターだった
「王政復古の大号令」への経緯を解説!実は「大政奉還」への反撃だった
「王政復古の大号令」とは、1868年1月3日に起こった出来事
・徳川慶喜の将軍職辞職による徳川幕府の廃絶
・摂政・関白など旧公家社会の解体
・三職(総裁・議定・参与)の設置による新政府樹立を宣言
などを決めた「政変」「大改革」のことを指します。
1867年の徳川慶喜による大政奉還により、倒幕の名目を失った岩倉具視を代表とする公家や、薩長などの討幕派が、起死回生を狙ったクーデター宣言ともいわれています。
倒幕派は「王政復古の大号令」をきっかけに、幕府を挑発し、無理やり「鳥羽伏見の戦い」を引き起こし、倒幕を実現したのです。
「王政復古の大号令」とは何か、わかりやすく解説
王政復古の大号令は、五つの項目で成り立っています。
①将軍職辞職を勅許
徳川慶喜の将軍辞職届けを受理して、慶喜の政治的権限を奪うこと。
②京都守護職・京都所司代の廃止
この役職に就いていた松平容保や松平定敬を京都から追放し、一会桑連合(いっかいそうれんごう・・・一橋家,会津藩,桑名藩)をバラバラにすること。
③幕府の廃止
幕府組織を解体し、権力を新政府に全て集中させること。
④摂政・関白の廃止
5摂家中心の門閥体制を崩すこと。
⑤新たに総裁・議定・参与の三職をおく
これらの古い政治形態に変わり、総裁・議定・参与の三職をおいて新政府の政策運営を行うこと。
幕府の権限ははく奪され、すべて新政府にゆだねるというものです。
これでは、幕府はひとたまりもありません。
なんといっても「幕府」の権限を廃する・・つまり幕府を廃止してしまう宣言なのですから。
「大政奉還」と「王政復古の大号令」の違い
ちなみに「大政奉還」とは、徳川慶喜による「政権返上」のこと。
それまで日本の政治を行っていたのは「江戸幕府」と幕府のトップ「征夷大将軍」でした。
しかし、徳川慶喜はその「政治を行う権利」を「朝廷」へ返したのです。
これにより、西郷隆盛や大久保利通が画策していた「討幕」は出来なくなりました。
なぜなら「大政奉還」で、倒すべき幕府がなくなったから。
例えるなら
「内閣総理大臣を倒そうと、デモの許可を求めたら、デモを起こす前に総理大臣が自ら辞職したため、デモをする必要がなくなった」
というようなもの
大政奉還を「総理大臣の辞職」に例えるなら、王政復古の大号令は「新しい会社(新政府)の設立」に例えられるかもしれません。
「旧会社(幕府)の社長が気に入らないから、新会社(新政府)を設立して、社長(慶喜)以外の全員が新会社に移ってきた」
という感じでしょうか。
大政奉還は「慶喜による策略」、王政復古の大号令は「大政奉還に対する対抗措置」なのです。
すべては「徳川慶喜」を排除するためだった
王政復古の大号令によって、約700年ぶりに天皇主導で政治が行われることになりました。
総裁・議定・参与の三職の人事は、武力倒幕派だけでなく公議政体論・公武合体派からも選ばれており、そのため諸侯会議では、徳川慶喜の今後の扱いについて激しく対立しました。
慶喜を残しておくと、それを支持する勢力も生き残り、新体制は慶喜が手動するものと成るのでは?という恐れがあったために、完全に慶喜を排除した「王政復古の大号令」を起こしたともいえます。
「王政復古の大号令」について「ひとこと」いいたい
実は「王政復古の大号令」が起こることを、徳川慶喜は事前に知っていました。
しかし慶喜は、この「王政復古の大号令」に対して、何も手出しせず、黙って薩長の好きなようにさせています。
「武家政権」・・・・平清盛や源頼朝らが武家政権を樹立してから、幕末まで約600年。それまで朝廷は、「建武の新政」を除いて、ほとんど政治をやったことがありません。
朝廷に実務経験がないことを知っていた慶喜は、「王政復古の大号令」で新政府樹立を宣言したことを黙って見過ごします。新政府を樹立しても、どうせ何もできないことを知っていたのです。
「幕府」という巨大な行政機関を、まるまる抱えている徳川慶喜は、なおも全国を統治する意思を宣言。朝廷も、それに信任を与えるという有様で、実は「王政復古の大号令」は失敗に終わっているのです。
これに焦った「西郷隆盛」が、後に「赤報隊」を率いることとなる「相良総三」らを使って、江戸の幕府側を挑発。庄内藩に「薩摩藩邸焼き討ち」などを起こさせて、「鳥羽伏見の戦い」を無理やり引き起こし、ついに「戊辰戦争」を勃発させるのです。
これにより「武力討幕」を実現し、「江戸城無血開城」で幕府は崩壊。徳川家康がつくった「江戸幕府」は265年で終わったのでした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・王政復古の大号令は、大政奉還により倒幕の名目を失った薩長などの討幕派が、起死回生を狙ったクーデター。
・幕府を完全に解体し、天皇を中心とした新政府による政治政権を樹立させるためのもの。
・徳川慶喜を完全に排除し、新体制での政治をはじめるためのもの。
長い歴史の江戸幕府は、こうやって新政府に政権を交代していったんですね。
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
面白く見させていただきました。
しかしながら、慶喜が王政復古を黙ってみていた理由は、クーデター後に政権入りを松平春嶽より打診されたからです
慶喜は警護にあたっていた会津桑名両藩には何も言ってまよね?
あと西郷は戦を望んでいません。やっても多勢に無勢で負けると思っていたようです。
参考
NHK BS 英雄たちの選択 明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命“への賭け~
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