のちに薩長同盟を結ぶ薩摩藩と長州藩は、なぜ不仲だったのか、わかりやすく解説いたします。
鳥羽伏見の戦いで、幕府軍を撃破した薩摩と長州。
禁門の変(蛤御門の変)で死闘を繰り広げた薩摩と長州はその後、関係が劇的に悪化。
しかし両藩は倒幕のため、薩長同盟を締結し、関係改善に成功したのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・薩摩藩と長州藩は、もともと佐幕派と倒幕派で意見が違った上に、禁門の変(蛤御門の変)で対立し、一気に関係が悪化した
・薩長は、利害関係を一致させることで、憎しみを忘れて薩長同盟を締結した
・同盟を締結した結果、薩摩と長州は、260年続いた徳川幕府を倒すことに成功した
薩摩と長州は、なぜ対立していたのか?
薩摩藩と長州藩の対立理由、それを短く言うと、その原因は2つです。
- 「目指す路線の違い」
- 「禁門の変で、血で血を洗う死闘をやってしまったため」
この2つです。
目指す路線の違いとは、すなわち
ということです。
「禁門の変(蛤御門の変)」
長州藩は、この禁門の変という事件で、薩摩軍と会津軍に完膚なきまでに叩きのめされていたため、薩摩藩と会津藩を恨んでいたのです。
幕末の黒船来航と、外国との通商条約締結以降、江戸幕府の政権維持能力に衰えが見え、みるみる内に弱体化していきました。
全国でも有力な藩である薩摩藩は、公武合体を進めて幕府を応援しようとする立場から、幕政改革を求めました。
それに対して長州藩は、急進的な条約破棄と攘夷論を主張しました。
長州藩は、反幕的姿勢を強め、薩摩・長州の幕府に対する姿勢は、まったく相いれないものだったのです。
また朝廷では、三条実美をはじめとする長州藩と仲の良い急進派公卿が実権を握るようになりました。
孝明天皇はこの長州藩の独走を快く思っておらず、公武合体派の会津と薩摩の画策により政変が行われました。
こうして三条実美を含む七人の公卿が失脚し、京都から長州に落ち延びます。
同時に長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなりました。
これが八月十八日の政変・七卿落ちと呼ばれる事件です。
八月十八日の政変で京都から追放された長州藩は、もちろん黙っていません。
汚名を払しょくするため、会津藩主京都守護職・松平容保らの排除を目指して挙兵。長州軍は京都御所に迫ります。
- 一橋家
- 会津藩
- 薩摩藩
これら3つの勢力を中心とする御所守備軍と長州軍は激突し、長州藩は敗れます。(禁門の変)
その結果、長州藩は朝敵(朝廷・天皇の敵)となり、藩主・毛利敬親の討伐命令が発せられます。
それ以降、長州藩は薩摩・会津のことを
「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」
(薩摩の賊徒、会津の奸臣)
と呼び、深く憎むこととなるのです。
対立していたのに、なぜ同盟を結んだ?
禁門の変(蛤御門の変)の結果、朝敵となった長州藩は、江戸幕府から第一次長州征討と呼ばれる攻撃を受け、窮地におちいることとなります。
一方で薩摩藩も、自分たちの主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論・武力討幕論が高まっていくこととなります。
こうして、もともとは公武合体派・佐幕派であった薩摩藩が、長州藩と同じ倒幕派へと、意見が変わっていったのです。
これにより、両者は禁門の変での憎しみを残したままではあるものの、目指すところが【倒幕】で一致したことになります。
しかし、まだまだ幕府の軍事力は強大です。
世間では誰もが、薩摩と長州が手を組めば、倒幕つまり幕府を倒せるのではないかと思っていました。
しかし薩長は、禁門の変以来の犬猿の仲となっていました。
誰もが、薩摩と長州に同盟を結ばせるなんて不可能、とあきらめていたのです。
そんな中、坂本龍馬が、薩摩のリーダー西郷隆盛と、長州のリーダー桂小五郎を説得します。
その方法とは、互いの憎しみの感情を払しょくすることではなく、利害を一致させることでした。
長州は、討幕の為の最新の銃器が欲しかったのです。
しかし長州藩は、幕府から厳しい監視を受けていたため、表立って最新武器の輸入が出来ません。
表向き公武合体派の薩摩藩は、長州藩を隠れ蓑にして、武力討幕の準備を進めたかった。また、薩摩藩は米が不作続きで、食糧不足のため、兵糧米を欲していました。
その利害関係をうまく使って、龍馬は薩長同盟を締結させたのです。
この同盟によって、薩摩藩は幕府には内緒で、長州藩の代わりに武器を購入し、長州藩へ提供します。
また、龍馬は薩摩藩が長州藩で米を購入できるように取り計らっています。
両藩は感情はさておき、経済面から提携したのです。
薩長同盟を結んだ結果、何が起こったか?
幕府による第二次長州征伐で、薩摩藩は薩長同盟をまもって出兵を拒否します。
長州藩は、外国から手に入れた新式兵器を効果的に使い、大村益次郎や高杉晋作を中心として奮戦。
薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が、長州征伐に参加していないこともあり、長州藩は各所で幕府軍に勝利します。
14代将軍・徳川家茂が大坂城で突然病死したこともあり、将軍後見職の徳川慶喜は休戦し、第二次長州征伐は失敗します。
それにより、幕府の武力がこけおどしであることが日本中に知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩は幕府からの支配を、ほぼ完全に脱却したのでした。
その後、薩長は共に武力討幕に向けて準備を進めます。
大久保利通が長州に出向き、長州藩主・毛利敬親に拝謁。
薩長は互いに倒幕のための出兵盟約を締結しました。
そして、戊辰戦争に勝利し、薩摩藩と長州藩は、新しい日本への道を開くのです。
『薩摩藩と長州藩』についてひとこと言いたい
薩摩藩と長州藩。両藩の歴史をさかのぼってみましょう。
実はこの二つの藩、そもそも目指していた目的が、大きく違っていました。
違う目的を達成するための手段として、倒幕を志したと考えられます。
つまり薩摩藩と長州藩は、目的は違うが、手段が同じだったのです。
【1868年】に起こった明治維新ですが、その発端は268年前にさかのぼります。
明治維新の268年前の西暦【1600年】に関ヶ原の戦いが勃発。
この関ヶ原の戦いで、東軍・徳川家康が勝利し、西軍をひきいていた毛利家と島津家は敗北します。
この敗北で、毛利家は領地を4分の1に削減され、長門・周防の二か国の領主へと転落します。
ここに長州藩が成立したのです。
島津家はというと、粘り強い交渉の末に、なんとか領地削減を逃れ薩摩・大隅・日向の一部を領地として薩摩藩が誕生。
薩摩は、長州ほど徳川家を恨んでいたわけではないはずです。
その証拠に、幕末の当初、薩摩藩は佐幕派、つまり幕府を助けたい一派だったのです。
長州藩は毎年正月に、徳川家打倒の計画を一族で語り合うほどに、徳川家を恨みぬいていました。
薩摩はというと、徳川家と婚姻関係を結んで協力体制を強化していきます。
薩摩藩は琉球を通じて世界から広く情報を集め、アヘン戦争などで西欧列強諸国の圧力が近づいてくることを感じ、日本の危機を感じ取っていました。
両藩は、ともに日本の政治の主導権を握ろうと、権力争いを繰り返します。
しかし薩摩藩の思惑と改革は、一橋慶喜に妨害されたことが原因で、次々と失敗していきます。
薩摩のトップであった国父・島津久光は幕府に失望し愛想を尽かします。こうして薩摩藩は、幕府を助けたい一派から倒幕派へと方針転換してしまいます。
この時点で両藩は、倒幕という目的で一致し、ついに明治維新を成功させたのです。
明治維新
実はその始まりは【1853年】のペリー来航ではなく、268年前の関ヶ原の戦いの長州・薩摩の敗北からだったのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・薩長はその意見の違いから対立し、その対立は禁門の変で決定的となります。
・仲介者の坂本龍馬が、感情ではなく薩長の利害を一致させる事に成功し、薩長同盟が成立。
・薩長同盟により第二次長州征伐は失敗し、薩長協力のもと戊辰戦争に勝利。明治維新が成立。
明治新政府の参議になっても、木戸孝允(桂小五郎)は西郷嫌いであったとか。
倒幕の為とはいえ、憎しみを越えて手を組むのは相当抵抗があったかと想像します。
薩長は維新回天に大きな役割を果たした雄藩。
よくぞ同盟してくれた!ありがとう!という感じです。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
大久保利通・西郷隆盛の関連記事
以下のリンク記事では、大久保利通・西郷隆盛の逸話や功績について簡単にできるように、わかりやすく解説させていただいております。
よろしければこれらの記事も、ぜひお役立てくださいませ。
「大久保利通」の関連記事
「西郷隆盛」の関連記事
「大久保利通」関連人物の記事
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] この亀山社中の組織を利用し、実現したのが薩長同盟。坂本竜馬が薩摩藩と長州藩の仲を取り持ったのです。 […]