日露戦争の英雄「東郷平八郎」の身長とイケメンぶりなど、わかりやすく解説いたします。
「日本海海戦」で、ロシア「バルチック艦隊」に完勝した名将「東郷平八郎」。
身長は、それほど高くなく、当時の平均身長同じくらいだったが、メチャクチャ「イケメン」だった!
そして東郷平八郎の子孫が、今も「海上自衛官」として活躍なさっていました!
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この記事を短く言うと
東郷平八郎の身長とイケメンぶりとは?
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
日露戦争で「連合艦隊司令長官」として日本の「連合艦隊」をひきい、「丁字戦法」をつかって、ロシアの「バルチック艦隊」を完全に撃破した名将です。
現代においても東郷平八郎は、「ナポレオン」の侵略を防ぎきったイギリスの名将「ネルソン提督」と並び、「西のネルソン・東の東郷」と呼ばれて尊敬を集めています。
彼の身長はどれくらいなのか?調べてみたところ「153cm」という情報が入ってきました。
153cm。現代ではかなり小柄な方です。明治33年の17歳男性の平均身長が「152.9cm」ですので、当時の平均身長と同じくらいと考えていいでしょう。
東郷平八郎は、当時からかなりのイケメンと言われていました。
では、若い頃の「東郷平八郎」の顔を見てみましょう。
とんでもないイケメンです。
女性からモテたことでしょう。
東郷平八郎の子孫と家系図!「ひ孫」が海上自衛隊だった
東郷平八郎の子孫は、現在どこで何をしているのでしょうか?
調査してみたところ「東郷平八郎」の曽孫(ひ孫)「東郷宏重(とうごうひろしげ)」という人を見つけました。
2011年1月時点、宏重さんは「海上自衛隊」の「阪神基地」で「就職支援室室長」として活躍なさっておられました。
階級は「二等海佐(中佐)」。
その息子と思われる「智之」さんも、防衛技官をなさっておられるとのことです。しかもキャリア。すごいですね。
実は、東郷平八郎の息子「東郷実」も、孫の「東郷良一」も、海軍軍人として活躍しています。
息子「東郷実」は「海軍少将」として「太平洋戦争」に参戦。
孫「東郷良一」は、「レイテ沖海戦」に「少尉」として参戦し、戦死しています。
西郷隆盛との関係!隆盛・吉二郎兄弟は、恩人だった
東郷平八郎は、薩摩藩の武士でした。薩摩藩といえば倒幕の英雄「西郷隆盛」。
東郷平八郎と西郷隆盛は、どういう関係があるのでしょうか?
二人はともに「薩摩藩」の「鹿児島城」城下町である「加治屋町」の出身。つまり「自宅がご近所」であったということ。
二人のお家は直線距離で、百数十メートル。かなり近いです。
「東郷平八郎」と「西郷隆盛」だけではありません。
この加治屋町には、西郷隆盛の弟で大臣だった「西郷従道」、「維新三傑」の一人「大久保利通」、東郷平八郎を日露戦争で大抜擢した総理大臣「山本権兵衛」、日露戦争で東郷平八郎とともに活躍した「大山巌」、これら偉人たちの生家があります。
有名な逸話として、東郷平八郎は「大久保利通」に鉄道技師になるため留学させてほしいと頼んで断られ、「西郷隆盛」に頼みこんだところ、許可してもらい、1871~1878年まで留学することができたのだそうです。
しかし、この話は「創作」という噂もあり、はっきりしていません。
1877年、「西郷隆盛」は「西南戦争」で戦死。そのとき東郷は「イギリス」へ留学していました。
イギリスから帰国する途中、西郷の死を知った「東郷平八郎」は
「もし俺が日本にいたら、西郷さんのもとへ馳せ参じていただろう・・・」
と言って、その死を悲しんだと言われています。
ちなみにこの「西南戦争」に、東郷平八郎の兄「小倉壮九郎」が参戦。最期の城山決戦で見事に自決しているのです。
実は東郷平八郎、幼い頃に「西郷隆盛」の弟「西郷吉二郎」から「習字」を教えられていました。
東郷平八郎からすると「西郷隆盛」「西郷吉二郎」の兄弟は、近所のお兄さん、近所の有名人だったのかもしれません。
『東郷平八郎』について「ひとこと」言いたい!
東郷平八郎は、紛れもない英雄と言っていいでしょう。
日露戦争で日本を勝利へと導いた英雄。
彼がいなかったら、日本は本土を「バルチック艦隊」に攻撃されて惨敗していたでしょう。
同じ「連合艦隊司令長官」として真珠湾攻撃を成功させた「山本五十六」とくらべて、東郷平八郎は何が違うのでしょうか?
筆者個人の意見ですが、「山本五十六」は「名将」と呼ぶことの出来ない人物であると思っています。
理由は簡単です。
「東郷平八郎と違い、日本を勝利へと導けなかったから」です。
「山本五十六」は、確かに「真珠湾攻撃」という、当時としてはほとんど不可能だろうと考えられていた作戦を成功させました。
戦術はきわめて優れていると思います。
しかし戦略がまずかった・・。
日本はあの時、アメリカと戦争すべきではなかったのです(詳しくは「太平洋戦争の記事」を御覧くださいませ)
しかし東郷平八郎は違います。
「日本海海戦」で勝利し、「日露戦争」を勝利に導いたのです。
それも、圧倒的な戦力を誇るロシア軍に、ほぼ完勝したのでした。
しかし、残念ながらこの「日露戦争での勝利」が、日本のピークでした・・・。
司馬遼太郎の小説どおり、まさに当時の日本は「坂の上の雲」という状態だったのです。
言うなれば、日本はこの戦いで勝ちすぎました。
この勝利で日本は「賠償金」は取れなかったものの、「南樺太」という領土まで割譲させています。
名将・武田信玄は、こう言いました。
「5割の勝ちがもっとも良く、10割の勝ちは最悪である。
5割の勝ちなら自分を励まそうとするが、10割の勝ちは奢りを生じさせ、次には必ず大敗してしまうだろう」
「大勝」してしまい、自信を深めすぎた日本は、「戦略」の重要性を見失い、日露戦争の36年後、「対米開戦」という無謀な戦いへと突き進むこととなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 連合艦隊司令長官「東郷平八郎」の身長は「153cm」、明治33年当時の17歳男性の平均身長が「152.9cm」だった
- 東郷平八郎の「ひ孫」である「東郷宏重」さんが、2011年時点で「海上自衛隊」の「自衛官」として活躍なさっていた
- 東郷平八郎と西郷隆盛は、ご近所さんだった。西郷が東郷のイギリス留学を後押ししたという逸話があるが、本当かどうかは不明。
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (4件)
東郷宏重さんは、確か防衛大の27期生。最後は1等海佐(大佐)で定年されたと思います。息子さんも防衛省に官僚として入られているのは知りませんでした。1等海尉時代、舞鶴地方総監部へ転勤となったおり、総監部は東郷平八郎の曾孫が来るとざわついたと新聞記事に載っていましたね。
徳川家の情報といい、東郷平八郎の情報といい、重ね重ね御礼を申し上げます。
東郷宏重さんが「大佐」で定年をされていたとは知りませんでした。
とても貴重な応報をありがとうございます!!
東郷平八郎の曽孫が来ることが新聞掲載されたとは!
確かに、日本海海戦の英雄の曽孫がきたら、注目されるでしょうね。
いつもいつも、ご贔屓にしていただき、貴重なる情報をいただき、本当にありがとうございます!!
心より御礼申し上げます!!
元帥は平均ではなく小柄です。
明治33年の17歳男子平均は152.9cm ではなく157.9cm。ちょうど現代の17歳女子くらい。
成人男性は17歳からさらに1.5cmほど平均が伸びるので山本世代の平均は159.5程度。
153は平均より6cmくらい低く、今なら165くらいの感じでしょう。でもモテモテでした。
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おっしゃることごもっともです。
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