皆さんは「尾高長七郎(おだか ちょうしちろう)」を、ご存知でしょうか?
渋沢栄一のいとこであり、剣豪でもあった尾高長七郎です。
実は尾高長七郎について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では尾高長七郎を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は尾高長七郎について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、尾高長七郎に詳しくなれます。
この記事を読んで、尾高長七郎の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,尾高長七郎のプロフィールとは?
尾高長七郎は、渋沢栄一のいとこにあたる人物。現在の埼玉県深谷市で誕生し、関東でも名高い剣豪だった。
2,尾高長七郎の功績とは?
尾高長七郎は、渋沢栄一や兄・尾高惇忠が計画していた【高崎城乗っ取り・横浜攘夷計画】に反対し、渋沢栄一の命を救った
3,尾高長七郎の最期とは?
長七郎は【1868年(明治元年)】に病死している。死の数ヶ月前まで、劣悪な環境の牢獄に閉じ込められていたことが、死の原因であると思われる
目次
尾高長七郎とは【どんな人】なの?プロフィールを簡単にご紹介
尾高長七郎(おだか ちょうしちろう)とは、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一のいとこにあたる人物です。
剣豪としてその名を知られ、渋沢栄一の命を救った恩人でもあります。

《渋沢栄一》
「引用元いらすとやより」
尾高長七郎のプロフィールは、以下のとおりです
- 名前・尾高長七郎
- 出身地・武蔵国榛沢郡下手討村(埼玉県深谷市下手計)
- 父・尾高勝五郎
- 母・やへ(渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門は、やへの弟)
- 兄・尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)
- 妹・渋沢千代(渋沢栄一の妻)
- 弟・尾高平九郎(渋沢栄一・ちよ夫妻の養子となり戊辰戦争で戦死)
- いとこ・渋沢栄一
- 生没年・【1836年~1868年12月31日】、享年32歳
- 功績・渋沢栄一や兄・尾高惇忠の【高崎城乗っ取り計画】を中止させ、彼らの命を救った
この記事は、渋沢栄一について知っていれば、さらに理解が深まると思います。渋沢栄一についてくわしくは、以下のリンク記事で、解説しております。
尾高長七郎の【年表】
【1836年】、尾高長七郎、武蔵国榛沢郡下手計村に、渋沢栄一のいとことして生まれる
【1851年】、長七郎が高橋三五郎や大川平兵衛らと試合・稽古をする
【1855年】、長七郎が下野・上野へ修行に出る。その後、江戸で修行し、清河八郎や久坂玄瑞と交流
【1861年】、長七郎が神道無念流剣術の免許皆伝を受ける。
【1862年】、坂下門外の変。計画にかかわっていた長七郎は信濃から京都へ逃亡
【1863年】、八月十八日の政変
【同年】、長七郎が渋沢栄一から高崎城乗っ取り計画を聞かされるが、計画に反対する
【1864年】、長七郎がある日突然、謎の殺人事件を起こし、投獄
【1867年】、渋沢栄一が徳川慶喜の弟・昭武をつれてフランスへ向かう
【同年】、大政奉還
【同年】、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争勃発
【1868年】、夏頃に長七郎が伝馬町牢屋敷から出獄
【同年12月16日】、渋沢栄一がフランスから帰国
【1868年12月31日(明治元年11月18日)】、尾高長七郎・病死。享年32歳(31歳または33歳という説もあり)
この記事は、八月十八日の政変・大政奉還・鳥羽伏見の戦いについて知っていると、さらに理解が深まると思います。以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
尾高長七郎が残した【功績】と【逸話・エピソード】をご紹介
ここでは、尾高長七郎が残した功績や、彼についてのエピソードをご紹介いたします。
当時の日本で一二を争う大剣豪だった
渋沢栄一は後年、いとこである尾高長七郎について「当時の日本で一二を争う剣豪だった」と言っていました
長七郎は、隻腕の剣豪として有名な伊庭八郎の義兄・伊庭秀俊のもとで剣術を学んでいます。
坂本龍馬の師・千葉定吉の甥で、剣豪として知られる千葉栄次郎の弟子・真田範之助と村上右衛門助が、長七郎との剣術試合で敗北。

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』
二人は長七郎の強さを絶賛し、「天狗の化身」と呼んで、その名は関東に轟いたといいます。
【坂下門外の変】に参加する予定が、兄や渋沢栄一に説得され逃亡
尾高長七郎は、幕府のトップである安藤信正襲撃計画(坂下門外の変)に参加する予定でしたが、渋沢栄一らに反対されて逃亡したことがあります。
桜田門外の変により、不平等条約を結んだ井伊直弼が暗殺されると、老中・安藤信正が次の標的とされました。

井伊直弼
『引用元ウィキペディアより』
長七郎は、その安藤信正を襲撃する計画に協力していました。
ところが、兄・尾高惇忠や渋沢栄一に反対され、信濃国から京都へと逃亡することとなります。
安藤信正襲撃計画は他の者により実行され、安藤信正は負傷。
後年、渋沢栄一は、もしも長七郎がこの坂下門外の変に参加していたら、安藤信正は死んでいただろうと言っています。
ただ、もしも参加していたら、長七郎の命もなかっただろうと言っています。
のちに渋沢栄一の命を救うこととなる尾高長七郎が、この坂下門外の変で死んでいたら、渋沢栄一も命を落としていたはずです。
坂下門外の変については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
【高崎城乗っ取り計画】に反対し、渋沢栄一らの命を救う
渋沢栄一は尾高長七郎について、のちに「命の恩人」だったと語っています。
尾高長七郎は、渋沢栄一たちが計画していた攘夷計画【高崎城乗っ取り・横浜攘夷計画】に強硬に反対した人物なのです。
渋沢栄一の命を救ったことこそ、尾高長七郎の人生において、最大の功績です。
栄一たちは、高崎城を69人の仲間と襲撃して武器を奪い、その武器を使って横浜にいた外国人を虐殺しようとしていたのです。
この計画を渋沢栄一から聞いた尾高長七郎は、八月十八日の政変などをその目で見ていた経験から、無駄死にするだけだと言って強硬に反対。
栄一と長七郎は、殺し合い直前まで激論を戦わせたといいます。
結局、この計画は長七郎の決死の説得によって中止され、栄一は渋沢喜作とともに京都へ逃亡。
長七郎ものちに京都で栄一らと合流する約束をします。
渋沢栄一は後年、このときのことを「長七郎さんが私の命を救ってくれた」と言って、長七郎に感謝していました。
謎の殺人事件を起こして投獄されてしまう
【1864年】、高崎城乗っ取り計画を中止させてから半年ほど経過したある日のこと、長七郎は突然謎の殺人事件を起こしてしまいます。
現在の埼玉県戸田市において、通行人を突然斬り殺したのです。
その原因ははっきりしていません。
- 幻覚に襲われて発作的に殺害してしまった
- 乱心を起こして殺害した
- 坂下門外の変に関わっていた件で警戒しており、その通行人を幕府の役人と勘違いした
などなど、諸説あります。
長七郎は幕府の役人に逮捕され、投獄。
このとき兄・尾高惇忠や、一橋慶喜の家来になっていた渋沢栄一らが救済措置をこころみたものの、投獄をまぬがれることはできませんでした。
尾高長七郎の最期
尾高長七郎は【1868年12月31日(明治元年11月18日)】に病死しています。
くわしい死因は明らかではありませんが、長年の厳しい投獄生活が影響したため、病死したと考えられます。
長七郎は、1864年に殺人事件を起こしてから、4年ものあいだ、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されていたのです。
この伝馬町牢屋敷は、かなり悪名高い牢獄でした。
牢獄の中は、囚人たちによって完全な自治が行われており、牢のなかで殺人がおこっても、無罪となっていたのです。
牢のなかで囚人の人数が増えすぎると、いびきがうるさい者や目の見えないものなどが殺害され、【病死】として届け出がされるようなところだったといいます。
そんなところで4年ものあいだ生き抜いた長七郎は、出獄した際に、それまでのたくましい身体などが失われ、変わり果てていたといわれています。
長七郎のお墓は、埼玉県深谷市下手計にあるお寺【妙光寺】にあります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,尾高長七郎のプロフィールとは?
尾高長七郎は、渋沢栄一のいとこにあたる人物。現在の埼玉県深谷市で誕生し、関東でも名高い剣豪だった。
2,尾高長七郎の功績とは?
尾高長七郎は、渋沢栄一や兄・尾高惇忠が計画していた【高崎城乗っ取り・横浜攘夷計画】に反対し、渋沢栄一の命を救った
3,尾高長七郎の最期とは?
長七郎は1868年(明治元年)に病死している。死の数ヶ月前まで、劣悪な環境の牢獄に閉じ込められていたことが、死の原因であると思われる
以上となります。
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