最期の将軍「徳川慶喜」こと「一橋慶喜」の「生涯」と、「名前が変わった理由」を、わかりやすく解説いたします。
「一橋」とは、実は苗字ではなく「地名」。
「慶喜」は、名前が変わったのではなく、最初から最期までずっと「徳川慶喜」のままで変わりなかった。
「一橋」とは、江戸城の門の一つ「一橋門」のこと
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この記事を短く言うと
・一橋慶喜とは、江戸幕府最期の将軍「徳川慶喜」の別名
・「徳川」という苗字なのに「一橋」と名乗ったの理由は「一橋家」へ養子にいったため
・「一橋」というのは、江戸城内にある門の名前・・・つまり「地名」であり、苗字(姓)ではない
『一橋慶喜』とは何者?
一橋慶喜
「引用元ウィキペディアより」
12代将軍「徳川家慶」が、実子である後の13代将軍「徳川家定」を後継者指名する際、「一橋慶喜」とどちらを後継者にするか迷ったと言われています。
更に、13代将軍「徳川家定」の後継者として、後の徳川家茂と一橋慶喜が候補としてあげられ、結果「徳川家茂」が後継者となったのです。
この一橋慶喜とは、何者なのでしょうか?
結論から言ってしまうと、「一橋慶喜」は後の「15代将軍・徳川慶喜」
江戸幕府最期の将軍「徳川慶喜」のことです。
「一橋慶喜」の生涯
1837年、水戸藩主「徳川斉昭」の七男として誕生・・・幼名は「七郎麻呂(しちろうまろ)」
「烈公」と呼ばれた厳しい父「徳川斉昭」から、英才教育を施された「七郎麻呂」は、後に「英邁(えいまい)」「徳川家康公の再来」とまで呼ばれるほど、優秀な人物に成長します。
1847年、12代将軍・徳川家慶が、「徳川御三卿」の1つ「一橋家」の後継者として、「七郎麻呂」を指名。
元服(成人)した七郎麻呂は「一橋家」を相続し、将軍・家慶から「慶」の一字をもらって「慶喜」と名乗りました。
1853年、黒船が来航して諸外国の圧力が強くなる中、「徳川家慶」が病死。13代将軍は「徳川家定」
しかし家定は「暗君」として有名で、しかも病弱だったため妻「天璋院・篤姫」との間に、後継者も望めない有様。
将軍継嗣問題が勃発し、有力視された後継者が「一橋慶喜」と、家定の従兄弟で紀伊藩主「徳川慶福(後の徳川家茂)」
島津斉彬や松平春嶽、徳川斉昭は、「一橋慶喜」を将軍にすえるよう画策するが、大老「井伊直弼」によって阻止され、14代将軍は「徳川家茂」が就任。
1862年、島津久光の幕政改革要求により、慶喜は「将軍後見職」へ就任。松平春嶽は「政治総裁職」へ
1864年には、将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督」に就任。同年の「禁門の変」で「一橋慶喜」自らが軍を率いて長州藩と戦闘
1866年、第二次長州征伐に幕府が失敗。7月20日に「徳川家茂」が亡くなった。
1866年12月5日、「徳川慶喜」が15代将軍に就任
1867年10月14日、「大政奉還」により、政権を朝廷に返上
1868年1月3日、「鳥羽伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北。徳川慶喜は、「官軍」を名乗った薩長に勝てないと判断し、関東の反乱も警戒して艦船「開陽丸」で江戸へ帰還
徳川慶喜は、朝廷軍と戦う意志がないことを表すため、上野寛永寺で謹慎
西郷隆盛と勝海舟の交渉で、江戸城無血開城が決定。徳川慶喜は故郷の「水戸藩」で謹慎となった。
同年7月、徳川家が駿府(静岡)へ移動すると、慶喜も駿府へ
静岡で余生を過ごし、公爵の爵位を手に入れ、朝敵の汚名返上
1902年には「貴族院議員」にも就任。
晩年は「文京区春日二丁目」へお引っ越し
1913年(大正2年)11月22日に77歳で亡くなった。
名前が変わった理由とは?
慶喜さんのお父さん。お名前は「徳川斉昭」さんです。
ということは、慶喜さんのお名前も、当然『徳川』のはず。
しかし、慶喜さんは後に「一橋慶喜」とお名前が変わっています。
どうしてなのか?
もうおわかりだと思いますが、名前が変わった理由は「一橋家」へ養子に行ったからです。
「一橋家」と「徳川御三卿」とは?
そもそも「一橋家」とは、どこの家なのでしょうか?
実はこの「一橋家」・・・あの「暴れん坊将軍」で有名な「八代将軍・徳川吉宗」の四男「徳川宗尹(むねただ)」が起こした家なのです。
徳川家には元々、「尾張徳川家」「紀伊徳川家」「水戸徳川家」と、3つの分家がありました。それぞれ「家康」の息子たち・・・二代将軍「秀忠」の弟たちが当主を務めていました。
徳川家では、これら3つの分家を「御三家」と呼び、徳川宗家にお世継ぎがない場合は、御三家から養子をもらって来て将軍とするようにと、定められていたのです。
しかし、江戸幕府が成立して100年以上経過した「八代・德川吉宗」の時代、御三家と将軍家は、あまりにも血縁が遠くなりすぎて、御三家は親戚であるにも関わらず、互いに仲が悪くなっていました。
親戚同士で喧嘩や仲違いを繰り返す「御三家」・・・それを心配した「德川吉宗」は、自分の息子にして、9代将軍「徳川家重」の2人の弟「徳川宗武」「徳川宗尹」と、孫の「徳川重好(10代将軍・徳川家治の弟)」の計3名で、新しい「御三家」を作り出したのです。
これが「徳川御三家」に対して、「徳川御三卿」と呼ばれるようになったのでした。
「徳川宗武」は「田安家」
「徳川宗尹」は「一橋家」
「徳川重好」は「清水家」
吉宗は、これら3つの家を起こし、徳川宗家に世継ぎがいない場合、この「徳川御三卿」からも将軍の後継者を立てることができるようにしました。
つまり「一橋家」とは、德川吉宗の四男「徳川宗尹」を初代とする徳川家の分家なのです。
慶喜は水戸徳川家から、この「一橋家」に養子に行ったため、「一橋慶喜」と名乗ることになったわけです。
実は名前は変わっていない!最期まで徳川慶喜だった
さて・・・・一橋慶喜・・・元々は「水戸徳川家」出身ですので、「徳川慶喜」だったはずのお方。
「一橋家」の養子となったため「一橋慶喜」と苗字が変化・・・征夷大将軍に就任して、徳川宗家を相続したため、また「徳川慶喜」に戻った・・・と勘違いしている人も、たまにいるようですが、これは間違い。
実は「徳川慶喜」・・・最初から最期まで「徳川」という苗字で変化していません。
「一橋」というのは、苗字ではなく、地名・・・。「一橋」だけではなく、他の御三卿「田安」「清水」というのも、地名・・正確に言えば「江戸城」の「門」の名前なのです。
江戸城には、「田安門」「一橋門」「清水門」という門が存在していました。
「御三卿」当主たちのお屋敷は、それぞれの門の近くにあったため、それぞれのお家は「門」のお名前で呼ばれるようになったのです。
田安家の「徳川宗武」、一橋家の「徳川宗尹」、清水門の「徳川重好」というわけですね。
徳川御三家もまた「尾張家」「紀伊家」「水戸家」と地名で呼ばれ、有名な「水戸黄門」もまた、「徳川光圀」というお名前であるにもかかわらず「水戸光圀」と、地名で呼ばれていますね。
つまり、「一橋慶喜」と呼ばれていたものの、それはあくまでも通称・・・。本名は変わらず「徳川慶喜」だったのです。
徳川を名乗る親戚は山ほどいましたから、地名で呼んで区別していたのでしょうね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・一橋慶喜は、水戸徳川家に生まれ、徳川幕府最期の将軍「徳川慶喜」のこと
・慶喜の苗字が「徳川」から「一橋」に変わったのは、一橋家に養子へいったから
・一橋家とは、徳川御三卿の1つだが、一橋というのは門の名前であり、苗字ではない
以上となります。
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