中岡慎太郎の生涯と最期!実は坂本龍馬暗殺の動機を持つ容疑者の一人

「坂本龍馬」の盟友「中岡慎太郎(なかおかしんたろう)」の「生涯」と「最期」、そして「龍馬暗殺の真犯人説」について、わかりやすく解説いたします。

「龍馬とともに、倒幕のきっかけとなった『薩長同盟』の締結に尽くした中岡」

「龍馬を暗殺したのは中岡慎太郎」という噂も


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この記事を短く言うと

・中岡慎太郎とは、坂本龍馬の盟友にして「陸援隊」隊長

・最期は「近江屋事件」で坂本龍馬とともに襲撃され、その後に亡くなった

・ある説によると「龍馬暗殺」の犯人は「中岡慎太郎」らしい


中岡慎太郎とは、何をした人?その功績とは?

中岡慎太郎

坂本龍馬の盟友であり、龍馬と共に「近江屋事件」で亡くなった人物

《中岡慎太郎》
『引用元ウィキペディアより』

中岡慎太郎とは、何をした人なのでしょうか?

中岡慎太郎の功績

中岡慎太郎の功績を短く解説いたします。

・土佐藩士として、倒幕活動をしていた

・龍馬の海援隊と対をなす「陸援隊」を組織し隊長となった

薩長同盟締結に尽力

・薩土盟約の締結を実現し、倒幕を目指した

薩長同盟は「坂本龍馬」が締結させたと考えられていますが、中岡慎太郎によるところも大きいのです。


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中岡慎太郎の評価とは

坂本龍馬は有名ですが、中岡慎太郎はそれに比べると名前が知られていない気がします。

しかし、当時の人達は「中岡慎太郎」をかなり評価していたのです。

坂本龍馬は中岡慎太郎について、こう言っています

「中岡に相談しないと、他に相談すべき人がいない」

清廉潔白で有名な「西郷隆盛」は

「ともに語るべき人物だ!節義の武士だ」

同じ土佐藩の板垣退助は中岡について、こう言ってます

「坂本龍馬よりも、ある面では優れていた。中岡は西郷隆盛や木戸孝允と比肩するだけの人格者だったよ」

かなり優れた人物だったことが伺えます


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坂本龍馬との関係

坂本龍馬と中岡慎太郎は、共に土佐藩士。

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

2人は共に「武市半平太」がつくった「土佐勤王党」に所属

その後、坂本龍馬は土佐を脱藩。中岡慎太郎もまた、土佐前藩主「山内容堂」に武市が捕らえられたことを知り、長州藩へ亡命しています。

一部の小説や漫画では、坂本龍馬と中岡慎太郎が、幼少期からの友人であるように描かれています。


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中岡慎太郎の生涯と最期

中岡慎太郎の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち・・・土佐勤王党

中岡慎太郎

1838年、土佐藩において、父「中岡小傳次」と母「ウシ」の長男として誕生

1855年、武市半平太の道場に入門して剣術修行

1857年、「兼」と結婚

1861年、「土佐勤王党」に加入して志士としての活動をはじめました

1862年、長州藩士・久坂玄瑞とともに、真田家が治める「松代藩」へ「佐久間象山」を尋ねています。

長州へ亡命

1863年、「八月十八日の政変」がきっかけで「攘夷運動」が沈静化すると、攘夷運動に流れはなくなったと判断した前土佐藩主「山内容堂」は、土佐藩内の「攘夷派」を次々弾圧。「武市半平太」も投獄され、後に切腹

これを知った中岡慎太郎は、土佐藩を脱藩。長州藩へ亡命し、三条実美の警護役になっています。

薩長同盟

1864年、薩摩藩主の父「島津久光」暗殺に失敗。「禁門の変」「下関事件・四国艦隊下関砲撃事件」などに参戦

この頃から、西欧列強の強さを認識し、攘夷が難しいことを悟ります。

そこから、弱体化した幕府を倒して、強く新しい日本をつくらなくてはならないと考えるようになり、「薩長同盟」を模索するようになるのです。

中岡は「長崎・亀山社中」を結成していた「坂本龍馬」を巻き込み、長州藩・桂小五郎と薩摩藩・西郷隆盛を説得

1866年3月2日、京都薩摩藩邸において、薩長同盟締結に成功します。


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薩土盟約

1867年、中岡は坂本龍馬とともに、土佐藩から「脱藩」の罪を許されます。

その後、中岡慎太郎は、世の中の時流に乗り遅れた「土佐藩」のために尽力

同年、倒幕を約束した薩摩と土佐による「薩土密約」を締結

その直後、土佐藩全体が倒幕へと方針を転換し、土佐藩「坂本龍馬」と薩摩藩「大久保利通」「小松帯刀」の間で「薩土盟約」を締結

同年6月、長州藩「高杉晋作」が結成した「奇兵隊」をモデルにした土佐藩「陸援隊」を結成し、中岡は隊長に就任

近江屋事件

1867年12月10日、京都四条「土佐藩邸」の眼の前にある醤油屋「近江屋」で坂本龍馬を尋ねている最中、何者かに襲撃を受けます

坂本龍馬は、即死。

中岡慎太郎は全身を負傷

両手足を怪我しても生きていた!

中岡慎太郎は全身を負傷したものの、その後2日間生き延び、土佐藩士「谷干城」に事件について語ったとされています。

犯人が松山弁で「こなくそ」と叫びながら踏み入ってきた・・・という証言をしています。

そして同じ土佐藩士「谷干城」に対して

「新選組の犯行だろう」

と証言しているのです。

これが原因で、犯人は松山出身の新選組10番組長「原田左之助」ではないか?と噂されました。

その後の中岡には、食欲もあったらしく、好物である「焼き飯」が食べたいと言っていたみたいですね

しかし、傷が深すぎたため、近江屋事件の2日後、「1867年11月17日」に亡くなります。

享年30歳。

墓所は京都市東山区の護国神社。坂本龍馬の墓の隣に眠っています。

また、故郷・土佐の室戸岬には「中岡慎太郎」の銅像がたっています。これは桂浜にある「坂本龍馬」像と同じ方向を見ている・・・なんて噂がありますが、実際には全く関係ない方向を向いています。


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龍馬暗殺の真犯人説!実は龍馬と相打ちになった?

坂本龍馬暗殺犯・・・長い間「謎」とされてきました。

新選組」や「京都市中見廻組」・・・または「西郷隆盛」が犯人だという説までありますが、中には「中岡慎太郎」が犯人だった・・という説があります。

作家の「加治将一」という人が、竜馬暗殺は「中岡慎太郎」による犯行であるという説を唱えています。

なぜ中岡が龍馬を暗殺しなくてはならなかったのか。

中岡が「薩長同盟」締結を目指した理由は、あくまでも「倒幕」

しかし龍馬は「幕府」と「徳川慶喜」を潰すのではなく温存し、後に新国家の体勢に組み込もうと考えていました。

そのため「大政奉還」で「幕府」を消滅させ、「倒幕」を志す「中岡」達の大義名分を失わせ、旧幕府の軍や徳川慶喜を温存したのです。

倒幕をしようとする中岡慎太郎と、それを阻止しようとする坂本龍馬。

2人は近江屋で議論を重ねますが、結局決裂。

中岡慎太郎が、坂本龍馬に斬りつけ、龍馬も応戦。

2人は満身創痍で相討ちに

そこへ駆けつけた土佐藩士が、龍馬と中岡が相討ちになったことを隠し、襲撃を受けたかのように工作した・・・・

 

以上が「中岡慎太郎」による犯行説

とはいえ、中岡慎太郎が坂本龍馬を殺害するなんてちょっと考えづらいと思いますし、現在では京都市中見廻組「佐々木只三郎」による犯行、黒幕は「松平容保」という説が定説です。

中岡慎太郎が犯人というのは、ちょっとむずかしいと思います。

とはいえ、中岡と坂本龍馬・・・元々2人は友人というわけではなく、若い頃から仲が良くなかった・・・なんて説もありますからね。可能性がゼロというわけではないとは思います・・・。

「佐々木只三郎」「松平容保」説について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「坂本龍馬暗殺の真犯人が判明?犯行場所では現在『かっぱ寿司』営業中」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・中岡慎太郎は、薩長同盟締結に力を尽くした坂本龍馬の盟友

・薩長同盟・薩土盟約を実現し、倒幕を目指したが、坂本龍馬とともに「近江屋事件」で亡くなった

・坂本龍馬暗殺は、中岡慎太郎による犯行・・・という説もある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


坂本龍馬」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「【坂本龍馬】2017新発見の手紙の内容は?新国家設立に奔走していた」の記事はコチラ
「坂本龍馬とおりょうは新婚旅行第一号じゃない?第一号はあの人だった」の記事はコチラ
「坂本龍馬には別に本名があった?実は竜馬という名前は通称だった!」の記事はコチラ
「【坂本龍馬】死亡・暗殺の真相を解説!最期の様子とお墓の場所は?」の記事はコチラ
「坂本龍馬がどんな人物か分かりやすく解説!成し遂げた2つの業績とは」の記事はコチラ
「坂本龍馬の功績を超わかりやすく解説!当時の時代背景も合わせて説明」の記事はコチラ
「【坂本龍馬】持ってた刀剣の名前は?長崎の柱に酔って刀傷をつけた!」の記事はコチラ

 

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