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バロン西(西竹一)の死因とは?後を追った愛馬ウラヌスの奇跡

日本人で唯一の「馬術」金メダリスト「西竹一(バロン西)」の最期が、この記事ですぐにわかる!

映画「硫黄島からの手紙」にも登場した金メダリスト「西竹一」

その最期には、諸説あり、どれも壮絶な最期だったと言われています。

遠く離れた愛馬「ウラヌス」の奇蹟とは。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

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この記事を短く言うと

  1. 西竹一(バロン西)の最期には諸説あるが、硫黄島で、壮絶な最期をとげたことだけは確か
  2. 映画「硫黄島からの手紙」で、「西竹一」は、両目を負傷し、そのままライフルを使って自決した
  3. 西の愛馬「ウラヌス」は、イタリアで「西」と出会い、西が硫黄島で戦死した1週間後に「老衰」で亡くなっている

『バロン西』の壮絶な最期!

バロン西(西竹一)

《西竹一 (バロン西)》
「引用元ウィキペディアより」

「西竹一」氏は、1932年の「ロサンゼルスオリンピック」で「馬術」により「金メダル」を獲得したアスリートです。

1945年3月22日、大東亜戦争の激戦地「硫黄島」で壮絶な戦死を遂げた軍人でもあります。

「硫黄島の戦い」・・・・1945年2月19日~3月26日に、日本軍とアメリカ軍のあいだで行われた死闘。

この「硫黄島」をアメリカ軍に奪取されれば、アメリカ軍は爆撃機の中継基地として利用し、日本本土を昼間に空爆されてしまうこととなるため、日本軍は必死の抵抗をみせたのでした。



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バロン西の最期!諸説あり!

「バロン西」こと「西竹一」中佐の最期には、諸説あります。

・3月21日の夜明け、敵の掃討作戦により戦死した。

・3月21日、仲間とともにピストルで自決した。

・3月22日、火炎放射器による掃討作戦をうけて、目を負傷。部隊を率いて最期の突撃をおこない、壮絶に散った。

・敵軍のシャーマン戦車をうばい、その戦車に乗って「アメリカ軍」であるように偽装。アメリカ軍の陣営に潜り込んで銃撃をする、という作戦を繰り返した。その戦車はアメリカ軍に撃破され、中から日本兵の遺体が発見された。その1人が「西竹一」ではないか・・・とのこと。

・左胸を負傷して亡くなった。

・火炎放射器を逃れた後、集中砲火を浴びて、海岸線で戦死した。



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享年42歳

その他にも、「西竹一」大佐の最期には、数々の逸話があります。

現在、硫黄島の海岸には「西大佐の碑」がたてられており、そこには以下のような碑文が刻まれています。

「硫黄島 散りて散らさぬ もののふの 心の桜 咲にほう島」
(硫黄島・・・散ろうとしても散ることができない、武士たちの「心の桜」、その残り香を匂わせてくれる島)

壮絶な最期を遂げた「西竹一」大佐。

最期の瞬間がどのようなものであったのかは定かではありません。ただ、壮絶なものであったことだけは、確かなのではないでしょうか。



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最期に至るまでのエピソード!映画「硫黄島からの手紙」

クリント・イーストウッド監督による映画「硫黄島からの手紙」。

この映画に、俳優「伊原剛志」さんが演じる「西竹一」中佐が登場します。俳優「渡辺謙」さんが演じる「栗林忠道」中将とともに、アメリカ軍に対して徹底抗戦。

 

持ち前の明るさで、仲間たちをはげまし、絶望的な状況でも戦い続ける「西」中佐。

捕虜としたアメリカ兵に対しても、残り少ない治療用物資を使い、できるかぎりの手当をし、死を目前にした仲間たちに対して貴重な「水」をふるまうなど、「西竹一」中佐は人道的な行動を見せ続けていました。

敵の迫撃砲により、目を負傷した「西」中佐・・・。

「俺にかまうな。他のやつを見てやれ」

最期まで仲間を優先する姿勢は、変わることはありませんでした。

仲間たちに、「水」の確保を命じ、立てこもっていた洞窟からの退去を命令した西中佐。

「諸君。最善を尽くせ。そして正しいと思う道をいってくれ。それが己の正義だ。いいな」

西中佐は、1人洞窟に残り、部下の大久保に「ライフル」を要求・・・。

「すまんな。大久保。」

銃口を自分のノド元に当て、足で引き金を引く動作をみせる西中佐。響き渡る銃声。音を聞いて一瞬立ち止まる部下たち。

それは、戦場におけるものとは思えないほど、静かなる最期でした。



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愛馬ウラヌスとの出会いと、奇跡のような最期

西竹一がロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得した際に、騎乗していた馬が「ウラヌス」でした。その名前は「天王星」を意味するものだと言われています。

オリンピックの2年前、父から受け継いだ遺産により、資産家となっていた西竹一は、恩師から「暴れ馬」の噂をきいて「イタリア」へ急行。

イタリアの騎兵に乗りこなされていた馬が、「ウラヌス」でした。西はこの馬に一目惚れし、大金で購入。

「ウラヌス」と名付けられたこの愛馬とともに、西竹一は欧州の大会を次々と制覇。

巨大な愛馬「ウラヌス」を乗りこなした「西」は、その勢いのまま「ロサンゼルスオリンピック」を制覇。しかし、次の「ベルリンオリンピック」では6位。

その後は戦場における「馬」の必要性が薄れ、次第に「戦車」の時代となっていくのでした。

戦争が徐々に激化したことにより、西竹一はその後各地を転戦。

1944年8月、西は戦場から、一時的に東京へと帰還。そのとき、引退していた愛馬「ウラヌス」に会いに行っています。その時の「ウラヌス」は、西に会えた喜びから大騒ぎ。

このとき、西は愛馬「ウラヌス」のたてがみを切り取り、戦場で亡くなるまで大切に持ち続けたのです。

1945年3月、西竹一は「硫黄島」にて戦死。その1週間後、ウラヌスもまた、西のあとを追うようにして亡くなるのでした。死因は老衰。東京世田谷の厩舎で、静かに息を引き取り、その亡骸は「千葉県津田沼」の「騎兵学校」に葬られました。そのお墓はアメリカ軍の空爆によって吹き飛び、遺骨は消息不明となってしまうのです。

ほぼ同時に亡くなった「西竹一」と「ウラヌス」・・・・そして双方ともに御遺体が行方不明・・・。

西竹一氏が戦場でも履いていた「乗馬用の靴」は、長男『西泰徳』氏が受け継ぎ、「ウラヌスのたてがみ」はアメリカで発見され、現在は北海道の本別町「歴史民俗資料館」に保管されているとのことです。



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『バロン西』について「ひとこと」言いたい!

硫黄島を死守するために、最期の最期まで戦い抜いた「西竹一」大佐。(死後、中佐から大佐へ)

英霊たちがもしもその生命を犠牲にして、硫黄島を守ってくれていなかったら、日本本土の被害はさらに多くなっていたでしょう。

硫黄島で玉砕した勇敢なる英霊たちがいなかったとしたら・・・・現在を生きている我々の両親・祖父母は空爆で亡くなっていた可能性もあります。我々は生まれていなかった可能性もあるのです。

日本の英霊たちは、東京の「靖国神社」にまつられています。

日本人ならば、英霊たちに感謝の意をあらわすために、参拝することが当然なのだと思うのですが、日本を取り巻く周辺諸国は「A級戦犯がまつられている」ことを理由に、「参拝」に干渉しています。

今、生きているのは「英霊たちの犠牲のおかげ」・・・そう考えると、参拝するなんてことは当然だと思うのですが・・・。周辺諸国はそんなことお構いなし。当然です。なにより国益を優先する周辺諸国は、日本人の気持ちなど気にとめるはずがないのですから。



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「あなたには関係のないことだ」

台湾出身の日本人「金美齢」さんが、靖国神社参拝に文句を言う外国人には、そう言ってやればいい、とおっしゃっていました。

日本が「悪事」を働いたのだから、永遠に償いつづけ、謝罪しつづけ、反省し続けるべきである・・・。そう主張する周辺諸国に、戦後70年も経過した今、もはや遠慮する必要があるのか・・・。世代が変わったのだから、もはや謝罪も償いも必要ない気がするのですが・・・。

国会議員たちは、「国益」を損ねかねないとして、公人としての参拝を見送り続けています。

しかし、我々個人は、もっと積極的に「靖国神社」へお参りするべきなのかもしれません。敗戦という、同じ悲劇と失敗を繰り返さないためにも。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 西竹一は、硫黄島で亡くなっているが、その最期には諸説あり、どれが真実なのかが不明
  2. 映画「硫黄島からの手紙」では、「西竹一」は迫撃砲で両目を負傷。最期はライフルで自決している
  3. 西と愛馬「ウラヌス」は、イタリアで出会い、ロスオリンピックを制覇。西の死後1週間で、ウラヌスは老衰により亡くなっている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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