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一橋慶喜と西郷隆盛の悲劇!「西郷どん」で慶喜は「最強の敵」となる

明治維新の英雄「西郷隆盛」と、最期の将軍「徳川慶喜」。二人はどのような関係だったのか?

わかりやすく解説いたします。

「徳川慶喜」を「征夷大将軍」にしようと走り回った「西郷隆盛」。

しかし「慶喜」は、明治維新を目指す西郷にとって、「最大の敵」となってしまう運命にあった!


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この記事を短く言うと

西郷隆盛は、島津斉彬の指示により「一橋慶喜」を14代将軍にしようとしていた

・「倒幕」を推し進めた西郷隆盛だったが、一橋慶喜がそれを阻んだ

・最終的に西郷隆盛が「江戸城無血開城」を実現し、徳川慶喜は謹慎処分となった


《西郷隆盛・・・・一橋慶喜を「将軍」にしたかった》

後に倒幕を目指し、江戸城無血開城を実現して、実質的に徳川幕府を終わらせた「西郷隆盛

倒幕を目指す西郷・・・その最大の敵が「徳川慶喜」でした。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

徳川慶喜・・・・将軍職を継ぐまでは、徳川御三卿の1つ「一橋家」の当主として「一橋慶喜」と呼ばれていた人物。

「烈公」と呼ばれた水戸藩主「徳川斉昭」の七男で、幼い頃から優秀であると評判だったお人です。

とてつもなく優秀だったため、12代将軍「徳川家慶」は一時期、実子「家定」ではなく、慶喜を後継者にしようかと考えたほど。

また、13代将軍「家定」の後継者候補として、後の14代将軍「家茂」と、後継者争いが起こったほど、慶喜は優秀でした。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

後に西郷は、倒幕を実現するに当たり、この慶喜に苦戦するのです。その西郷、一時期この徳川慶喜を「将軍」にするために奔走していました。

元々、西郷隆盛が仕え、尊崇していた名君「島津斉彬」公は「一橋派」・・・つまり13代将軍「家定」の後継者として「慶喜」を推していたのです。

そのため、斉彬の家臣だった西郷隆盛もまた、一橋慶喜擁立に奔走。

まさかその慶喜が、後に西郷の最大の敵となるとも知らずに・・・。



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《一橋慶喜と西郷隆盛の悲劇!慶喜は「最強の敵」》

西郷が尊崇していた薩摩藩主「島津斉彬」が14代将軍に「一橋慶喜」を推していたため、西郷も「一橋慶喜を将軍にする」ために奔走。

しかし、慶喜は大老「井伊直弼」の妨害により「14代将軍」になれず、代わりに将軍となったのが「徳川家茂」

徳川慶喜を将軍に出来ず、その上「島津斉彬」が急死。

斉彬の後を継いで薩摩藩の実権を握ったのが、斉彬の弟「久光

久光は、当初「公武合体」・・・つまり、朝廷と幕府を協力させ、諸外国へ対抗しようとしていました。

しかし、その目論見を一橋慶喜に妨害されてしまいます。徳川家の血を引く「一橋慶喜」は、島津たち「外様大名」の政治介入を嫌ったのです。そのため薩摩藩は政治に介入する道を断たれ「島津久光」は激怒。薩摩藩は幕府と協力する「公武合体派」から、幕府を倒す「倒幕派」へと方針を転換。

西郷隆盛もまた、「倒幕」へと大きく方針を転換することとなるのです。



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八月十八日の政変」に続く「禁門の変」で協力し、「久坂玄瑞」や「来島又兵衛」が率いる長州藩と戦い、「第一次長州征伐」でも協力していた「薩摩」と「一橋慶喜」・・・「西郷」と「慶喜」は、ここで完全に決裂。

大河ドラマ「西郷どん」では、「第一次長州征伐」を講和へと導き、「長州藩降伏」を実現した「西郷隆盛」に対して「一橋慶喜」が激怒。当然でしょう。幕府に逆らった「長州藩」・・・普通なら「領地没収」「お家断絶」が当たり前なのに、「家老三名の切腹」だけで話が終わってしまったのですから、幕府のメンツは丸つぶれ。

ドラマでは、「一橋慶喜」と「西郷隆盛」が方針の違いから、この時に決別した事になっていました。しかし実際には、国政に介入しようとした「島津久光」が「一橋慶喜」の妨害により国政から閉め出され、それに怒った久光が「幕府を倒す」ことにしたため、その部下「西郷隆盛」と「一橋慶喜」は決裂することとなったのです。

その後「第二次長州征伐」が行われていた最中に、14代将軍「徳川家茂」が亡くなり、「徳川慶喜」は15代将軍に就任。その影響もあり、「第二次長州征伐(四境戦争)」は幕府の大敗で終わります。

西郷や大久保利通は、天皇から「討幕の密勅」・・つまり「幕府を倒す秘密命令」を引き出そうと東奔西走、四苦八苦。

やっとの事で「討幕の密勅」を出してもらったと思ったら・・・・直後に徳川慶喜は「大政奉還



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大政奉還とは、つまり「政権を朝廷に返します」という宣言のこと。つまり「幕府という組織がなくなる」ことを意味します

「討幕の密勅」を出してもらっていたはずが、幕府が無くなったので、西郷は徳川慶喜を討伐する理由を失ったのです。

その後も徳川慶喜は、次から次へと西郷の「討幕」を阻止する手を打っていきます。そのため徐々に旧幕府と徳川慶喜の存在感が増して、「第二次長州征伐」で長州藩に敗れ、失墜していたはずの「幕府の権威」を回復させていくことに・・・・。それも全て、名君「徳川慶喜」の手腕。

西郷が目指す「討幕」は、名君・徳川慶喜の力により、遠のいていくのでした。

一時は、一橋慶喜を将軍にするため奔走していた西郷。

皮肉にも、自らが目指す「明治維新」を阻む最強の敵となったのが、その「一橋慶喜」だったのです。

共に同じ方向を向いていたはずの西郷と慶喜・・・。最期はぶつかることとなってしまう運命にあったようです。



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《慶喜VS西郷!どちらが勝利した?》

結論から言うと、慶喜と西郷の争いは、最終的に「西郷」の勝利となります。

大政奉還によって「倒幕」を阻止された西郷は、「王政復古の大号令」で慶喜を新政府から排除しようとします。

更には度重なる薩摩藩士による挑発行為に、旧幕臣が激怒し暴発。「鳥羽伏見の戦い」が勃発。

鳥羽伏見の戦いから始まった「戊辰戦争」で、西郷隆盛が事実上率いていた「新政府軍」が「旧幕府軍」に勝利。

最終的に「江戸城無血開城」を実現し、徳川慶喜は謹慎。

とはいえ、慶喜が新政府軍との戦いを徹底的に避けたおかげで内乱は避けられ、諸外国につけ入るスキを与えることはありませんでした。



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新政府軍は・・・・特に「大久保利通」は当初「慶喜の命」を奪うことを目的としていました。

しかし勝海舟と西郷隆盛の会談によって、慶喜は助命。

その後、慶喜は長い間政治に関与することなく、静岡で平穏に暮らし続けます。一説によると「写真家」を目指していたとか。

慶喜を倒した「西郷」は、自らが主導して作った「明治新政府」の悪政を正すために「西南戦争」という、日本最期の内乱を起こして亡くなります。

西郷隆盛率いる「薩摩軍」に対して、政府軍を率いていたのは「大久保利通」。ある意味で、西郷隆盛が迎えた最強最期の強敵は「大久保利通」だったかもしれません。

慶喜から新しい日本を引き継いだ西郷・・・西郷の意思は西南戦争を経て、「大久保利通」に委ねられますが、その大久保利通も、西南戦争の翌年「紀尾井坂の変」で暗殺されるのでした。



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慶喜のその後

引退後の「年表」

「江戸城無血開城」で謹慎処分となり、「静岡」で引退生活をしていた「徳川慶喜」

その後は数多くの「手当」をもらいながら、「写真」やら「絵画」やら趣味に没頭する人生を送ります。

静岡では、自ら名乗っていたあだ名「ケイキさん」と呼ばれて親しまれたのだとか。

1897年(明治30年)、静岡から東京・巣鴨へ移住。その翌年には、明治天皇に謁見。この頃に「朝敵」の汚名を返上しています。幕臣だった「勝海舟」は、この「朝敵の汚名返上」をとても喜んだと言われています。

1901年(明治34年)、文京区春日の邸宅へ移住。

1902年(明治35年)、最高の爵位である「公爵」に任命。貴族院議員に就任し、政治に携わることとなります。

1910年(明治43年)、貴族院議員を辞職し、引退。

1913年(大正2年)11月22日、肺炎で死去。享年77歳(満年齢76歳)。

隠遁生活が長く、ストレスの少ない日々をおくったためか、15人の歴代徳川将軍の中でも、最も長生きをした将軍でした。



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のんびり暮らしたかった「慶喜」

徳川慶喜には「野心」というものが感じられません。

歴史を見ると、慶喜のように強制的に「引退」させられた人間は、必ずと言っていいほど「復活」を考え、度々結果を残しているのです。

平清盛に敗れ、伊豆に引退させられながらも、復活して平家打倒を成功させた源頼朝。

鎌倉幕府・北条一族に敗北し、隠岐へ流されながらも復活し、「足利尊氏」「楠木正成」「新田義貞」などを従えて「鎌倉幕府」を倒した「後醍醐天皇」など。

大久保利通も西郷隆盛も、「源頼朝」「後醍醐天皇」の例を知っていたため、無理やりにでも徳川慶喜を殺害しようと考えていたのです。

しかし、引退した慶喜は、あまり人と会おうとはせず、政治的な野心など少しも持ってはいませんでした。元部下だった「渋沢栄一」には何度か会っていたようですが・・・。

慶喜・・・彼は元々「将軍」という立場にたちたいとは思っていなかったのでしょう。

将軍就任以前から

「将軍になって天下を取るなんて、面倒なことはしたくない」

とこぼしたり

「誰もが私を将軍にしようとするから、困っている」

と嘆いたり、あまりやる気のない人だったのかもしれません。

あんまりやる気が無いにもかかわらず、「徳川家慶」「島津斉彬」「徳川斉昭」「松平春嶽」「山内容堂」「阿部正弘」「西郷隆盛」「月照」などの面々に、将軍へとすすめられて・・・けっこう大変だったのでしょう。



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大河ドラマ「西郷どん」最終話

2018年の大河ドラマ「西郷どん」、その最終話に登場した「徳川慶喜」。牛の絵を書きながら、「西南戦争」で命を落とした「西郷隆盛」について、こんなことを言っています。

「逃げればよかったじゃないか。うしおとこ・・・。」

愛妾「およし」とともに西郷の死を嘆く徳川慶喜。自らすすんで命を捧げた「西郷隆盛」に対し、まるでその死を惜しむかのような最後の一言でした。


慶喜の愛妾「およし(ふき)」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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《一橋慶喜と「一橋大学」の関係とは?》

一橋慶喜・・・その名を聞くと、東京の国立名門大学「一橋大学」を思い出す人も多いはずです。

一橋慶喜と一橋大学・・・何か関係があるのでしょうか?

結論から言えば、直接的な関係はありません。

一橋慶喜の「一橋」というのは、そもそも「苗字」ではなく、「地名」。

現在の千代田区一ツ橋・・・・。そこにかつて「一橋門」という江戸城の門があったのです。

そして、その一橋門の近くに屋敷を持っていたのが八代将軍「徳川吉宗」の息子「徳川宗尹(むねただ)」

吉宗は、自らの息子2人「宗武」には「田安門」近くに屋敷を・・・「宗尹」には「一橋門」近くに屋敷を・・・孫の「重好」には「清水門」近くに屋敷を与えました。

そして彼ら三者を「徳川御三卿」として、「将軍になれる権利」を与え、「将軍家の血筋」が途絶えないようにしたのです。

これは、徳川家康が「尾張」「紀伊」「水戸」に「徳川家」の分家を置いた例にならったもの。



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話を戻しましょう。

一橋大学の名称の由来は何なのか?

一橋大学は「明治18年」に、本校を「神田一ツ橋」に移しています。

そして「1949年5月31日」に、それまでの名称「東京商科大学」から、「一橋大学」と名称変更をしているのです。

由来は勿論、本校があった「一ツ橋」という地名

その一橋大学が、昭和24年(1949年)の学制改革で、新しい「一橋大学」となって、現在に至っているわけです。

ちなみに「一ツ橋」という名前の由来ですが、日本橋川にかかっている橋「一ツ橋」に由来しています。

元々この「一ツ橋」は、日本橋川と小石川という2つの川の合流地点で、その合流地点を表す「ひとつ」という言葉と、そこに存在していた「橋」により、「一ツ橋」と呼ばれるようになったのです。

一橋大学と、慶喜が当主を務めた「一橋家」は、ともに「千代田区一ツ橋」という地名に由来しています。

つまり間接的に両者に関係はあるものの、直接的な関係はないのです。



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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・西郷は一時期、一橋慶喜を将軍にするために行動していた

・倒幕を目指すようになった西郷の最大の障害が、徳川慶喜だった

・西郷は「江戸城無血開城」を実現し、倒幕を成し遂げた

・一橋慶喜と一橋大学には、直接的な関係はない

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 明けましておめでとう2019年もよろしく✌️❤️徳川慶喜さんってNapoleonの様な所があって凄い⤴️⤴️わよ♥️私は、慶喜さん&信長さん&ラファイエット侯爵も好きなのよ❤️好きなのよ❤️進んでいるわよ♥️慶喜さんと水戸黄門さんって血縁あるけれどどんな関係かしら⁉️薩長は、イギリス&徳川慶喜さんは、おフランスを応援していたのよ❤️後からロシア&アメリカもやって来て日本を植民地にする様な事だったのよ❤️

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