「鎌倉幕府」を倒した「後醍醐天皇」の「性格」を、くわしく分析して、わかりやすく解説いたします。
「建武の新政」を行い、「足利尊氏」と戦い、「南北朝時代」をはじめた異色の天皇「後醍醐天皇」。
その性格は、「絶対にあきらめない」「超・理想主義者」でした。
その「あきらめない」「理想主義」が災いし、日本は「南北朝の動乱」という戦乱の時代を迎えることになるのです。
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この記事を短く言うと
- 「後醍醐天皇」の性格は、「絶対にあきらめない執念の男」。そのあきらめない精神で「鎌倉幕府」打倒に成功している
- 後醍醐天皇が行った政治「建武の新政」をみると、「なんでも自分で決めないと気がすまない」「独裁者」な性格がみえてくる
- 「隠岐の島」を脱出し、「南朝」をつくり、最期には「京都を奪い返せ」と遺言。あまりにも執着心が強すぎたのではないか。
- 後醍醐天皇は「超・理想主義者」だった。そのため理想を捨てられなかったのだろう。
後醍醐天皇の性格とは?「絶対あきらめない男」だった
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
「北条時宗」の孫「北条高時」が支配していた「鎌倉幕府」を倒し、「建武の新政」をはじめた、まさに異色の天皇。
後醍醐天皇の性格を一言でいえば「絶対にあきらめない執念の男」。
または「超・理想主義者」といったところでしょうか。
「天皇の親政」・・・「親政」とは、すなわち「天皇がみずから政治をおこなうこと」ですが、後醍醐天皇はそれを目指していました。
実は当時「鎌倉幕府」は、後醍醐天皇の「次の天皇」を、後醍醐天皇の甥にあたる「邦良親王」とすることを、前もって決定していました。
そのため、後醍醐天皇の息子は天皇になることが出来なかったのです。
これに後醍醐天皇は怒ります。
「鎌倉幕府」のせいで、自分の息子を「天皇」に出来ない。
そのため後醍醐天皇は、何度も何度も「鎌倉幕府」を倒そうとします。
そして何度も何度も失敗を繰り返すのです。
1324年、鎌倉幕府を倒す計画が発覚し、後醍醐天皇の部下が処罰される(正中の変)
1331年、後醍醐天皇が「鎌倉幕府」打倒のため、「京都・笠置山」で挙兵(元弘の変)
1332年、「鎌倉幕府」に敗北。「後醍醐天皇」が「隠岐の島」へ流される
1333年、「後醍醐天皇」が「隠岐の島」から脱出。
同年、「足利尊氏」が京都を制圧。「新田義貞」が鎌倉を制圧。「鎌倉幕府」滅亡。
2度も失敗した後醍醐天皇ですが、3度目でなんとか「鎌倉幕府」打倒に成功。
そして「建武の新政」という「天皇による親政」を開始するのです。
何度しくじっても、絶対にあきらめない・・・「執念」がついに実った・・・かに見えましたが・・。
『隠岐の島』脱獄!絶対あきらめない帝王の執念
後醍醐天皇といえば、流罪となった「隠岐の島」から脱出した話が有名です。
後醍醐天皇は、「元弘の変」で鎌倉幕府に敗北。「隠岐の島」へ幽閉されます。
しかし決してあきらめることはなく、「隠岐の島」から脱出。
現在の鳥取県にある「船上山(せんじょうせん)」という山に立てこもり、再び鎌倉幕府と対決するのです。
この「隠岐」という島は、日本海に浮かぶ「絶海の孤島」。
「隠岐」は、かつて「承久の乱」で「鎌倉幕府」に敗北した「後鳥羽上皇」が流された場所です。
後鳥羽上皇は、長年この「隠岐の島」へ幽閉され、脱出することもできず亡くなりました。
しかし後醍醐天皇は、この「絶海の孤島」からの脱獄を、見事に成功させたのです。
脱獄した後醍醐天皇は、「足利尊氏」「新田義貞」らの活躍もあって、「鎌倉幕府」打倒に成功。
「鎌倉幕府・打倒」
「天皇の親政」
これらの理想を叶えるための執念・・・。恐ろしいものを感じますね
後醍醐天皇が行った政治!典型的な独裁者だった
鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐天皇が行った政治が「建武の新政(けんむのしんせい)」。
この「建武の新政」は、わずか「3年」で崩壊してしまいます。
後醍醐天皇の「政治」は、あっけなく失敗に終わるのです。
「建武の新政」とは、どういう政治だったのでしょうか?
「独裁」・・・・簡単に言ってしまうと、「建武の新政」はまさに「独裁」でした。
「鎌倉幕府の討伐に働いた武士たちへの褒美が、あまりにも不公平」
「武士たちの土地を、理由もなく突然とりあげる」
「増税して、民衆を苦しめる」
「天皇の命令である『綸旨(りんじ)』がないと、裁判がすすまない」
などなど。
とにかく「後醍醐天皇」は、何でもかんでも自分ひとりで決定権を独占していました。
そのため決定事項が溜まりすぎて、とどこおり、政治が全然進まなくなってしまったのです。
この「建武の新政」をみてみると、後醍醐天皇が「何でもかんでも自分で決めないと気がすまないタイプ」の典型的な「独裁者」であったことがわかります。
後醍醐天皇・・・とても「プライド」が高い人だったのでしょう。
そして『一度決めたことは、何がなんでもやり遂げる人』だったのです。
『南北朝時代』の幕開け
「建武の新政」を開始した後醍醐天皇ですが、その政治は大失敗。
理由もなく土地を取り上げられ、「鎌倉幕府討伐」の褒美をもらえなかった武士は、一斉に立ち上がります。
後醍醐天皇とともに「鎌倉幕府」と戦った武将「足利尊氏」をトップにして、武士たちは「後醍醐天皇」に戦いを挑んだのです。
後醍醐天皇は「湊川の戦い」で、側近だった名将「楠木正成」を失います。
「足利尊氏」に敗北した後醍醐天皇は、尊氏と講和。
それにより、後醍醐天皇のライバルであった「光明天皇」が即位。
後醍醐天皇は退位させられることとなります。
しかし、後醍醐天皇はそれでも絶対にあきらめませんでした。
1336年、現在の「奈良県・吉野町」へと脱出。
「吉野山」に「あたらしい朝廷」をつくったのです。
この「吉野山のあたらしい朝廷」は、北にあった「京都の朝廷(北朝)」に対して、「南朝」と呼ばれます。
後醍醐天皇は、各地に軍を派遣し、北朝と戦闘を開始。
1336年。このときから、1392年まで「57年間」も続く「南北朝時代」「南北朝の動乱」が始まるのです。
後醍醐天皇の最期!遺言に秘められた理想
1339年、後醍醐天皇は吉野で亡くなります。
享年52歳
しかし、死に際しても、後醍醐天皇は決して諦めることはありませんでした。
「朝敵討滅」
「京都奪回」
これが後醍醐天皇の遺言でした。
「朝廷の敵である『足利尊氏』や『北朝』を倒せ」
「京都を奪い返せ」
という意味です。つまりは「戦い続けろ」ということ。
後醍醐天皇が、死の間際にまで「戦い続けろ」と部下たちに命令したため、戦いは泥沼化。
その後、「足利尊氏」の孫「足利義満」の時代まで、50年以上も「南北朝の争い」は続きます。
この時、後醍醐天皇が最期に「もう戦いは終わらせよ」と命令していたら、戦乱はそれほど泥沼化しなかったはず。
やはり、それが出来ないお方だったのでしょう。
「あきらめられない」
なぜあきらめられなかったのかというと、「理想が高すぎた」から。
「天皇の独裁」
「天皇の親政」
これらの理想をあきらめきれない。後醍醐天皇は「超・理想主義者」だったのです。
『後醍醐天皇』について「ひとこと」言いたい!
後醍醐天皇・・・・確かにその執念は、時代を動かしたと思います。
しかし、やはり後醍醐天皇は「理想主義者」でしかなく、現実が見えていなかったのではないでしょうか。
鎌倉幕府が成立してから「140年以上」。
日本はすでに「武士」が全国を支配する形が、できあがっていたのです。
後醍醐天皇は「武士による支配」を終わらせて、「天皇とお公家さんによる支配体制」をつくろうとしていました。
しかし、そのためには「武士の領地」を取り上げなくてはいけません。
そうなると、「日本全国の武士」を全て敵に回して、全て倒さないといけなくなるのです。
「新田義貞」や「楠木正成」のような、後醍醐天皇に味方する武士がいるにはいますが・・・それは一部のみ。
「武士」とは、当然ですが「戦闘のプロ」。
世界最大の帝国「元」による「元寇」も撃退した「武士」を全て敵にしたら、苦戦するに決まっています。
「天皇の親政」は、この「武士の時代」には、あまりにも「非現実的」だったのです。
例えて言うなら、それは現代日本において、とつぜん政府が
「明日から江戸時代の身分制度を復活させます!
征夷大将軍の独裁を開始します。
士農工商の身分制度も復活させます」
と言い出すようなもの・・・。
反対されまくって失敗するに決まっています。
つまり、後醍醐天皇はそれをやったのです。
「湊川の戦い」で戦死した「楠木正成」は戦死する直前、後醍醐天皇に「足利尊氏との講和」をすすめています。
楠木正成には「後醍醐天皇の理想が、実現不可能」であることも、「足利尊氏には勝てない」こともわかっていたのです。
そんな楠木正成の意見を、後醍醐天皇は却下してしまいます。
そして楠木正成は、勝ち目のない「湊川の戦い」へ出撃して戦死。
楠木を失い、後醍醐天皇は結局「足利尊氏」と講和しています。
後醍醐天皇の「独裁的」な性格が、楠木正成を死なせたのかもしれません。
「かなうことのない理想に執着しすぎた」
「超・理想主義者」
「独裁者」
鎌倉幕府を滅ぼし、「南北朝の動乱」を引き起こした後醍醐天皇。
その性格が、もう少し柔らかかったら、楠木正成は死なず、戦乱ももっと早くに終わっていたかもしれません。
または、のちの世で「明治維新」を成功させた大政治家「大久保利通」のように
「理想主義者でありながら、同時に超現実主義者」
であれば、もう少し別の解決が出来たと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 後醍醐天皇の性格は「絶対にあきらめない」、「執念の男」だったのではないか。
- なんでも自分で決めないと気がすまない「独裁者」でもあった。
- 「超・理想主義者」であったため、死に際しても「朝敵討滅」「京都奪回」という遺言を残した。
- 後醍醐天皇の性格は、「絶対にあきらめない」「独裁的」「理想主義者」だった
以上となります。
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