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後醍醐天皇の性格を分析!その政治と隠岐脱獄でわかる理想主義の素顔

「鎌倉幕府」を倒した「後醍醐天皇」の「性格」を、くわしく分析して、わかりやすく解説いたします。

「建武の新政」を行い、「足利尊氏」と戦い、「南北朝時代」をはじめた異色の天皇「後醍醐天皇」。

その性格は、「絶対にあきらめない」「超・理想主義者」でした。

その「あきらめない」「理想主義」が災いし、日本は「南北朝の動乱」という戦乱の時代を迎えることになるのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「後醍醐天皇」の性格は、「絶対にあきらめない執念の男」。そのあきらめない精神で「鎌倉幕府」打倒に成功している
  2. 後醍醐天皇が行った政治「建武の新政」をみると、「なんでも自分で決めないと気がすまない」「独裁者」な性格がみえてくる
  3. 「隠岐の島」を脱出し、「南朝」をつくり、最期には「京都を奪い返せ」と遺言。あまりにも執着心が強すぎたのではないか。
  4. 後醍醐天皇は「超・理想主義者」だった。そのため理想を捨てられなかったのだろう。

後醍醐天皇の性格とは?「絶対あきらめない男」だった

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

「北条時宗」の孫「北条高時」が支配していた「鎌倉幕府」を倒し、「建武の新政」をはじめた、まさに異色の天皇。

《後醍醐天皇》
「引用元ウィキペディアより」

後醍醐天皇の性格を一言でいえば「絶対にあきらめない執念の男」。

または「超・理想主義者」といったところでしょうか。

「天皇の親政」・・・「親政」とは、すなわち「天皇がみずから政治をおこなうこと」ですが、後醍醐天皇はそれを目指していました。

実は当時「鎌倉幕府」は、後醍醐天皇の「次の天皇」を、後醍醐天皇の甥にあたる「邦良親王」とすることを、前もって決定していました。

そのため、後醍醐天皇の息子は天皇になることが出来なかったのです。

これに後醍醐天皇は怒ります。

「鎌倉幕府」のせいで、自分の息子を「天皇」に出来ない。

そのため後醍醐天皇は、何度も何度も「鎌倉幕府」を倒そうとします。

そして何度も何度も失敗を繰り返すのです。



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1324年、鎌倉幕府を倒す計画が発覚し、後醍醐天皇の部下が処罰される(正中の変

1331年、後醍醐天皇が「鎌倉幕府」打倒のため、「京都・笠置山」で挙兵(元弘の変

1332年、「鎌倉幕府」に敗北。「後醍醐天皇」が「隠岐の島」へ流される

1333年、「後醍醐天皇」が「隠岐の島」から脱出。

同年、「足利尊氏」が京都を制圧。「新田義貞」が鎌倉を制圧。「鎌倉幕府」滅亡。

 

2度も失敗した後醍醐天皇ですが、3度目でなんとか「鎌倉幕府」打倒に成功。

そして「建武の新政」という「天皇による親政」を開始するのです。

何度しくじっても、絶対にあきらめない・・・「執念」がついに実った・・・かに見えましたが・・。



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『隠岐の島』脱獄!絶対あきらめない帝王の執念

後醍醐天皇といえば、流罪となった「隠岐の島」から脱出した話が有名です。

後醍醐天皇は、「元弘の変」で鎌倉幕府に敗北。「隠岐の島」へ幽閉されます。

しかし決してあきらめることはなく、「隠岐の島」から脱出。

現在の鳥取県にある「船上山(せんじょうせん)」という山に立てこもり、再び鎌倉幕府と対決するのです。

 

この「隠岐」という島は、日本海に浮かぶ「絶海の孤島」。

「隠岐」は、かつて「承久の乱」で「鎌倉幕府」に敗北した「後鳥羽上皇」が流された場所です。

後鳥羽上皇は、長年この「隠岐の島」へ幽閉され、脱出することもできず亡くなりました。

しかし後醍醐天皇は、この「絶海の孤島」からの脱獄を、見事に成功させたのです。

脱獄した後醍醐天皇は、「足利尊氏」「新田義貞」らの活躍もあって、「鎌倉幕府」打倒に成功。

「鎌倉幕府・打倒」

「天皇の親政」

これらの理想を叶えるための執念・・・。恐ろしいものを感じますね



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後醍醐天皇が行った政治!典型的な独裁者だった

鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐天皇が行った政治が「建武の新政(けんむのしんせい)」。

この「建武の新政」は、わずか「3年」で崩壊してしまいます。

後醍醐天皇の「政治」は、あっけなく失敗に終わるのです。

「建武の新政」とは、どういう政治だったのでしょうか?

「独裁」・・・・簡単に言ってしまうと、「建武の新政」はまさに「独裁」でした。

「鎌倉幕府の討伐に働いた武士たちへの褒美が、あまりにも不公平」

「武士たちの土地を、理由もなく突然とりあげる」

「増税して、民衆を苦しめる」

「天皇の命令である『綸旨(りんじ)』がないと、裁判がすすまない」

などなど。

とにかく「後醍醐天皇」は、何でもかんでも自分ひとりで決定権を独占していました。

そのため決定事項が溜まりすぎて、とどこおり、政治が全然進まなくなってしまったのです。

この「建武の新政」をみてみると、後醍醐天皇が「何でもかんでも自分で決めないと気がすまないタイプ」の典型的な「独裁者」であったことがわかります。

後醍醐天皇・・・とても「プライド」が高い人だったのでしょう。

そして『一度決めたことは、何がなんでもやり遂げる人』だったのです。



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『南北朝時代』の幕開け

「建武の新政」を開始した後醍醐天皇ですが、その政治は大失敗。

理由もなく土地を取り上げられ、「鎌倉幕府討伐」の褒美をもらえなかった武士は、一斉に立ち上がります。

後醍醐天皇とともに「鎌倉幕府」と戦った武将「足利尊氏」をトップにして、武士たちは「後醍醐天皇」に戦いを挑んだのです。

後醍醐天皇は「湊川の戦い」で、側近だった名将「楠木正成」を失います。

「足利尊氏」に敗北した後醍醐天皇は、尊氏と講和。

それにより、後醍醐天皇のライバルであった「光明天皇」が即位。

後醍醐天皇は退位させられることとなります。

 

しかし、後醍醐天皇はそれでも絶対にあきらめませんでした。

1336年、現在の「奈良県・吉野町」へと脱出。

「吉野山」に「あたらしい朝廷」をつくったのです。

この「吉野山のあたらしい朝廷」は、北にあった「京都の朝廷(北朝)」に対して、「南朝」と呼ばれます。

後醍醐天皇は、各地に軍を派遣し、北朝と戦闘を開始。

1336年。このときから、1392年まで「57年間」も続く「南北朝時代」「南北朝の動乱」が始まるのです。



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後醍醐天皇の最期!遺言に秘められた理想

1339年、後醍醐天皇は吉野で亡くなります。

享年52歳

しかし、死に際しても、後醍醐天皇は決して諦めることはありませんでした。

「朝敵討滅」

「京都奪回」

これが後醍醐天皇の遺言でした。

「朝廷の敵である『足利尊氏』や『北朝』を倒せ」

「京都を奪い返せ」

という意味です。つまりは「戦い続けろ」ということ。

後醍醐天皇が、死の間際にまで「戦い続けろ」と部下たちに命令したため、戦いは泥沼化。

その後、「足利尊氏」の孫「足利義満」の時代まで、50年以上も「南北朝の争い」は続きます。

この時、後醍醐天皇が最期に「もう戦いは終わらせよ」と命令していたら、戦乱はそれほど泥沼化しなかったはず。

やはり、それが出来ないお方だったのでしょう。

「あきらめられない」

なぜあきらめられなかったのかというと、「理想が高すぎた」から。

「天皇の独裁」

「天皇の親政」

これらの理想をあきらめきれない。後醍醐天皇は「超・理想主義者」だったのです。



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『後醍醐天皇』について「ひとこと」言いたい!

後醍醐天皇・・・・確かにその執念は、時代を動かしたと思います。

しかし、やはり後醍醐天皇は「理想主義者」でしかなく、現実が見えていなかったのではないでしょうか。

鎌倉幕府が成立してから「140年以上」。

日本はすでに「武士」が全国を支配する形が、できあがっていたのです。

後醍醐天皇は「武士による支配」を終わらせて、「天皇とお公家さんによる支配体制」をつくろうとしていました。

しかし、そのためには「武士の領地」を取り上げなくてはいけません。

そうなると、「日本全国の武士」を全て敵に回して、全て倒さないといけなくなるのです。

「新田義貞」や「楠木正成」のような、後醍醐天皇に味方する武士がいるにはいますが・・・それは一部のみ。

「武士」とは、当然ですが「戦闘のプロ」。

世界最大の帝国「元」による「元寇」も撃退した「武士」を全て敵にしたら、苦戦するに決まっています。

「天皇の親政」は、この「武士の時代」には、あまりにも「非現実的」だったのです。

例えて言うなら、それは現代日本において、とつぜん政府が

「明日から江戸時代の身分制度を復活させます!

征夷大将軍の独裁を開始します。

士農工商の身分制度も復活させます」

と言い出すようなもの・・・。

反対されまくって失敗するに決まっています。

つまり、後醍醐天皇はそれをやったのです。



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「湊川の戦い」で戦死した「楠木正成」は戦死する直前、後醍醐天皇に「足利尊氏との講和」をすすめています。

楠木正成には「後醍醐天皇の理想が、実現不可能」であることも、「足利尊氏には勝てない」こともわかっていたのです。

そんな楠木正成の意見を、後醍醐天皇は却下してしまいます。

そして楠木正成は、勝ち目のない「湊川の戦い」へ出撃して戦死。

楠木を失い、後醍醐天皇は結局「足利尊氏」と講和しています。

後醍醐天皇の「独裁的」な性格が、楠木正成を死なせたのかもしれません。

「かなうことのない理想に執着しすぎた」

「超・理想主義者」

「独裁者」

鎌倉幕府を滅ぼし、「南北朝の動乱」を引き起こした後醍醐天皇。

その性格が、もう少し柔らかかったら、楠木正成は死なず、戦乱ももっと早くに終わっていたかもしれません。

または、のちの世で「明治維新」を成功させた大政治家「大久保利通」のように

理想主義者でありながら、同時に超現実主義者

であれば、もう少し別の解決が出来たと思います。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 後醍醐天皇の性格は「絶対にあきらめない」、「執念の男」だったのではないか。
  2. なんでも自分で決めないと気がすまない「独裁者」でもあった。
  3. 「超・理想主義者」であったため、死に際しても「朝敵討滅」「京都奪回」という遺言を残した。
  4. 後醍醐天皇の性格は、「絶対にあきらめない」「独裁的」「理想主義者」だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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